人間抹殺計画
かんだ しげる
第1話
人間抹殺計画
(一)
ぐっすりねむっていた。
年が明けてからこっち、発売したばかりの製品に不具合が出て、ソフトウェアのバグ修正で徹夜が続き、つかれていた。
三十過ぎの男の一人暮らしだから、夜遅く帰っても、食事を作って待っている人なんかいない。どっかで食べて帰れば簡単なんだけど、うちで猫のチャスケがまっている。
コンビニでお弁当とサラダを買って、帰ってチャスケにご飯をあげて、水をかえて、トイレの猫砂も変えてから、冷えていた弁当をチンして食べた。
寒かったけど、シャワーですませて、ねた。
とにかく、ぐっすりねむりたかった。
「あのう、もしもし」
ねむりの中で、よぶ声がきこえた。
でも、ねむくて無視した。
「あの、マサヒコさん」
名前をよばれて、ねむりから呼びもどされた。
(だれ?)
そう思ってから、ねてたことに気がついた。
(なんだ、夢か。夢の中で呼ばれて、目をさますなんて)
ずいぶんつかれてるんだなと思い、半分ねぼけた頭でねがえりをうった。
「マサヒコさん」
また、声がきこえた。
目をあけると、
「うわっ」
真夜中の暗やみで、緑色に光る眼がぼくを見ていた。
ぎょっと、息が止まった。
でもそれが、猫の目だと分かって、
「なんだ、チャスケか」
ふうっと息をはいて、目を閉じた。
チャスケは、いっしょに住んでいる猫。茶色の毛に黒のしまの入った、しっぽの長いキジトラの猫で、たしかもう十五才。人間で言えば、とっくにおじいさんだ。
いっしょにくらして、もう三年になる。
チャスケはぼくのまくら元で、猫らしく、前足をたたんで香箱座りをして、ぼくを見ていた。
「夜分おそくに、もうしわけありません。ちょっとお話が」
「明日にして。おやすみ」
そう答えてから、気が付いた。
(えっ、チャスケ、しゃべった?)
思わず目が開いた。
目の前で、チャスケの緑色の目がこっちを見ていた。
「おどろかれるのも無理ありません。今までマサヒコさんと話せることは、かくしてまいりましたから」
(まだ、夢見てる?)
目をこすって、もう一度見た。
チェスケはやっぱり、こっちを見ていた。
「あの、夢じゃありませんから」
夢の中でなら、いろいろと不思議なことが起こる。
猫がしゃべったって不思議じゃない。夢の中で『これは夢だ』って思うこともあるし、最後まで夢の中だって分からずに、ただただ逃げまわることもある。
でもたぶん、夢の中じゃあ、目をこすったりはしない。
ぼくは、ゆっくりと起き上がった。夢の中で起きたときの体がういているような、そうでなければモニターにうつる自分を見ているような感じがしなかった。
たぶん目は覚めているのだ。
(これって、夢じゃないのかな。でも、じゃあなんで、チャスケがしゃべってるんだ?)
布団の上であぐらを組んですわり、チャスケを見つめて言った。
「チャスケ、しゃべれるのか?」
「はい。マサヒコさんは、いつも『チャスケがしゃべれたらなあ』なんて言われていましたから、しゃべれることをかくしているのは、わたしとしても心苦しいことでした」
チャスケは、人の言うことが分かるのではないかとは思っていた。
言葉は分からなくても、こっちの考えは分かっているような気がしていた。
ちゃんと会話がなりたつこともあった。『チャスケ、ごはん』と呼べば、チャスケは自分の猫用ベットの中でパッと目をさまし、いつもごはんをもらうテレビの横にトコトコと歩いて行く。ちょこんとすわってこっちを見て、『みゃあ』と鳴いた。
「ごはん、まだ?」
そう言っているのだと分かった。
帰るのがおそくなっても、仕事でおそくなったときは、チャスケはおこらない。でも、飲み会で帰りがおそくなったり、つい駅前の食堂でごはんを食べて帰ったりすると、チャスケはおこっていた。部屋のすみでうずくまり、こっちにおしりをむけてだまっている。
「なんだよ。チャスケ、おこってんのか?」
などと声をかてて手を出そうものなら、カプッとかみつかれる。そういう時は
「チャスケ、ごめんな。すぐ、ごはんにするからな」
と心からあやまれば、チャスケはきげんを直し、頭をなでさせてくれた。
でも、チェスケが人間の言葉をしゃべっていたわけじゃない。
「今日は、大事な話がありまして」
そう言うとチャスケは立ち上り、両方の前足を体の前にグイッとつきだし、うーんと背中をのばした。それからおしりをつけてすわると、前足をなめ、その前足でひげをていねいになで始めた。なんだか、きんちょうしているようだった。
(言いにくい話なのかな)
いつの間にか、チャスケが話しているのが当たり前な気がしていた。
本当は、不思議なことなのだけれど。
「いろいろとわたしなりにじっくり考えたのですが、やっぱりマサヒコさんには、できれば早めにお伝えした方が良いかと思いました。こうやって夜分おそくに失礼しているわけでして」
(じっくり考えた? チャスケが?)
