考えているとおりにしかならない

古 散太

考えているとおりにしかならない

 夏の終わりの夕暮れ。空にはすこしずつ赤みが増していく時間帯。

 海沿いの町の堤防沿いの道は仕事帰り人たちや、子供たちが遊びから帰ってくる。堤防を越えると、右に岩場、左に砂浜がある。その砂浜に大人の女性がひとり、いつからそうしているのか、体育座りで海を見つめている。白いTシャツにデニムのパンツ、ビーチサンダル姿。肩で切りそろえられた髪が時折、潮風に揺れるが、女性は微動だにしない。

 寄せてきては引いていく波を、ただ見つめている。

 岩場のほうからひとりの僧侶がよろよろと姿を見せる。彼は岩場に足を取られながら、すこしずつ砂浜へと近づいてくる。

 女性の視界には入っているが、まったく意識してしていないため存在を認知していない。

 僧侶はやっとの思いで岩場を抜け、砂浜にたどり着く。女性の姿を目にとめると、迷うことなくまっすぐに女性の下へと歩いてくる。

 網代笠に法衣をまとい、雪駄履き。胸元に頭陀袋、背中に風呂敷包みを背負っている。女性のすぐ横に立つ。

 「すみません」

 僧侶が声をかけると、おどろいた表情で僧侶を見上げ、言葉も出ずにただただ驚いた表情。

 「すみません、驚かせてしまったでしょうか?」

 女性は自分を取り戻すと、「いえ」とだけ答える。

 「あのですね、この辺りで泊まれるところを探しているんですけど、ご存じありませんか?」

 空を見上げ、しばらく考えてから、あらためて僧侶を見る。

 「この辺りのことをあまり知らないので・・・」

 僧侶は残念そうにうつむいて息を吐く。

 「そうですかぁ、残念。食事のとれるところとか・・・は?」

 「分からないですね」

 「そうですかぁ、ダブルで残念でした。ところであなたはここで何を?」

 「海を見てました」

 「もうそろそろ冷えてきますよ」

 「ここはあちらの岩場のおかげで風もゆるいですし、大丈夫ですよ。お気遣い、ありがとうございます」

 「このあたりのことを知らないということは、旅の方ですか?」

 「旅と言えば旅ですけど、実家に帰省中で」

 視線を海の彼方に戻す女性。

 「あぁ、それなら知らなくても納得ですね。あ、それならこの近くにお寺、知りませんか。できれば禅宗のお寺がありがたいんですけど」

 「禅宗かどうか分かりませんが、お寺なら二、三軒あったと思います。」

 僧侶はすこし距離を取って女性の横に座る。

 「私、怪しいものではなくてですね、旅をしてる修行僧で、青野利雪(あおのりせつ)と申します。今日この町にたどり着いたんですけど、コンビニも食堂も何も見つけられず海沿いを歩いてまして、朝から何も食べてないんです」

 女性は訝し気な視線を横目で利雪に向ける。

 「夕暮れの海岸にお坊さんって、十分怪しいですよ」

 「それはそうかもしれませんね」

 利雪は大声で笑う。

 「それでですね、お寺の場所だけ教えていただきたいんです。それだけ教えていただければすぐに消えますので」

 女性は面倒くさそうにため息をついてから、砂の上に指で地図を描きはじめる。

 「ここが後ろの堤防です。この道をこっちへ向かって右に曲がって・・・」

 地図を描きながら、丁寧に道順を伝える。

 「ここにお寺があります。あ、もしかしたらこのお寺の手前に食堂があったかも知れない。でも早く行かないと閉まっちゃいますよ。この辺のお店って、夕方には閉まっちゃうみたいですから」

 「あぁ、そうですか。いやぁお時間を取らせました。申し訳ありません。ご丁寧にいろいろと教えていただいて。それでは一度、教えていただいたお寺に行ってみようと思います。本当にありがとうございました。あなたも風邪などひかないようにお気をつけくださいね。それでは失礼しま・・・」

