番外編

 初夏の香りが漂う、昼下がり。

 凜花は、城内にある泉に繰り出した。もちろん桜火が付き添い、蘭丸と菊丸も一緒である。

 水底が見えるほど澄んだ美しい泉は水浴びにぴったりで、暑くなってきた今の時期はここに来るのが日課になりつつあった。



「姫様ー! 姫様も一緒に泳ぐです!」


「とっても気持ちいいのです!」



 龍の姿で泉の中を泳ぎ回る蘭丸と菊丸が、嬉しそうに凜花を誘う。無邪気なふたりを、桜火が「こらこら」とたしなめた。



「いけませんよ。姫様にそんなはしたないことはさせられません。あなたたちもそろそろ上がっていらっしゃい」



 彼女の言葉に、「もうちょっと遊ぶです!」とふたりの声が揃う。

 泉に足だけを浸けていた凜花が、クスクスと笑った。



「桜火さん、まだいいですよ。今日は久しぶりになにもすることがないですし、城に戻っても暇ですから」



 聖とつがいの契りを交わしてからというもの、凜花には様々な役割ができた。

 まずは、天界や龍のことを詳しく知ること。龍神の妻として、城下やそこに住む者たちの暮らしを見回ること。

 凜花に会いに来る者たちの相手。そして、龍の子どもたちと過ごすこと。



 毎日なにかしらの予定が入っており、丸一日休める日など滅多にない。

 天界に来たときに暇を持て余していたのが嘘のように、毎日が慌ただしく過ぎていく。けれど、凜花にとっては楽しくも幸せな日々だった。



 そんな今日は、目まぐるしい日々を送っていた凜花に訪れた、久しぶりになにも予定がない日である。

 しかし、ここ数か月ほどはずっと忙しくしていたため、なにもすることがないとなるとなにをすればいいのかわからなかった。



 残念ながら聖には仕事があり、それが終わるまで彼の都合がつかないという。

 結局、手持ち無沙汰になってしまい、普段の休憩と同じように泉で過ごすことにした――というわけだった。



「姫様もせっかくのお休みですから城下で買い物や食事をされてもよろしかったのに、本当にどこにも出掛けなくて構わないのですか?」


「うん。城下なら、明後日にも行くしね」



 城下への見回りは定期的にある。

 見回りと言っても、城下の者たちと他愛のない会話をする程度のもの。困っていることや流行り病などにいち早く気づくため……というのは建前で、凜花が臣下以外とも接することが最たる目的である。

 気を使うことやまだ上手く話せないこともあるが、座学な苦手な凜花にとっては城で勉強するよりもずっと楽しく、刺激的だった。



 会いに来る者たちの相手が一番苦手だが、これも少しずつ慣れてきたところだ。

 最も楽しいのは、龍の子どもたちと過ごすこと。

 蘭丸や菊丸よりもさらに小さな龍たちは、まだ自分の力を上手く制御できず、人の姿を保つことが難しい。

 それを間近で見るのは、龍の生態や力を知るためにも重要なこと……というのもあるが、小さな子どもたちと過ごす時間は大きな癒しになっていた。



 とはいえ、毎日びっしりと詰まっている予定のせいで、ゆっくり過ごせる日は格段に減った。

 聖ほど忙しくはないが、彼とすれ違いの生活になることもある。



 そんな中で与えられた束の間の休暇だからこそ、凜花は聖の仕事が終わったら一秒でも早く顔を合わせたいと思い、あえて城内で過ごしていたのだ。

 ただ、残念なことに、彼に時間ができたのは日が沈む頃のことだった――。




 夕食を済ませたあと、聖が申し訳なさそうに切り出した。



「今日は悪かったな。せっかく凜花の予定がない日だったのに、俺が戻ってくるのが遅かったばかりに……」


「ううん。仕事だもん、仕方ないよ」



 彼は今日、玄信や大臣たちと会議を行い、城と屋敷の結界を張り直していた。

いつもならそう時間はかからないが、下界にある龍神社の様子も見に行ったため、すっかり戻ってくるのが遅くなったのだ。



「私は蘭ちゃんと菊ちゃんがいてくれたし、桜火さんもずっと気遣ってくれてたから大丈夫だよ」



 凜花は笑顔を返したが、声音が落胆を隠し切れなかった。聖がそれを見透かすように困り顔で微笑み、凜花の額にくちづける。



「次の休みは必ず一緒に過ごそう」


「うん」



 美しい満月が望める窓の傍で、他愛のない約束を交わす。凜花にとっては、こんなことですら幸せを感じられた。

 今夜はよく晴れていて、星の瞬きも鮮明に見える。



「凜花」



 夜空を見上げていた凜花を、不意に彼が優しく呼んだ。伸びてきた大きな手が、頬にそっと触れる。

 キスの予感に瞼を下ろせば、聖の唇が凜花のそれに触れた。

 一度重なった唇が離れ、再び触れ合う。甘く優しいキスなのに、凜花の鼓動はドキドキと騒ぎ始めた。



「聖さん……あの……」



 もう何度もキスをしているのに、未だに慣れない。それどころか、彼に対する想いが膨らむたびに緊張感も増していく気がする。

 そんな凜花に、聖がクスリと笑った。



「まったく……。俺のつがいは、いつまで経っても初心だな」



 呆れたようでいて嬉しそうな彼に、凜花の頬がかあっと熱くなる。



「だって……恥ずかしくて……」


「そんなことでは俺の子を宿せないぞ」


「っ……!」



 凜花が頬を真っ赤にすると、聖はますます楽しげに瞳を緩めたあとで真っ直ぐな視線を向けた。



「凜花の心の準備ができるまでちゃんと待つ。だが、愛おしいつがいを前にして、いつまでも優しくしていられる自信はない」



 甘く激しい恋情に、凜花の胸の奥が高鳴る。キュンと甘い音を立てて締めつけられた胸は、幸福感と戸惑いでいっぱいになった。



「だから、早くその身も俺のものなってくれ」



 熱のこもった彼の双眸に射抜かれて、凜花の鼓動はさらに激しい音を立て始めた。



「聖さん……」



 凜花も、聖を愛している。いつかは、もっと深く繋がりたいと思う。

 けれど、今はまだ彼を受け止め切れるだけの勇気がなかった。こんなにも好きなのに、この先に進むにはもう少しだけ時間が欲しい。



「心配するな。今夜はくちづけ以上のことはしない」



 聖は、凜花の気持ちを察するように微笑む。そのまま凜花を抱き上げ、布団の上に下ろした。



「その代わり、俺の気が済むまで付き合ってもらう」



 そう言うや否や、覆い被さってきた彼が凜花の手に自身の指を絡め、額にくちづける。柔らかな唇は凜花の肌をたどるように、瞼や両頰、鼻先を滑っていった。

 そうして、唇にもキスが落とされた。



 チュッ、チュ……と、リップ音が響く。

 触れて離れて、啄まれて。甘く優しいのに、じっくりと味わうように何度も何度も繰り返される。

 やがて、凜花の心と思考がとろけていき、聖のくちづけに夢中になっていた。



 満月に見守られるふたりは、まるで互いの想いをぶつけ合うように今夜も数え切れないほどのキスを交わした――。




【END】




Special Thanks!!


カクヨム

2024/1/16~2024/1/28


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龍神のつがい~京都嵐山 現世の恋奇譚~ 河野美姫 @Miki_Kawano1006

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