別離と信念

海沈生物

第1話

 家に帰ると、恋人が「ゾンビ」になっていた。恋人の栄子は少なくとも、昨日の夜までは人間だった。身体と身体を交じらわせて、首筋にあるホクロにキスをしていたのを確かに覚えている。


 しかし、今の栄子は「人間」ではない。皮膚は全面的に爛れ、緑に変色した。好きだった首筋のホクロは、皮膚が剝がれ落ち、ヒクヒクと痙攣したように動く筋肉しか見えなかった。いつもキスをしていた頬はぽっかりと丸い穴が開いていて、向こう側に歯周病がすごそうな歯茎と黄色くなった歯が見えていた。このような状況でもなお、栄子は平然とした顔で生きている。これが「普通」であるかのように生きている。その「異常性」を鑑みて、私は今の彼女を「人間」ではない「ゾンビ」になってしまったのではないかと結論付けた。


 私は強烈な腐乱臭に耐えながら、ソファーでスマホを触る彼女を見る。


「栄子。その……何か”違和感”があったりしないの?」


「違和感?」


「そう。例えば、身体がいつもより軽い、とか」


「……変な陰謀論にでもハマった?」


「違う違う! 断じて脳にICチップが埋め込まれているとか、5Gで全国民を操作しようとしているとか、思っていない! 今はあまり……それほど……思って、ない」


 正直、今でも陰謀論と呼ばれるものは全て真実であると信じている。政府が全ての諸悪の根源であり、私たちはそれに反逆しなければいけないと思っている。だが、そういう私の信念と目の前に起こっている状況は「別」である。


「……あのね、栄子。落ち着いて聞いて欲しいんだけど」


「何? 運転免許証の中にICチップでも見つかった?」


「そうじゃなくてさ。……栄子、


 栄子は驚くこともなく、悲しむこともなかった。ただ、筋肉が露出した顔で崩れた笑みを見せていた。もしかすると、彼女は自分の状態に気付いていないのだろうか。私が心配していると、彼女はソファーからのっそりと立ち上がる。そうして、私と相対して肩をポンッと叩いた。

 

「別れよっか、私たち」


「な、なんで……?」


「なんで、って言われても。こんな身体じゃ、もう愛美とキスができない。セックスもできない。ボロボロの歯で、発音しづらい声で。いづれ身体の腐敗が進んでいけば、こうやって会話することすらできなくなるかもしれない。それなのに、どうして恋人のままでいられるの?」


「愛し合っていれば、言葉なんてなくても恋人だよ!」


「言葉がなければ、お互いの愛が本当にあるのか確かめることができないでしょ」


「”獣”は言葉を持っていないけど、愛し合っていけているでしょ!?」


「……それは、私が”人間”ではない”獣”であると言いたいの?」


「ち、ちが……」


 そうではない。そういう意味ではない。ただ、私は栄子がどのように変化したとしても愛することができる。陰謀論なんて否定されがちな思想を持つ私を許容してくれた彼女を、死ぬまで愛したいと思っている。そう言いたかっただけなのに、彼女は私の存在を拒絶していた。私の愛を拒絶していた。


 栄子は私に背中を向けると、玄関のドアノブに手をかける。


「どこに行くの」


「秘密よ。私はもう”人間”ではない”獣”だから」


「それでも、私の”恋人”だよ」


「違うわよ。私たちはもう”他人”よ」


 栄子は私の愛を拒絶していた。決して靡かないし、動じない。彼女から見た陰謀論を信じる私はこんな風に見えるのだろう。だが、それで諦める程に陰謀論者の信念はやわなものではない。その程度で陰謀を曲げるぐらいなら、最初から陰謀を推していない。私は腐った彼女を背後から包み込む。


「陰謀論者舐めんな。栄子が”恋人”であることを認めなくても、私は勝手に栄子のことを”恋人”と思っているから。それが”真実”だと思っているから」


「……こうやってハグをして、キレたら、それで全てが解決すると思っているの」


「思っているよ。私は信念を曲げない陰謀論者だから」


「……そう」


 栄子はそれ以上、何も言わなかった。何も言わないまま、私の手を振り払った。ドアノブに手をかけると、栄子はそのまま夜闇が支配する世界に溶けていった。残された私は、その場にへたり込む。密かに涙を流しながら。

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