不死家

久佐馬野景

不死家

 黒い家は朝日が差しても夕日が差しても黒い。その黒というのは武家屋敷で見られる簓子下見塀の黒がぐるりとまではいかず、家の四辺のうち一辺の少しを囲っている。あとはデザイナーズ住宅という名のどこにでもある二階建てで、南に傾いた屋根の上には太陽光発電のソーラーパネルが乗っていて、その外壁は黒で統一されていた。

 この黒い家というのが日中常に窓という窓がこれまた黒い雨戸を閉めたきりになっており、どうやら人は住んでいるらしいがどんな人物が何人暮らしているのかははっきりとは知らない。

 私がこの黒い家を見るのが、決まって毎朝と毎夕の通勤と帰宅の際の自動車の運転中のわずかな時間に限られてあったからではある。近所の者に話を聞けば、名前や家族構成、年齢職業おおまかな収入まで聞き出せたことは想像に難くない。

 ある夕暮れのことであった。私は仕事を終えて車を走らせ、例の黒い家の前を通り過ぎようとしていた。この家は田んぼの中にいきなり一軒だけ建っていて、運転に注意を払いながらでもその姿が必ず目に入ってくるようなポジションにあった。

 普段なら雨戸が閉め切られている窓が二階の一角ひとつだけ開け放たれていて、さすがに人は住んでいるようだから換気や掃除でもしているのだろうと思いつつ、だが目はめったにない機会にその窓のほうへと勝手に向いていっていた。

 蛍光灯かLEDの真っ白な光に照らされていたのは、首を吊った女の身体であった。

 あっ、と溜め息か悲鳴だかわからない声が私の口から漏れ出る。車はそのまま家の前を通り過ぎたが、このまま帰宅すればあの光景に終生苛まれることになるという確信めいた気持ちが湧き起こり、田んぼと田んぼの間の舗装もされていない道に乗り入れて、えっちらおっちら、黒い家の隣にまで引き返してきた。駐車場のスペースは車がなく広く空いていて、どうせ一台や二台戻ってきても余裕があるだろうとお借りすることにした。そもそも私はこの駐車場に車が停まっているところも見たことがない。

 玄関ドアの横にあるインターホンを鳴らす。音は鳴らない。反応もない。

「御免下さい」

 声を発して反応を待つが、もし家人があの首を吊っていた女ひとりだった場合、何を言おうと何を鳴らそうと無為ではないか。いや、なぜここまで来たのかという理由を顧みよ。間に合うのであれば助けに入るという本能的良心に駆られたからではなかったのか。

 ドアに手をかけると、鍵はかかっていなかった。このあたりの住宅では家内に人がいれば鍵をかけないことは珍しくはない。思い切ってドアを開け、靴を脱いで上がる。

「御免下さい」

 一応、声は出しておく。二階の、中から見るとどのあたりの部屋であろうか。とにかく階段を見つけて駆け上がり、声を出しながら部屋のドアを開けていく。電灯が点いていない部屋は開けても真っ暗なので、すぐに判別がつくはずである。

 これで最後の部屋のドアを開けると、白い光が隙間から漏れ出た。ようやっと目当ての部屋を見つけたと、勢いよくドアを開け放ち、中に踏み込む。

 部屋の中は広く、真ん中に床に直接布団が敷かれていた。窓の雨戸はやはり開いていたが、そこから見える範囲に人影はない。

 私が呆然と部屋の中に突っ立っていると、足下でもぞもぞと動くものがあった。

「何か見られましたか」

 不意に聞こえた声にぎょっとすると、床の布団の中から若いとも呼べぬ女が頭だけを出していた。目からは栓が緩んだかのように涙が次々とこぼれ落ちている。

「すみません。勝手に立ち入って」

「いえ。構いません。この家は時々そういうことをするのです」

 女は布団から身を起こし、垂れ流しになっている涙をパジャマの袖で拭った。それでもすぐに次の涙が溜まっていき、またこぼれ出す。

「私のほうこそすみませんでした。聞こえていたのに応対もできず」

「失礼ですが、お身体が悪いのですか」

「百歳まで生きると医者に言われております。ただ、億劫なだけでして。身体が言うことを聞いてくれないのです。いえ。頭のほうも、ですね」

「気塞ぎの――」

「ええ。はい。お恥ずかしい話です」

 となれば先刻見えた、首吊りの光景がなんとも意味ありげに思えてくるものである。加えて、女は私がそれを見たであろうということを言い当てている。

 少し話をしていったほうがよさそうだ。女の口ぶりと、私の見た首吊りを擦り合わせる必要があるように思えた。私は床に正座してから口を開いた。

「私はこの部屋で、首を吊っている人の姿を見かけたのです」

「ああ。それはきっと私でしょう」

 私の眉が不審に吊り上がる。狂言自殺を行って通行人を驚かせようというのなら、随分と大した根性である。

「いえ。いえ。私が実際に首を括ったわけではないのです。当然私はいつ何時ももう死んでしまいたいと思っているのですが、幸か不幸かIQが馬鹿に高いおかげで死のうという踏ん切りがつかずにいるのです」

「では」私が見たものは一体なんであったのか。

「この家は、不死家なのです」

「フシヤさん――と仰るのですか」

 何が可笑しいのか女は少し笑った。そのはずみで涙がぼたぼたと溢れて落ちる。

「死なない家。不死の家で、不死家です。家名ではありません。地相と建築と家相の結果できたこの家の性質を、不死家と呼んでいるのです」

「この家に住むと、死なないのですか」

「いいえ。この家が死なないのです」

 さっぱりわからず涙を拭いている女を見つめる。女は微笑して、窓の外を気にするように目を向けた。

「家の周りに古い塀があったでしょう。あの塀がもともとあった家が、ひとつ前の不死家だったと聞いております。とっくに不死家のシステムはこちらの家のほうで再現して稼働していますから、あの塀にはもう意味はないのですけど」