 「ちょっと待って!」

 急に大声で、立ち上がりかけた利雪を止める。

 「ちょっとこちらの用事もいいですか?」

 中腰の状態で答える利雪。

 「はい、どうぞどうぞ」

 「一度座ってもらえます? その恰好じゃ話しにくいし」

 「あぁ、そうですね。では失礼して」

 そう言って女性の横に腰を下ろし、胡坐をかく利雪。

 二人のあいだは五〇センチほど。そのあいだを潮風が通り過ぎていく。無言の時間がしばらく続く。

 利雪はその間じっと海を眺めている。

 「あの・・・」

 女性が口を開く。

 「私、都会で仕事してたんです」

 「してた?」

 「すべて街に放り出して実家に帰ってきたんです」

 「何かあったんですか?」

 「いえ、特別なことは何も。ただ・・・漠然とした不安っていうのかな。このままこの街で暮らして、仕事して、結婚してっていうのが、とても怖くなってしまって」

 「それで何もかも放り出して地元に戻ってきた、ということですか?」

 「はい。あのまま都会の片隅にいることが怖くてしょうがなかったんです」

 「まぁそういうこともあるかも知れませんねぇ。分からないでもないです」

 「これからどうしたらいいのかって考えだしたら、とても自分を支えきれなくなって。それで実家に戻り、こうして水平線に太陽が沈むのを見てます。いくらかでもいろんな嫌なことを忘れられますから」

 「ひょっとして、恋人の方とか・・・」

 女性は悲しそうな笑顔になる。

 「放り出してきました。仕事も恋も生活そのものも、このまま続いても先が見えてるっていうか、先細りの人生が想像で来ちゃったんですよね。そしたらすべてが嫌というか、息苦しいような気がしてきちゃって」

 「では恋人の方とケンカ別れしたとか、そういうことではないんですね?」

 「えぇ、何も。私が逃げ出しただけです。そういう言いかたをすると私がすっごいワガママで嫌なやつみたい」

 「いえいえ、感覚的なものは人それぞれですし、他人には理解できないものですからね。しょうがない部分もあると思いますよ」

 太陽は水平線の向こう側を目指し、刻一刻と高度を下げていく。潮風はどこか余所をまわっているのか、ほとんど吹かない。耳に入るのは打ち寄せる波の音だけ。

 「あ、まだ自己紹介してませんね。小塚一美(こづかひとみ)といいます。すみません、愚痴みたいになっちゃって」

 利雪のほうを向いて会釈する一美。それに合わせて利雪も合掌して頭を下げる。

 「あらためまして、青野利雪と申します。旅に出ている修行僧、というより実家の寺を追い出されて旅をすることになった修行中の禅僧、です」

 一美は目を丸くする。

 「追い出されたって、何かしでかした、とか?」

 「いえいえ、親子喧嘩のなれの果てです。師匠が父親だとつい余計なことを言っちゃうんですよ」

 「それからずっと旅なんですか? いつから?」

 「二年ぐらい前でしょうかね」

 「一度も実家に帰らず、ですか?」

 「帰る気もありません。旅をしてる方が私には合っているようです」

 一美は水平線を見つめる。

 「私もそんな勇気があれば、こんなに悩まなくても済んだのかなぁ・・・」

 一美の視界に突然、利雪の左手の甲が入ってくる。

 「私のお話を聞いていただいてもよろしいですか?」

 利雪を見つめる一美。

 「はい、構いませんが」

 「すこし長いお話になるかもしれませんが、できるかぎり簡潔にいたしますので、しばらくの辛抱とご容赦をお願いしておきますね」

 利雪を見つめたまま、小さくうなづく。

 「漠然とした不安というのは、ほとんどすべての人にあるものです。なぜ不安があるのか、解体してみますね。

 ひとつには自我があるということ。一般的にはエゴと呼ばれるものです。これが一番大きな理由です。エゴとは『自分が自分であると認識する自分』です。分かりにくいでしょ? 簡単に言うと、一美さんが、自分は小塚一美であると知っているかどうかというお話です。もちろん知ってますよね?」