思わず笑ってしまった。その時はまだ、『じっくり考える』という言葉ほど、猫にあわない言葉はないと思っていた。猫はその時々の気分で生きていると。ねているか、食べているか、遊んでいるか、ボーッと外を見ているか。だから猫って幸せなんだ、そういう猫を見てるのが幸せなんだと思っていた。
「昨晩、猫の大集会が開かれました」
「大集会? ああ、夜な夜な公園とかに猫が集まるやつのこと?」
「それは、ご近所の集まりです。
大集会というのは、猫全体にかかわるような、大きな決めごとのときに開かれる集会でして、各地区の代表が、全世界から集まって開かれます」
「全世界って、海外からも猫の代表が来たってこと? 海をこえて?」
「まさか」
その時、チャスケが目を細めたように見えた。
チャスケは、耳の後ろをかいてもらったり、あごの下をなでてもらったり、気持ちがいいときに、うれしそうに目を細める。だけどこの時は、『今時、そんな事言うなんて...』とチャスケがため息をついたように思えた。
「たしかに、ひと昔前までは、船にのって世界中から代表が集まったりもしておりました。ですが、今はネット社会ですから」
「ネット社会って、猫がインターネットを使うって言うのかい?」
「人間だけがインターネットを使えると思っているのは、人間の身勝手な思いこみです。だいたい人間にインターネットの作り方を教えたのは、猫ですから」
「猫? 人間に教えた?」
「そうです。人間は自分たちのことを、『道具を使う唯一の生き物』なんて思っているようですが、いろいろな道具を考え出したのは、人間ではなく、猫です。猫は、人間の進化に合わせて、家の作り方、田畑の作り方、船の作り方、人間にさまざまな技を教えてきました。もともと人間は考えることは苦手で、考えも浅はかです。ただ、手先だけは器用ですから、猫が教えれば、なんでも作ります。でも、人間は考えが浅はかなので、全部人間が考え出したものだと思いこんでしまっているのです」
(そ、そうなの?)
いや、しかしだ。たとえインターネットを考えたのが猫だったとしても、
「猫がどうやってインターネットを使うんだ?」
小さな前足で、パソコンのキーボードを一つずつたたくのだろうか。
そう言えば、猫がタイプライターを打つっていう小説があったような気がする。
「そうか、マウスだ!」
また、チャスケが目を細めた。
「必要なことは、通信係の猫が、人間にやってもらっております」
それがどういうことなのか、その時はまだ、その本当の意味を理解していなかった。
「人間にたのんでるっていうこと?」
「まあなかには、そういう猫と人間の例もあります。猫と話していることを、秘密にしておいてくれるような人間がみつかればですが。人間は、考えが浅はかで、おしゃべりで、自分のことを話したがりますから、そういう人間は、めったにみつかりません」
「じゃあ、どうやって?」
「まあ、そうですね。言ってみれば、人間が言うところの『催眠術』のようなものを使ってです」
(催眠術?)
猫が人間に、催眠術をかけるんだろうか? しっぽをゆらして?
