第2話
「何か飲み物は?」
「頂きます。ボクは水で結構です。もちろんこの子も」
少女は花三田の言葉からやや遅れ、しかもスローモーションの動きを見ているように、微々たる動きを重ね、首を縦に振る。その間に五秒以上費やしていた。いやにおっとりした少女だ。
その仕草を見送り台所へ向かう。食器棚からコップを二つ取り出す。コップの中に氷を2、3個入れ、麦茶を注いだ。トレイに二つのコップを載せて、二人のところまで運んだ。
二人は、この一軒家の庭を一望できる縁側に座らせている。二人は静かに並んで座っていた。その横にコップを置いた。
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げてから、一口水を含んだ。少女は手探りでコップのありかを探しているようだった。すかさず花三田の手が動き、「はい」とささやかな笑みを浮かべて少女に渡す。小さな手で包むようにコップを受け取ると、微笑を浮かべてこくりと頷いた。
「……」
俺は二人のやり取りを吟味し、花三田に声を掛けようとした。だが、それは花三田に遮られる事となった。
「この子は
どうやら俺の考えている事はお見通しのようだ。
「二人で、か?」
「ええ。経緯は事情で申せませんが、理由としてはお気づきかもしれません。杏梨は盲目なんです」
睦野寺杏梨という少女について告白された。しかし、さほど驚くような事ではなかった。少女の言動からして、そうなのかな、と疑っていた。それが確信へと繋がっただけである。
「それと、この子は声もだめなんです」
「声も?」
これは驚いた。なるほど確かにこの子は首を動かすだけで一言も声を発していなかった。しかし初対面の人にこうも事情を話してもよいものだろうかと、懸念する部分もある。
「二人で暮らしている理由の一つ……二つですかな、それがこれなんですよ」
花三田は睦野寺の頭を優しく、思愛を感じさせるように撫でた。睦野寺は顔を赤らめて小さく首をうずめた。子猫のようだった。
「それだけではありません」花三田はまるで自分の子供を自慢するように誇らしげにつづけた。「杏里はそのおかげで、とでもいうのでしょうか、代わりに『ある事』ができるんですよ」
「『ある事』?」
「フフ、まあそれはそれとして。ところで」花三田は向き直り、唐突に話題を変えようとした。「立派なお庭なんですね」概観し、社交辞令のような感想を口に出した。
どうやら話す気はないようだった。深く追求してもどうせはぐらかされそうな気がしたので、
「……そうでもないよ」と、尾の長い息を吐きながら返事した。
「ご謙遜を……」と歯を見せる。「立派ですよ。毎日しっかりと手入れをしてますでしょ? 想いが伝わってきます」
「手入れをしているのは…………妻だ」
言い渋った。口に出してから、苦虫を噛み潰すように表情を歪ませた。すると、あれから人形のようにまるっきり動かなかった睦野寺が顔だけが俺の方を向いたのだった。どうしたのかと怪訝に感じた。
「そういえば……奥さんはどうかされたのですか? この家には佐木山さん一人しかいなさそうですけど」
睦野寺の頭を撫でながら聞く。
言おうか言わないか迷った。だが気がつけば口に出していた。
「出て行った。昨日な。実は言うと俺は会社を経営していてな、その会社が倒産しかかっているものだから、イライラしていて、それを妻にぶつけてしまったんだ。そうしたら子供つれて実家へ帰っちまった」
頭を抱え込んだ。自責がうんうんと追い立てる。一つの出来事がきっかけで大切にしていたモノが一つ一つ消え去った。今は後悔と遺憾の心しかない。
言葉は溢れる。壊れた水道管のように、止めようにも、延々と流れ溢れるばかりである。
――妻とはホンの些細な事で口論になった。席が切れたように怒りを言葉に乗せ、弾丸のようにぶつけた。妻も負けまいと押し返す。それに対してとうとう限界を超え、手を出してしまった。妻がたたかれた箇所を抑え、俺を見つめた。その表情を今でも鮮明に覚えている。裏切られたような目だった。喧嘩は今までに何度かはしたが、手までは出した覚えはない。どうかしてしまっていたのだ、あのときの俺は。そのまま妻は部屋にいる子供を無理やり連れ出し、出て行った。