 「はい」

 「ではその根拠はありますか? あなたが小塚一美である証拠です。ただしここでは、砂漠の真ん中でひとり、身につけているものは何もなく、手荷物もありません。どうでしょ? この条件で、あなたが小塚一美である、という根拠は用意できるでしょうか?」

 しばらく考えて、髪を後ろに流すと利雪の目を見つめる。

 「何もないですね。ビックリしました」

 「そうなんです。でも自分では一美さんだと分かっていますよね? この分かっている意識が自我でありエゴなんです」

 「たしかに。自分のことは自分では分かってますよね」

 「次に二つめです。人は未来を想像してしまう傾向が強い、ということですね。

 実質的には、未来のことは誰にも分かりません。予定やスケジュールと呼ばれるものはただの約束であり、確実にそれが物理現象として起こるということではありません。明日の正午に会う約束をしても、自分にも約束した相手にも、それまでに何が起こるか分かりませんよね。

 人が生きるというのは、約束事ばかりで出来ているわけではありません。朝に目が覚めてから夜に眠るまで、まぁ逆の人もいるかもしれませんが、自分に意識があるかぎり、常に何かを体験しています。そこに約束が入ってくるだけです。

 約束以外の部分について、誰も保証してくれるものではありませんし、実際に何の保証もありません。病気やケガ、事件や事故に巻き込まれたりする可能性もゼロではありません。多くの人が、自分の死を病院で老衰とイメージされますが、そうとは限らないのが実情です。

 そして三つめ。人が未来を何気なく想像するとき、良くないことから想像するんです。

 危険管理能力と言えば聞こえがいいですが、その意識が強すぎると、人生はそちらへ向かってしまいます。そうなると当然、都合の悪い人生、自分が望んでいない人生を体験することになります」

 「なぜそうなるんですか?」

 「ここでひとつ、人生の秘密をお伝えします」

 「はい」

 「人生はね、自分の考えてるとおりにしかならないんですよ」

 急に訝し気な目になる一美。

 「もしそうだとしたら、私、地元になんて帰ってきてないです」

 「それだって、一美さんが地元に帰ると決めたから帰ってきたわけでしょ? だったら思ったとおりなんじゃないですか?」

 「あ、たしかに」

 急激に腑に落ちた一美は、困ったような顔をしてうつむく。

 「案外知られてないんですけどね。誰もが自分で考えて決めたことは、その通りになってるもんなんです。夢や希望に向かって進もう、といったことは、多くの人がちゃんと決定して、その通りのことを体験していきます。しかし何気ない日常の一コマとなると、きちんとした決定をせずに動いてしまってるんです。その場合、潜在的に考えてること。これは信念とか常識と思ってるようなことになりますが、それを決定として、人生の体験が作られます。

 その信念とか常識だと信じていることというのは、たいてい政府か企業の受け売りで、未来は危ないとか、これを持ってないなんて危険すぎる、みたいな脅し文句を使って、人を不安にさせてます。実際に未来が危険かどうかはまだ分からないんですけどね。そういった売り文句の刷り込みによって、多くの人が未来に対してネガティブな印象を持っています。それが日常の一コマで決定する際に顔を出すんです。

 もちろん、リスクは少ないに越したことはありませんが、未来に悪いことが起こる前提で生きていくのって、しんどくないですかね?」

 「本当ですよね。利雪さんのお話を聞いていて、思い当たることがたくさんあります。私、未来は真っ暗でしたから。不安や心配ばかりを感じてて・・・」

 「それが一般的だと思いますよ。本当に多くの人が、失敗した場合とか上手くいかなかった場合みたいに未来を見てますからね。アスリートの人たちがそんな考えで大会などに出場したらどうなるか、そう考えてみると分かりやすいですよね。勝てない前提で競技はしませんからね。

 でも多くの人は、ネガティブな思考を元に日常をクリエイトしています。そして体験します。その結果、つらいことや苦しいことが続き、人生なんて・・・って言いだすわけです」

