ワレナベニトジブタ~或る悪辣夫婦の噺~

三ケ日 桐生

本編

 男は自分の家へと続く道を、とぼとぼと歩いていた。

 その胸に抱いているのは暗い、だが完全に沈み切らない半端な心地。彼の足取りを重くしているのは、右手に提げた鞄に突っ込である薄い茶封筒だった。

 その中には他の誰にも、それこそ自分自身も確信を得る事のなかった『秘密』が記されている──薄々は感づいていたものの実際に動かぬ証拠を以て告げられれば、さすがにショックは大きかった。

 家路よ、今日に限っては遠くあれ。

 そんな叶いようのない祈りは誰に届く事もなく、男の足は着実に我が家との距離を詰めていく。

 どれだけ亀のように歩いても、玄関までは後数分。そこまで至ったところで男の心は別の救い──すなわち突き付けられた己の『秘密』による不利益ではなく、その逆を模索し始めていた。

 答えにはすぐに辿り着く。

 今まで他人の目から隠れて繰り返し、そしてこの後も続けるであろう『遊び』に余計なリスクが存在し得ない。その一点に尽きた。

 男はその遊びを、妻に対する裏切りとは考えていなかった。

 それはそれ、これはこれ……家で生まれ、家で抱えるストレスは必然、家にあるモノで解消出来はしない。そこに後ろめたい気持ちが全くないと言えば嘘にはなるが、優先順位さえはき違えなければ本気になることもなかった。

 実際このを定期的に行う事で、今日まで夫婦の間で苛立ちのぶつけ合いなど起こったためしがない。近所や友人からは常に羨ましがられるほど、互いの仲は良好そのものだ。

 そうして積み上げた信頼に胡坐あぐらをかく訳ではない。だが加えてしっかり者に見えてどこか抜けているという妻の性格を思えば、尻尾を掴まれる不安などは皆無に等しかった。

 、そこには『上手く夫婦関係を続けられている』という結果のみが残る。

 誰も損しないのだから、これくらいの目こぼしはあっていいだろう。

 心が半ば開き直ったような境地へと至ったところで、男の腕は玄関のノブをゆっくりと回していた。






 ※     ※     ※

 





 女は穏やかに、夫の帰りを待っていた。

 余計な負担をいとうように、その身を柔らかなソファに預けながら。

 折に触れて仰ぎ見る時計の針は、どう贔屓目に考えてもいつもより緩慢に動いているように感じている。

 そんな錯覚はそれだけ、夫の帰りを心待ちにしている証明でもあった。早く玄関から彼の回すドアノブの音が聞こえてこないだろうか。彼女の抱く切望の原因は、テーブルの隅に置かれている薄い茶封筒にあった。

 帰りの時間と夕食の支度を告げるやり取りでも、あえてこの封筒の存在は伏せた。だから当然、あのひとは何も知らない。帰って来るこの僅かな間だけ、これは私だけが独占できる幸せな『秘密』だった。

 しかもリビングに座った彼に打ち明けて分かち合う事で、この幸福はきっと数倍、数十倍にも膨れ上がるという確信がある。

 それは見えない、触れないものであるからこそ成し得る、物理法則を無視した質量の増大。想像するだけで私の心は、もはや焦りにも似た弾みを覚えていた。

 ──ええ。決して、大袈裟ではないわ。

 口頭だけでは物足りず、わざわざこうして文面まで用意してもらった。感動と興奮のあまり、自分の口から上手く伝聞を述べ切れないかもしれない。先ずはそんな可能性を考慮しての判断だったが、こうして眺めていると別の思いの方が強い根拠だったのではないか、そう思えてくる。

 即ちこの家族としての大きな大きな一歩。それを形に残して置きたいという衝動。封筒の中に収められているのはたった数グラムにも満たない1枚の紙きれだが、私達にとってはどんな貴金属で作られた記念碑モニュメントよりも重く尊い意味を持つ。

