紅葉

下東 良雄

紅葉

 紅葉が始まり、所々が黄色く色づいてきた山々。その間を縫うようにして、アスファルトの道路が続いている。走っている車の姿は見えない。道路に沿って何軒かの家が立っているが、そのほとんどは家というよりも廃屋に近く、空き家であることが分かる。

 限界集落。そんな言葉が当てはまる場所だ。


 そんな中、一軒の家の広い庭で割烹着姿の女性が洗濯物を干している。化粧っ気はなく、目尻にシワが目立ち、その手も荒れてはいるが、年齢を重ねた上品な美しさが感じられる女性だ。


 ポコン


 割烹着のポケットに入れていたスマートフォンからメッセージの着信音が鳴った。メッセージを確認する女性。


『母さん、再来週の土曜日だからね! 遅刻しないで、ちゃんと来てよ! ホテル取ろうか?』


 そんな息子からのメッセージを読んで、小さく溜息をついてから返信を送る。


『はいはい、大丈夫よ。もう新幹線の切符も取ってあるし、前日に上京する予定だからホテルも予約済み』


 シュッ


 ポコン


『OK! じゃあ、式の当日よろしくね!』


 息子からの返信に優しく微笑んだ女性は、スマートフォンをポケットにしまい、白い雲が流れる青い空を仰いだ。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 私は長谷はせあおい、四十八歳。

 ひとり息子の正一しょういちがもうすぐ結婚する。


 女手ひとつで大切に育ててきた正一は、大学への進学を機に上京。こんな田舎の山の中でのひとり暮らしは寂しいけど、こまめに連絡もくれたし、大学卒業後も東京で頑張っているようだったので応援していた。

 半年前、紹介したいひとがいると連絡が来た時には、そんな気配を微塵も感じさせていなかったので、さすがに驚いた。どんな相手なのかドキドキしたけど、優しそうな笑顔が可愛らしいとても素敵なお嬢さんだった。何より驚いたのは、お嬢さんの方から「一緒に住みませんか?」と同居を提案してきたこと。おそらく正一が説得したのだろう。これまでも何度か「東京で一緒に暮らさないか」と言われていたし。でも、気持ちは本当に嬉しいけど、新婚生活をふたりで楽しみなさいとお断りさせてもらった。


 そんな優しく思いやりのある息子に、ずっと秘密にしていることがある。絶対に知られてはいけない秘密。このまま墓の中に持っていかなければならない秘密。


 正一には、そしてお嫁さんには、あの秘密は知られませんように。神様、お願いいたします……


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ――結婚式当日 式場


 とても素敵な式だった。新郎新婦も、招待客も、みんなが幸せそうな笑顔を浮かべている。正一が上京してからどれだけ頑張ってきたか、お嫁さんがどれだけ素晴らしい女性なのかが伝わってくるようだった。


 そして、式はクライマックス。新郎新婦から両親への感謝の手紙だ。

 まずは、お嫁さんが手紙を読んだ。感動というよりも、みんなが笑顔になるような内容で、途中あちらこちらの席から笑い声が漏れ、最後は大きな拍手で終わった。


 そして、正一から私への手紙だ。


「母さん、僕に秘密にしていることがあるよね」


 ひと言目のその言葉に、私の頭は真っ白になった。


「僕、全部知ってるよ」


 慌てる私。

 正一は会場中を見渡すように顔を上げて続けた。


「ご列席の皆様にも正直に申し上げたいと思います」


 会場はシーンと静まり返った。


「僕は、母さんの本当の子どもではありません」


 ざわつく会場。

 私に視線が集まる。


「僕の本当の母親は、母さんの姉・かえでです」


 私はいたたまれなくなり、そのまま俯いてしまった。


「僕が生まれる前に父が亡くなり、祖母と楓、そして母の三人が残りました。生みの親である楓は僕を生んだ後、祖母と共に祖父と父の遺産を持って家を出ていきました。僕を家に残して」


 家の居間の畳の上でひとり泣いていた赤ん坊の正一を思い出す。

 忘れるわけがない、あの光景を。


「母は、祖母と楓からまるで奴隷のような扱いを受け、毎日罵声を浴び、時に暴力を振るわれていたと、当時向かいにお住まいだった方に聞きました」


 驚いて顔を上げた私に正一が微笑んだ。


「お向かいの相川さん、今ふもとの街に住んでいてね、色々な話を聞かせてもらったよ。あの時、助けてあげられなくて申し訳なかったって、相川さん、泣いて謝ってた」


(相川さんが正一に……そうだったのか……)