 「私もそうだった。そうですよ、そのとおりです。なんでこんなになっちゃったんだろう・・・?」

 「先ほど申しあげましたが、人にはエゴというものがあります。自分が自分であると認識するのですが、一美さん、ではどうやって認識するのだと思いますか?」

 さらに水平線に近づいた太陽。やわらかな潮風。おだやかな潮騒だけが、砂浜に腰を下ろす二人を包み込んでいる。ここはすでに二人だけの世界。

 空を見上げたり、目の前の砂を見つめたりしてしばらく考えていたが、どこにも返答を見つけられず、一美は小さく両手をあげる。

 「降参します。まったく分かりません」

 「素直でいいですね。素直な心というのは美しくて素晴らしいものです」

 そう言いながら、一美に晴れやかな笑顔を見せる利雪。

 「答えは『比較』です」

 「比較? あのぉ、比べるっていう意味の比較ですか?」

 「そうです、そうです。比べるんです。たとえば、この砂。どうやって認識するかというと、記憶にあるデータの中でこれに似たものを準備します。ここでは土にしましょうか。『これは土ではないから砂である』ということで、砂を認識するんです。これは『あなたではないから私である』とか『犬ではないからネコである』など、人生に関わるすべてをこのように比較して認識します。

 ここまではいいんですが、社会の中に入ってこれを始めると、『私よりあなたのほうが優秀』とか『彼より私のほうが稼いでいる』という優劣をつけはじめます。誰が上だとか下だとか、そいういうことを始めてしまうんです。

 ここから大切なところですよ。

 小塚一美さん、あなたの人生は、ほかの誰とも同じではありません。似て見えるところがあったとしても、けっして同じではありません。なぜなら、この世に一美さんはひとりしかいないからです。同じ場所、同じ時間に生まれても、同じ人生にはなりません。

 つまり、何のために、誰かや何かと比較しているのか、ということです。

 スイカとテトラポッドを比較する意味はありませんよね。天体望遠鏡とおにぎりを比較してる人がいたら、しっかり話を聞きたいぐらいです」

 利雪も一美も楽しそうに笑う。

 「私と一美さんを比較する意味もまったくありません。まったく別物ですからね。共通しているのは人間ということぐらいです。

 社会にいると、人は目に見えるものと数字に支配されていきます。それはつねに誰かや何かと比較して、誰が優秀だとか、誰がお金を持ってるかとか、誰が美しいかとか、そうやって競い合うことを社会の仕組みとしているからです。学校の成績や順位、会社の成績や順位、すべて比較するためだけに存在しています。その人個人の特徴や才能を見るモノサシは、どこにもありません。

 そうなると、目には見えないもの、愛とか心とか人の考えとか、そういったものはないがしろにされます。東京は人が冷たいなんてことを聞きますが、そりゃあそうでしょう。都会はどこでも社会そのものです。物質と数字で成り立っていて、人の心は置き去りになっているんですから。

 一美さんがどこの街におられたかは存じ上げませんが、きっと都会でしょうから、そういう中で必死に生きてこられたのだと思います。

 しかし人というのは機械ではありませんから、物質と数字だけでは生きていけません。誰かと心が通じ合うことや、誰かと一緒に笑うことや、誰かを思いやったり、やさしくしてもらったりしてこその人間です。そういう部分を無視して生きていれば、いつか心と思考がバランスを保てなくなり、壊れてしまうのは当然の成り行きです。

 そういう意味では、一美さんが地元に戻られたことは、私は正解だと思いますよ。ちゃんと自分の決定に沿って人生が動き始めたんですから、周囲と比較して『自分はこうでなければ』という考えは捨てて、あなたの思いどおりに過ごされてはいかがでしょうか」

 「あ、あれ、私、悲しくないのに、いつのまに、涙が・・・」

 一美の目からはすでに大量のしずくが溢れている。

 「良かったです。私の拙いお話が一美さんの心に響いたようですね。いま流れている涙は、一美さんの心が喜ばれている涙です。そのままにしてあげてください」

 利雪は背負っていた風呂敷包みをほどいて、胡坐の足の上に置いて、丁寧に開いていく。中には衣類とアルミの弁当箱ほどの木箱と缶コーヒーが一本。木箱の中から一枚のハンカチを取り出し、「どうぞ」と言って差し出すと、黙ってうなづきハンカチを受け取る一美。