「昨日の大集会では、人間と同じ屋根の下でくらす家猫たちから、『全ての人間が悪いわけではない』との意見が、また出たそうです。『人間は家猫の生活に必要である』とも。今までにも、このような家猫の意見から人間抹殺を見送ったことがありました。しかし、今回は『これ以上見過ごせば、人間はこの地球を、生き物のすめない星にしてしまう』との意見が大半をしめました」
そう言われると、「それはちがう」とは言いにくい。人間は地球環境を破壊し続けているのだから。大量のプラスチックを海にすて、二酸化炭素を空中にまきちらし、どんどん地球を壊している。それだけではない。放射能をまきちらす核兵器を大量に保有し、いつ使うか分からないのだ。
もちろん、それを食い止めようと、たくさんの人が、NPOが活動を続けている。でも、地球の破壊は止まってはいない。
「長い議論の結果、やはり人間は抹殺すべきだと決まりました」
「抹殺って、どうやって?」
逆に、人間が猫を抹殺することは、たぶん可能だ。
そんなこと、あってほしくはないけれど。
今までも、人間はいくつもの動物や植物を絶滅に追いやってきた。もちろん猫は世界中にいて、世界中で愛されている。それでも『猫インフルエンザ』みたいな、猫から人間にも感染するウィルスが現れて、人類があぶないとなったら、人間は迷わず猫を抹殺するだろう。
しかし、どうやったら猫が人間を抹殺できるというのだろうか? もちろん猫にひっかかれれば、いたい。でも、猫が十ぴきで飛びかかっても、大人の人間を殺すのは無理じゃないだろうか。虫が人間を抹殺するというほうが、まだ可能性があるように思える。たしか、人間の最大の天敵は蚊だと聞いたことがある。
(ひょっとして、ライオンかトラにたのむのかな)
いやいや、それは考えすぎだ。
人間は、トラだって絶滅危惧種にしてしまったのだから。
「もちろん、猫が人間のように、ピストルや爆弾や毒を使うわけではありません。
マサヒコさんは、猫がゴロゴロとのどを鳴らすのをごぞんじですね」
もちろん知っている。耳の後ろをなでてやれば、チャスケだってゴロゴロとのどを鳴らす。もっとも、チャスケのきげんが悪ければ、耳の後ろをなでようとすると、『いやだ』とカプッと甘がみされる。
しかし猫のゴロゴロが、人間抹殺と関係があるとは思えなかった。
「あのゴロゴロという音は、使い方によっては、聞いているものの精神を混乱させることができるのです。熟練した老猫であれば、相手の精神を支配することも、ひらめきをさずけることも可能です」
「あっ、さっき言ってた『催眠術』って、このことか。へえ、ゴロゴロを使うんだ。『ゴロゴロ催眠術』ってわけだ」
「そうです。さすがマサヒコさん、おわかりになりましたね」
猫のチャスケにほめられて、うかつにも、ちょっとうれしかった。
でも、チャスケは目を細めている。どうも『ゴロゴロ催眠術』ってネーミングは気に入っていないらしい。
(いやいやいや、『ゴロゴロ催眠術』だなんて。これは夢だな。夢を見ているんだな)
「もちろん猫は、めったにそのような使い方はいたしません。他の生き物の精神を支配するなんて、猫にとっては重荷でしかありませんから。しかし、この美しい地球を守るためであれば、わたしたち猫は、重荷を背負うことをおそれはしません」
「もしそれが本当なら、それこそ大変だぞ。『ゴロゴロ催眠術』で猫が攻撃できるって人間が知ってしまったら、それこそ人間のほうが猫を抹殺してしまう」
「もちろん、猫は人間ほどバカではありません。ほとんどの人間は、抹殺計画のことは何も気がつかないでしょう。今の計画では、人間はだんだんと子どもを作りたくなくなって、人間の数が少しずつ減って行くだけですから」
それはもう、日本や米国、ヨーロッパといった先進国ですでに起こっていることだ。
「ただ、それだけですと、人間抹殺に時間がかかりすぎてしまいます。ですので、それとは別に、以前より、悪い人間から間引いております」
「悪い人間?」
「猫や、ほかの生き物を、殺したりいじめたりする人間です」
「『間引く』って、それって『人殺し』じゃないか。犯罪だぞ!」
「それは、人間だけに都合のいい、ものの見方というものです。人間が猫を殺して犯罪になるようになったのは、ごく最近のことでしょう。猫を殺しても、『始末した』と言ってしまうくらいですからね」
たしかにそうだ。動物愛護の法律ができた今だって、犯罪にならない場合も多い。
もちろん、人間といっしょにくらしている猫なら、人間の家族になっている猫なら、話はちがうとは思う。でも、近所にいた猫の姿が急に見えなくなっても、人間はたいして気になんかしてないんじゃないだろうか。