 正一はもう一度会場を見渡すように顔を上げた。


「僕は、そんな酷い姉の子どもで……母さんが僕を育てる義理はありませんでした……でも……それでも、母さんは僕をここまで育ててくれました」


 私に顔を向ける正一。


「僕が苦労するようなことはなかった。それは、母さんが身を削って働いてくれたからです。僕が我慢するようなことはなかった。それは、母さんがすべてを犠牲にしていたからです」


 あの頃の苦労が脳裏に甦り、瞳から涙が溢れてくる。


「家計を支えたくて、高校卒業後に働きたいと言ったら、母さんは僕にこう言ったね。『私は中卒で、高校にすら行かせてもらえなかった。そのせいで苦労することがたくさんあった。だから、大学に行ってちゃんと勉強をしなさい。お金の心配はいらないから』と」


 正一の姿が涙に霞む。


「僕は上京して大学に進学、そして伴侶となる奈保子さんと出会うことができました。母さんが僕を育ててくれなければ、母さんが僕の背中を押してくれなければ、僕は今ここにいなかった。母さん、いままで僕を育ててくれて、本当に、本当にありがとう」


 涙が止まらなかった。


「最後に……ひとつ、母さんにお願いがあるんだ」


 正一に顔を向ける私。


「僕にとって、母親は母さんひとりだけです。だから……だから、これからも『母さん』と呼んでもいいですか?」


 私は涙をこぼしながら、笑顔で大きく頷いた。

 その瞬間、式場中から割れんばかりの拍手が巻き起こった。


(良かった……本当に良かった……)


 私は止まらない涙をぬぐい続けていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ――式の翌日


 山間部の道路を車で走る私。

 式も無事終わり、自宅へ帰宅するところだ。

 車窓に流れる山々は、紅葉ですっかり黄色く色づいていた。このあたりの山々は、黄色く紅葉するヒトツバカエデの群生地らしいので、そのせいだろう。黄金に輝く山々は、私の心の中を映し出しているようだ。


 お嫁さんの奈保子さんは、最後まで「東京へ出てきませんか? 一緒に暮らしましょう。経済的な負担はかけませんから」と言ってくれていたけど、改めてお断りさせてもらった。嬉しい申し出だけど、ふたりだけの穏やかな生活を送ってほしい。


 自宅の庭に車を止めて、そのまま外に降りた。

 私は空を仰ぎ、そしてすぐ近くの紅葉する山に目を向ける。

 そして、笑顔で呟いた。


「あぁ、……」


 正一が私の子どもではないことは、戸籍を見れば一目瞭然だ。こんなものは隠しようがない。いずれバレるものだ。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 祖父と父が亡くなり、私は母と姉(楓)に虐げられていた。

 長女至上主義で姉を猫可愛がりする母、そんな母の威光を利用する姉。

 私は高校にも進学させてもらえず、罵声を浴び、布団叩きで何度も叩かれながら、自宅で奴隷のような扱いを受けていた。

 やがて、祖父と父の遺産を食い潰した母と姉は、私に働くように命じる。搾取が始まったのだ。

 私は、もう考えることをやめた。


 昼は工場、夜はスナックで働いた。

 給与は、すべて母と姉に吸い取られた。


「長谷さん、大丈夫?」


 工場の同僚の男性、孝之たかゆきさん。

 精気のまったくない目で働く私を心配してくれていたのだ。

 彼に腕を引かれて社員食堂へ。豚汁定食をご馳走になる。

 私は人目をはばからず、豚汁定食をガツガツとかっこみながら、忘れかけていたひとの優しさに涙が溢れた。


 そんな関係が何ヶ月か続き、お互いに意識するようになった頃。


「オレと結婚しないか?」


 孝之さんのプロポーズを、私は一も二もなくお受けした。

 好きなひとと一緒にいられる。幸せになれる。あの家からも出ていける。


 しかし、母は私たちの結婚を許してくれなかった。

 私が出ていけば、家の収入が無くなるからだ。

 孝之さんと根気強く説得する日々が続いた。


 しばらくすると、孝之さんと連絡が取れなくなる。

 そんな時だった。


「私のお腹の中に孝之さんとの子どもがいるの」


 姉の言葉が理解できなかった。

 どういうことなのだろう。孝之さんは姉と密通していたのか?