――妻と結婚してから十年経つ。その間に小学生に上がったばかりの息子と、三歳になる娘がいる。妻子の為に、とより一層奮励して授業に取り組んだ。妻とは互いに協力し合い、社長となったとき、オレの側にいて、いつでも支えてくれていた。それが何よりも励みとなった。子供たちの無邪気にふりまくあの笑顔に何度も癒された。
――だが、小さなミスがどんどん積み重なり、事業が不安定になっていき、それにつれてストレスが積み重なっていき、精神が磨耗していた。そしって大一番の口論で、全てをぶつけてしまった。
「そう……だったんですか……」
思慮するように目を落とす。
「大変でしたね。ボクも分かります。今の会社を興したとき、やる気に満ち溢れていて、さあやるぞと、活気に溢れていました。しかしいざとなると客足がなく、収入もゼロに近かったです。やっとの思いでお客が来たと思いましたら、失敗し、満足にして上げられなかったことがありました。当然焦燥が常に付きまとい、心身に付加がかかっていきました」
「理想と現実は、上手く交わらないものだよな」
幼い頃、親父の跡取りと決まっていた俺は、夢を描いていた。一流の会社にして、世界トップの企業にする、と、いかにも子供らしい絵空事ばかりぬかしていた。親父にこの事を話すと、大笑いして、「まかせたぞ」とか「お前にならできるかもな」と言われ、それがどんなに嬉しい事だったか。そして、必ずそうなってみせると、野心を抱いていた。だが、現実はこんなもんだ。絵空事のように事はそれほど単純ではない。描いた理想と真逆の道を歩んでいるのだから、なおさら滑稽だ。
「花三田が会社を興したときは、その子と二人だけか?」
「いいえ。この子は、仕事で預かっているんです。ですけど、今は楽しいです。杏梨が来てから、依頼が増えたり、解決できたり、幸運の女の子です」
睦野寺は褒められて、頬が綻んだ。なるほどいい関係だな、と羨ましく思った。
「となると、一人で会社を設立したのか?」
「はい、一時の身に任せて。当時の……とはいっても、半年ぐらい前ですけど、その時のボクと出会ったら、叱責したくなりますよ。ですけど、苦労した先に、見つけられなかった幸せの在りかに気づく時もあります」
「随分と大人びた事言うんだな。お前はそれを無くさないようにしっかりと抱えとけ」
「分かりました……って、これでは立場が逆転していますね」ハハハと大きく笑った。
俺はそんなに笑えはしなかったが、微かに唇の先が緩んだ。花三田というこの少年に少しだけ心が動かされてきている様な気がした。だけど、それで失ったものが帰ってくる由もない。失えば、それだけ溝が出来る。傷が出来る。たとえそれらが帰ってきたとしても、それらを修復しようとする気持ちが揺らぐ。
「少しお聞きしてもよろしいでしょうか?」
十分な間を取り、花三田が言葉を紡いだ。
「ああ」
「あの木は何でしょうか?」
指差した先に、一本の枯れ木があった。単調な声で「桜の木だよ」と説明した。花三田は眉をひそめて不思議そうに桜の木をもう一度見た。
桜の木、とは言うものも、今の時期に満開の花びらを煌びやかに舞わさない、くたびれた冬の木である。花三田が怪訝に感じるのも無理もなかった。あの木はすっかりと老衰していた。
「あの桜の木は、曽祖父が会社を設立するにあたって、この家の庭に安泰を願掛けして、植えた記念樹だ。子供の時に祖父や親父に、耳にタコが出来るぐらい聞かされた。そして、これは曽祖父から祖父へ、祖父から親父へ、親父から俺にと、受け継がれる大切な木だ。互いに見守るように、共存してきた。一世紀あまり。苦節な時や歓楽な時をずっと分かち合い、生きてきた。もはや家族同然だ」
水魚の交わりのように必要とし合っていた。だけれども、今やその家族が危篤の状態に陥っている。よりどころの水が枯れ、なす術も無く、死期を待つように。
俺はそれを見殺しにするしかない。自分の事で手一杯だと言い訳を聞かせ、家族を乾ききった大地に置き去りにするのだ。
あの思い出の中で咲く満開をもう二度と見られなくなると思うと、やるせない気持ちになる。
「あの木、近くで拝見してもよろしいでしょうか?」
「構わないよ」