 利雪は風呂敷包みを簡単にたたんで、砂の上に置く。

 潮騒と一美のすすり泣く声だけが聞こえる。黄金に輝く太陽は水平線とくちづけをはじめている。目に見えるものすべてが山吹色に染まる。何も起こらない、何も起こさない。心の静寂が目に見えるような世界。

 「すみません、なんか泣いちゃって」

 一美が鼻声で言う。

 「いえいえ、大丈夫ですよ。素晴らしい時間を一美さんと過ごさせていただいていることに感謝しているぐらいです」

 海面に姿を見せる太陽の道を見つめて、利雪は奥深く、やわらかな声で伝える。

 「まさか、はじめて会った人に泣かされるなんて」

 「いや、ちょっと、人聞きの悪いことを言わないでくださいよ」

 無邪気な笑顔を見せる二人。

 「それでは続きをお話しますね。人生の秘密についてです。よろしいですか?」

 うなづく一美。

 「先ほども申しあげたとおり、人は考えているようにしか生きられません。

 コンビニに行くと決めてるのに郵便局には行けませんよね。右に曲がると決めてるのに左に曲がることはできません。強い意志を持つ必要はありません。右に行こうとふわっと考えるだけで右に曲がるようになっています。人が生きるということはそんなことの連続なんです。立つとか座るとか、それらが基本形です。

 一美さんが都会の中で、社会の中で、誰かや何かと比較して、おそらく自分を卑下していたんだと思いますが、周囲よりも下に自分を位置付けた。それはへりくだるとか遠慮するという意味では美しいことかもしれませんが、一美さんの人生においては悪手だというほかありません。

 先ほど申しあげたとおり、一美さんの人生や生きかたというのは、誰かや何かと比べることはできません。あなたの人生はあなただけのものです。それで完結しているんです。完結しているということは、へりくだるとか遠慮する必要はまったくないということです。

 一美さんがね、これが幸せとか、これが楽しいとか思ったり感じることであれば、それがあなたの人生において正解なんです。そうやって、あなたが幸せだと感じて、思って、考えられるのであれば、その瞬間から先の人生は幸せです。考えているようにしか生きられないのが人生ですからね。

 これからでも遅くはありません。一美さんの中にある幸せや喜び、楽しさを意識してみてください。それだけで人生は上向きです。頭の中がプラス思考であればプラスの体験をしますし、マイナス思考であればマイナスの体験をするだけです。

 もちろん最初から上手くいくかどうかは分かりません。得手不得手などもあるでしょうし。なので最初からあまり大きな、現実味のないことを意図するのではなくて、もっと身近な、普段でも起こるようなことを考えてみてください。日常的に起こることですから、最初はピンとこないかもしれませんが、それも体験する数が増えてくると、『あれ、多いな』と気がついて納得できると思いますよ。そういうことを積み重ねていけば、やがては自分の理想の人生を歩んでいるものです」

 涙は止まっている。ハンカチを手に握りしめて、利雪をじっと見つめる一美。

 「本当にそんなことが起こるんでしょうか?」

 利雪も一美を見つめる。その目はどこまで深遠で、慈愛に満ちている。

 「起こるも何も、今までだってそういう体験の積み重ねでここまで生きてきたんですよ。振り返ってみれば分かります。まぁ自分でも気づかないレベルの意図もあるでしょうけど、何か印象に残るような出来事があって、そのときの気分や感情を思い出させるような体験をその後にしてるはずです。出来事自体はまったく違うかもしれませんが、気分や感情は同じものですから」

 「今はぱっと思い出せませんが、何かそういうことがあったような気がします。前にもこんな気分になったな、と思い出したこと」

 「そうだと思います。これは特別なことではなく、誰の身にも起こっていることですよ。忘れてしまうだけで」

 「そうですね。私ももうこれまでのことは忘れて、新しい一歩を踏み出すチャンスなのかもしれませんね。こうして利雪さんに出会ったことですし」

 「私はただ寝泊まりできるところをお訊ねしただけですから。でも新しい一歩、素晴らしいことだと思いますよ。いつまでも同じところに執着しても、いいことなんてひとつもないですからね。嫌なことやつらかったことは今すぐにでも忘れて、幸せや喜びに満ちた世界に足を踏み出しましょう。私もできるかぎりお手伝いさせていただきますよ」