 孝之さんとはその後も連絡が取れず、姉のお腹はどんどん大きくなっていった。子どもは男の子らしい。


「長谷家の跡取りができた! すぐに籍を!」


 喜ぶ母と姉。孝之さんと姉が夫婦になる? なぜ? どういうこと?

 私は一通の手紙でそのすべてを知ることになった。

 孝之さんから私への手紙。

 遺書だった。


 そこに書かれていたのは、私との結婚について、母を説得する代わりに一度だけ関係を持ってほしいと姉から言い寄られ、関係を持ってしまったこと。

 しかし、説得している様子はなく、挙げ句に子どもが出来たから責任を取れと姉に迫られ続けていること。

 私を苦しめることになった軽率な行動を後悔していること。

 そして、最後にこう書かれていた。


『葵、愛してる』


 孝之さんが見つかったのは、この一週間後。

 遠く離れた地の海の中。近くの崖からの自殺だった。


 私は姉を問い詰めた。しかし――


「アイツ死んだの? まぁ、イケメンだったけど、あっちの方は大したことなかったわね」


 にやけながら侮蔑の言葉を吐く姉。そして、母も――


「男にうつつを抜かすから稼ぎが悪いんだ!」


 私は覚悟を決めた。そして、タイミングを待った。


 奴隷のような扱いと搾取に耐える毎日。

 やがて、姉は男の子を出産。

 しかし、子どもに興味の湧かない姉は育児をせず、そのすべては私が請け負っていた。


 姉の出産から半年。

 姉は自分の部屋でうたた寝し、母は入浴中だ。

 ついに時が来た。


 私は、母と姉を殺した。


 姉は、ビニール紐で絞め殺してやった。

 母は、入浴中に浴槽へ沈めてやった。

 苦しそうにもがくふたりの姿に溜飲が下がる。

 動かなくなった母と姉を見て、にやけ顔の止まらない私。

 もう心が壊れていたのだろう。


「おぎゃー、おぎゃー、おぎゃー」


 居間から赤ん坊の泣く声が聞こえる。

 私は居間へ戻った。

 泣き叫ぶ赤ん坊を胸に抱くと、すぐに泣き止んだ。

 赤ん坊を見つめる私。


(この子は孝之さんの子ども。だから、私が育てる)


 ひとを殺したばかりの私の指をきゅっと握る赤ん坊。

 なぜだか涙が溢れ、止まらなかった。


(改名もしよう。この子の名前は……『正一』)


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ポコン


 メッセージの着信音が鳴った。

 スマートフォンを確認する。


『母さん、そろそろ着いた?』


 返信する私。


『うん、丁度今着いたところよ』


 シュッ


 ポコン


『そっか、良かった! ところで、今更なんだけどさ、楓さんって今どこにいるんだろうね』


 やっぱり産みの親は気になるのかな。


『さぁ、お母さんも知らないわ。案外すぐ近くで正一を見守っていたかもしれないわね』


 シュッ


 ポコン


『変なコト聞いちゃったね、ゴメン。オレの母さんは、母さんひとりだけだからね!』


 ふふふっ。私は「ありがとう」のスタンプを押して返信、スマートフォンをしまった。

 そして、もう一度すぐ近くの紅葉する山に目を向ける。

 黄色く色づいたヒトツバカエデが山肌を黄金に輝かせていた。

 そのままその山の山頂の方へと視線を向ける。


 なぜか山頂近くだけが赤く色づいていた。

 ヒトツバカエデは黄色く色づくはずなのに、まるで血の色のような赤さで紅葉している。


「すぐ近くで見守っていたのよ、正一」


 にやけ顔が止められない。


「そろそろ骨を掘り出して、焼いて砕いて粉にしなきゃね。ふもとの養豚業者の豚さんに食べてもらいましょうか。豚さんもあんな風に赤くなるのかしら。うふふふふふふふふふ」


 私は車から結婚式の引出物やお土産を取り出し、骨の処理に思いを馳せながら家に入っていった。



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紅葉 下東 良雄 @Helianthus

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