 これでより幸せで、より完全な家族へ。

 もちろんこれまでだって目指していたが、一事が万事上手くいっていたわけではない。

 結婚して1年ほどで急に増えた、彼の仕事における繫忙期。

 実にその半分程度が偽りである事も。

 その嘘で設けた時間に誰と何をしているかも。

 比較的早い段階で、私は全てを把握していた。

 未だ彼は私のいささか間の抜けた純真さを疑わず、自分の悪癖が筒抜けだなどとは夢にも思っていないだろう。

 少し動けば証拠はいくらでも集まったが、それを責めることはなかったし、今後もないだろう。彼への些細な意趣返しとして、この間一度だけ私も同じことをしてみた。

 そして、それだけでもういいかと満足してしまったからだ。

 そんな私を彼が過小評価──いいえ、逆かも知れないわね──している限り、互いが知らないふりを続けている限り、孕む問題がを結ぶことはない。

 そして何より、この『秘密』の前ではそれら全ては些細な事として、過去へと押し流されるだろう。

 私達はこれまでも、これからも『良い夫婦』であり続けられるし、やがて『良い家族』になっていける。

 そんな確信を胸にカップを置いた手をゆっくりと腹の上に添えた。それだけで自然と頬がほころんでしまう。

 それと同時に待ち望んでいた音が、とうとうリビングのドアの向こうから聞こえてきた。 






 ※     ※     ※






「今日、病院行くって言ってたろ?実は俺もだったんだ。会社も早退してさ」

「え?どこか具合でも悪いの……?」


 まんまるに開いた瞳をすぐに深刻そうな顔と共に伏せる妻へ、夫は大きく手を横へ振ってみせる。

 しかしなかなか続きを口にする踏ん切りが付かないのか、男が次の言葉を吐き出すまでには1、2分の間と湯飲み半分ほどの茶をいたずらに消費していた。


「いや、そういうわけじゃないんだ。調子はいつもと変わらないよ。ただ、ちょっと言いにくいっていうか……」


 歯切れの悪い夫の口調に、妻はうぅんと唸ってもどかしそうにかぶりを振る。


「大病とかじゃないなら、はっきり言ってくれて大丈夫だよ?私の報告の前には大体の嫌な事なんて、きっと吹き飛んじゃうんだから!」


 ──ね?

 差し向う形から隣の角へ移る形で夫との距離を詰め、柔らかく瞳を細めて念を押す。


「いや、でもさあ……」


 しかしそんな妻の笑顔を前にしても、夫はまだ踏み切れない様子だった。返ってきた濁すような曖昧な口調と半分未満の笑い顔ばかり。


「先にそっちのニュース教えてよ。良い事なんだろ?」

「良い事よ。だからこそ気になる事を先に片付けたいの。せっかくの気分に水を差されたくないじゃない?」


 良い事を先に訊きたい夫と、気掛かりを先に訊いてしまいたい妻。ふたりの間で実りのない押し問答はしばらく続いた。

 趨勢としては妻がやや優位で、ぽつりぽつりと向けられる夫の主張を丁寧に潰しながら、辛抱強くあくまで相手が切り出してくれる時を待っていた。


「よし、じゃあこうしましょう」


 しかし一向に進まない状況に、とうとう妻がしびれを切らす。

 場を改めるように大きくぱん、と打ち鳴らした両手のひらの音。それまで俯いたり逸らしがちだった夫の顔が、驚きのあまりまっすぐ前を向いた。

 すかさず互いの鼻先が振れそうなほどに身を乗り出した妻が、この好機を逃がすまいとまっすぐにその視線を捉える。


「お互い同時に、せーので打ち明け!」


 ──昔はよくやったじゃない?

 緩める表情に少しばかり茶目っ気を覗かせて続ける妻に、夫は小さく頷く。

 苦手科目の答案から贈り合ったクリスマスのプレゼント、果ては新婚旅行の希望先まで……遠慮や反目でどちらも意見を先に出さない膠着を、この手で何度も打破してきた。

 切り出す順番、時間的なラグを限りなくゼロへと近づけるための、最もシンプルな手法。それは毎度、ふたりの間へそれなりに納得のいく公平感をもたらしてくれた。

 仮に返した伏せ札が相容れなかった絵柄だったとしても、互いの情報をしっかりと知ることで取りあえず話し合いは前に進んでくれた。


「……わかったよ。それでいこう」


 結局、動かない状況に辟易していたのは夫も同様だった。

 やっとのことで納得を引き出した満足な心地に妻は大きく頷き、その顎を上げるついでに壁の時計へと目をやる。


「じゃあ、あの秒針が次の0を指したらね」


 せぇ、の。

 ふたりが同時に深く息を吸い込み、それぞれの封筒に手を突っ込んだ。その音が8畳のリビングへやけに大きく響き渡る。






「やっとよ!5ですって」

「実は俺、だったんだ」






「「……え?」」


 互いの声と感情はぴったりと重なり──

 同時にそれが夫婦として、家族として最後の調和となった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ワレナベニトジブタ~或る悪辣夫婦の噺~ 三ケ日 桐生 @kiryumikkabi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