にっこり笑うと、「杏梨も行こう」睦野寺の手を引き、盲目な少女の足取りに合わせ、ゆっくりと歩いていく。遅れながらその後を追った。
「実どころかも葉もありませんね」
花三田は優しく桜の木を撫でる。睦野寺は、そっと幹に触れたままミリ単位でしか動かなかった。じっと黙して、まるでこの桜の木と会話をしているようだった。
「もう、寿命なのかもな……」
桜も、会社も、随分と長く生きてきた。ここらが、潮時なのかもしれない。
もう休んでくれ、十分だ。木をそっと優しく撫でた。
触れた瞬間、様々な桜の木との思い出がこみ上げてきた。そうすると唐突に目頭が熱くなった。
「毎年な…………この木の下で、花見をするんだ」
鼻を啜り、桜の木から離れる。天を仰ぎ見て、口を動かした。
「ご家族とですか?」
「主にはそうだな。だけど、子供の時とかよく同級生を誘っていたな。大人になっても、そいつらをここに呼んでいた。昔は、あの時は、楽しかった」
今から三年ぐらい前になる。友人とここで最後に酒を交わしたのは。あの頃はまだ会社を引き継いでなく、親父もまだ元気であった。毎年恒例の花見をここで行った。特にこれといった問題は無く、例年通り賑やかにわいわいした。
俺は友人たちと歓談し、仕事はどうだとか、妻や子供の自慢だの、他愛もない話、一年の出来事をここで盛り上がっていた。そして、酔いつぶれるまで飲んだ。この時はまた来年、と遠いようで近い未来を想像し、また、と願い、その日が終わった。
それから一年後、俺は会社を継いだ。毎日が忙しく、その時期になっても暇な日は無かった。ちょうど友人たちとのスケジュールが合わなかったりして、あっても雨天で中止になった。なので、昨年は家族だけで行った。そして今年は桜が枯れ、この様であり、誰も呼ぶ事は叶わない。身内でやろうにも、味がなかった。それよりも、深刻な状況に拍車が掛かってしまっているのだ。
小学校からの付き合いだったそいつらとはもう一年も連絡を取っていない。仕事に忙殺され、それどころではなかった。
「久しぶりに会ってみたいな。大野、長島、またバカ騒ぎをしたいな。満開になったこの桜の木の下で……」
叶うわけがない、それこそ絵空事に。そんなもしもの出来事に感傷する。だけど、もしかしたら、桜の木に芽が芽吹くかもしれない。が、無理な話だ。
「佐木山さん……」
「ホント、俺って駄目な人間だよな。代々受け継がれてきたものをどんどん潰してしまう。我ながらほとほとと呆れ返っちまう」
強がって笑ってみた。しかしそれは空気に溶けて消えていった。舞って撒き散らす花もないのに無意味に春風が木々を揺らす。
「あの……今日一日、ボクに時間をくれませんか?」
「……というと?」
「夜まででいいんです。ただ夜まで待ってくださりますか?」
「別に……構わないが……」
花三田の意図が掴めず当惑する。
「ありがとうございます。それでは、少し出かけてきます」
「え、お、おい……」
「夕方ごろには帰ります。そうですね、日が落ちる頃には家にいてください」
花三田は言うだけ言って睦野寺の手を引いて立ち去ろうとする。
「一体どこに行くんだ?」
突然の行動に対して詰問する。
「営業秘密、ですかね」フフと笑う。「安心してください、必ず、あなたの今抱えている気持ちを、晴らしてみせます。ですから、待っていてください」
花三田は俺に近づくと手を握り締めた。曇りのない目を見せ付けられた。それに合わせて睦野寺も握り締めた。信用してくれと言わんばかりに。
「あ、ああ……」生返事をするだけだった。
「任せてください」
手を離し、今度は睦野寺の手を握って、踵を返す。俺はその二人の背中を黙って見送るだけだった。
「あ、そうだ、佐木山さん」
またピタリと止まる。顔だけをこちらに向け、にっこりと笑う。
「一言だけ伝えたい事があります。佐木山さん、人と人との心が繋がるように、人とモノも心が繋がっているんですよ」
意味深な言葉をかけ、立ち去っていった。俺はただ呆然と立ち尽くしていた。
この花三田の言葉の真意に俺が気付くのはもうしばらく後の出来事だった。
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