 女の話すところによると――

 簓子下見塀で囲われたある屋敷では、兎角人が死んだ。しかも誰も彼もが自殺で、家人は半分が家の中で首を吊った。ある時には夜中に家に忍び込んだ者が首を括ったこともあったという。

 反面、家は栄えていた。商売はすべて上手くいき、土地持ちのおかげで安定した莫大な収入もあった。

 しかしこうも人が死んでは家も続くまいと考えると、ぱたりと自殺がなくなる。孫が結婚して子供を産み、家に戻ってくるとその孫が急に首を吊る。根絶やしにするわけでもなく、確実に命を奪う何者かの意思を感じ取った家人は、拝み屋を呼んで加持祈祷を願った。

 ところが家を見た拝み屋は、何かにはたと気づいた様子で方々に連絡を入れ、後日、その拝み屋を筆頭に風水師、民間呪術師、霊能者、不動産鑑定士、土地家屋調査士などがぞろぞろと家にやってきた。

「これは瑞祥です」

 調査を終えた集団を代表して拝み屋がそう告げた。

 曰く、この家はそれ自体が機構として生きており、しかも死ぬことがない。不死家であるということだった。

 多くの家人が持っていたマイナスの感情を取り込み循環させ、マイナスにマイナスを乗算してプラスに転じさせている。それこそが家の富の理由であり、どちらが先であったかはわからないし後先の問題ではない。その過程でマイナスを乗算された人間が何人死のうとも。

「その家のことはそれ以上知りません。どこにあるのか、今もあるのかも」

 ただ不死家という機構を発見した者たちは、これを再現することを試みた。屋敷から簓子下見塀の一部を借り受け、これを起点に自分たちの手によって不死家を建てようと苦心した。

「その頃私は精神科の転院を繰り返していまして、彼らの目に留まったのです。ただ家に暮らすだけで一生金に困らないと言われて、抗う気力もなかったので言われるがままに契約を結びました。この家は私の名義で建てられ、株やFXをはじめ、あらゆる投資を私の名義で開設させられました」

 不死家を動かすには強いマイナスの感情が必要であり、一番手っ取り早いものが希死念慮であった。不死家はそれを増幅させて家を存続させる。膨れ上がった希死念慮に耐えられなくなった家人は自殺を遂げることになる。

「この家には私ひとりです。ハウスキーパーをお願いすることもありますが、その中で死んだ者はおりません。不死家は家を存続させるために、家と同義である私に負の情動を絶えずかけ続けながらも、私を殺すことができないようになっているのです」

 それこそが不死家を再現した者たちの企てであった。すべての名義を家主ひとりにあてがい、希死念慮を抱えた家主ひとりのみが住まう不死家という、金を生み出す機構を作り出すことが。

 不死家を建てた者たちは家主の名義で開設した投資で利益を得続け、この家で家主が不自由なく暮らすための金だけを渡す。全体の利益から見れば雀の涙ほどの小金で、不死家という機構から金を生み出し続ける。家主は機構の動力部として、もはや起き上がれぬほどの希死念慮に苛まれ続け、構造上自殺することも叶わない。

「首を吊っている私を見たということでしたら、縊死――首吊りの最も恐ろしいところはご存知ですか」

 長く話したせいか、女はぐったりと布団に横たわった。話しているうちに止まっていたはずの涙がまた溢れ出し、両目の端を伝ってそれぞれ耳へと入っていく。

 私が首を横に振ると、女は顔を横に向け、雨戸の開いた窓を見た。

「途中で失敗すること。下手くそなやり方をするか、あるいは他人が助けに入ることです。縊死を失敗した場合、重い後遺症が残る可能性が非常に高いのです。だから」

 瞼を閉じる。漏れ出た涙が顔を横に伝う。

「この家はあなたに私が首を吊っている姿を見せたのでしょう。首を吊っても途中で失敗するだけだからやめておけと、私に理解させるためにです。だって、私はあの雨戸を開けてなんていないのですから」

 私は弾かれるように立ち上がり、ずっと雨戸のほうを見ている女を見下ろす。

「ええ。そうですね。あまりこの不死家に長居するのはお勧めしません。どうぞそのままお帰り下さい。ああでも、せめてあの雨戸を閉めていってはくれませんか」

 私は女の言葉を半分も聞かぬうちから部屋を出て、階段を駆け下りる。玄関を飛び出て、一度不死家と呼ばれる二階建て住宅を見上げる。別段おかしなところもない、町中でいくらでも見かけるデザイン。

 車に乗って、農道を進んでアスファルトの道路に戻ると、思わず大きな息が飛び出した。それまで呼吸を忘れていたかのように、心臓と肺が慌ててバクバク動き出す音が聞こえた気がした。

 それからも私は通勤と帰宅時に、この家の前を通っている。相変わらず雨戸は全部閉まっていて、私が閉めてくれと頼まれた雨戸もきちんと閉まったままになっている。

 変わったところでいえば、何年か経って家の周りの板塀がなくなっていた。また別の土地に不死家を建てるための基礎として使われたのか、不要になったので撤去されたのかは知らない。

 板塀が消えたタイミングで、私は思いきって近辺の住民に不死家の住人についてたずねてみたことがある。答えてくれた女性が言うには、「普通のご家族ですよ」とのことであった。

 あの女が時とともに不死家から解放されたのか。あるいはもともとそんな女はいなかったのか。女を利用している家人が一緒に暮らしていたのか。本当のことはわからないが、時たま不死家の二階の雨戸が開いていることがある。

 私は決してそこを覗かぬように努めている。

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