 一美は目を輝かせて、利雪を見つめる。

 「本当ですか。利雪さんが手伝ってくれるなら、もう絶対大丈夫ですね。私も勇気が湧いてきます」

 「それは良かった。私もそう言っていただけると嬉しいです」

 そう言うと、利雪はわきに置いた風呂敷包みを胡坐の上にのせて、丁寧に風呂敷を開いていく。中にある木箱のふたを開けると、その中から一〇センチほどの長さの筒を取り出す。一端がふたになっていて、引き抜くとポッという間抜けな音を立てる。中には短い線香が詰まっていて、利雪は一本抜き取る。木箱の中から百円ライターを取り出して線香に火をつける。潮風は完全に止んでいる。

 線香の先に火がつき、ライターを木箱の中に戻す。線香を軽く振って火を消すと、太陽に照らさて山吹色の煙が、夜の青みを増した上空に向かっていく。

 一美の前に、その線香を突き立てる。

 「もうお気づきですよね。それがあなたの最大の秘密でしたね」

 利雪は切なげとも悲し気とも言えるような表情になり、一美を見つめる。

 利雪のなんとも言えない表情を見つめたまま、小さくうなづく。

 「もうすこし早く利雪さんに出会っていれば、私・・・私、こんなことにならなかったのかも知れない」

 「私も残念です。ですが、あなたはもう悟られています。向こう側の幸せな世界に行く切符を手にしています。それが私としては唯一の救いだと感じています」

 「利雪さん、本当にありがとう。地元に帰ってきても、誰も私の相手なんかしてくれないし、本当に寂しい気持ちでいっぱいだったの。何もかも利雪さんのおかげ」

 「いえいえ、私はダラダラと長いおしゃべりをしていただけです。一美さんが自ら気づかなければどうにもならないことですから、すべてあなたの招いた結果ですよ」

 すこしだけ不安げな顔になる一美。

 「これから私はどうなるの?」

 「大丈夫です。何も心配は要りません。あなたは悟られています。放っておいてもあなたの望む世界にたどり着きます。不安なことなど何もないですよ。それにほら、おばあさまでしょうか、お迎えに来られてますよ」

 そう言って利雪は太陽の道を指さす。一美も利雪の指さす方向に視線を向ける。

 水平線に半分以上体を沈めた太陽から放たれる光が、砂浜近くまでの海面に一本の黄金の道を敷き、その上をひとりの老婆が、満面の笑みでこちらに向かってくる。

 「おばあちゃん!」

 一美は立ち上がり、海の中へと駆けていく。しかし体が海の中に沈むことはなく、すべて太陽の道の上。

 老婆の下にたどり着いた一美は、老婆を抱きしめる。

 利雪も立ち上がり、砂浜から二人の様子を見つめる。その顔には古拙の笑み。

 「利雪さーん、本当にありがとう!」

 一美は大きく手を振り、老婆は何度も頭を下げている。

 「そちらではお幸せにー!」

 利雪も大きく手を振り返す。

 満面の笑みで手を振りながら一美は、老婆とともにゆっくり、ゆっくり、今にも沈みそうな太陽の下へと歩いていく。太陽の黄金の輝きの中に、二人の姿が飲まれていく。

 やがて太陽が沈み、太陽の道が消える。線香の煙も消える。

 それと同時に、車の音や遠くの人の話し声があふれだす。潮風も思い出したように駆け抜け始める。

 法衣に着いた砂を手で払い落し、砂の上に置かれたままの風呂敷を丁寧にたたむ。風呂敷包みを背負うと、網代笠も拾い上げ、砂を払って頭にのせる。

 「自らの死を、自分に秘密にしておくなんて。とりあえず、成仏できたようで良かった、良かった」

 水平線に向かって、合掌し深く頭を下げる。幸せなほほ笑みとともに利雪は、踵を返す。


     完

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