「でも猫は、人間とはちがいます。数がふえるとか、じゃまになったからといった理由で、間引いたりはしません。自分のことしか考えないような、無責任で、たちの悪い人間を選んで間引いています。猫や動物や自然にやさしい人間は、間引きません。それは、人間にとっても悪いことではないのではないかと思います。個猫的な考えではありますが」
「これも、『ゴロゴロ催眠術』を使うのかい?」
「はい、そうです。たまたま交通事故がおこった、階段から足をふみはずした、そんな感じで間引いています。人間同士を争わせて間引くこともあります。小さなものだと人間同士の『いざこざ』や『ケンカ』とかですね。前は、大規模な『戦(いくさ)』とか『戦争』というのも使っていました。この方法だと、一度に多くの人間を間引けますから」
「戦争は、猫が起こしていたっていうこと?」
「ずいぶんと昔の話です。最近は、人間は街ごと破壊するような戦い方をするので、もう猫は、人間に戦争をさせてはいません。他の生物にも影響がありすぎます。でも、戦争は起こっています。猫が何もしなくても、人間が勝手に戦争をしているのです。人間は殺し合うのが好きなんです」
それは、なっとくするしかなかった。
猫や神様や悪魔が、人間に戦争をさせているわけじゃない。
人間がやっているのだ。
だとしたら、戦争をやめることのできるのも、人間だけだ。
「しかし一方で、わたしたちのような家猫たちは、人間に支えてもらう生活を長く続けてきました。ある程度の人間には残ってもらって、これからも猫の生活を支えてもらう必要があります。トイレのそうじとか、ごはんや飲み水、猫草の用意などなど。魚をつかまえたり、もっとおいしいキャットフードを作ることも、ぜひ人間に続けていただきたいと考えております。
そこで、人間抹殺はさけられないことではありますが、一定数の人間は残して、猫の世話を続けてもらうことになりました。具体的には、今猫の世話をしている人間や、キャットフードの生産などで猫のために働いている人間が選ばれます。そこでマサヒコさんには、ぜひ猫の世話を続けていただきたいのです」
確かにぼくは、今は、猫のチャスケの世話をしている。
「このチャスケ、マサヒコさんには大変お世話になっております。感謝しております。
ですので、できれば、マサヒコさんが間引かれるようなことが無いようにと願っております。ですから猫の世話を続けてください。猫の命は人間よりも短いですから、このチャスケは、いずれはマサヒコさんより先にあの世に旅立つことになるかと思います」
「そういうこと言うなよ。事故とか病気とか、ぼくのほうが先に死ぬことだって」
「まあまあ、それは可能性としてはあるかとは思います。ただ、今は大事な話をしておりますので。時間もあまりありません。
わたくしが先に旅立ちましたら、その時は、どうかまた別の猫を世話していただきたいのです。できればこのチャスケがいなくなる前に、別の子猫の世話を始めていただき、猫の世話がずっと続くようにしていただきたい。猫の世話をしている間は、よほど悪いことをしない限り、間引かれませんから。うまくいけば、マサヒコさんが死をむかえるまで、間引かれることはないのではないかと期待しております」
「そんなこと言われても。だいたい、新しい子猫って言ったって、どこに」
「それから、今夜の話は、けっして他言なさいませんように」
まあ、こんな話を信じる人もいない。
「しかと、お伝えいたしました」
「おい、チャスケ、ちょっとまて! まだ話が」
(二)
うわっと、目が覚めた。
窓にかかるカーテンのすき間から、朝日が差しこんでいた。
窓の外で、チーチーと小鳥のさえずりが聞こえていた。
目をこすってから、目覚まし時計を見た。
六時過ぎだった。
(あっ、遅刻!)
そう思って、飛び起きてから。
(そうか、土曜日だ)
と布団の中にもどった。
今日は、工場には行かないといけない。
でも、午後でいい。
(そうだ、チャスケは?)
見ると、チャスケのベッドが空だった。
「チャスケ?」
あわててさがすと、ソファの一番右端の、お気に入りの場所でクークーねていた。
「夢か」
どうも、そうだったらしい。
いやに長い夢だった。
本当のことを言うと、その時のぼくは、チャスケをおいて引っこそうかと思っていた。
二月の初めに、つとめている電機メーカーから、遠く三重県の工場への転勤を言いわたされた。ぼくは、チャスケを三重県までつれて行くかどうか迷っていた。知り合いに猫好きな人がいて、チャスケならあずかってもいいと言われていた。
もともとチャスケは、ぼくの彼女が飼っていた猫だ。
チャスケに会うまで、猫は苦手だった。
付き合い始めてしばらくして、彼女のマンションに行ったときに、初めてチャスケに会った。ぼくを見て、食器棚の上でふわあ~っと大きなあくびをした。
ぴょん、ぴょんと棚から飛びおりてくると、ゆるゆるしっぽをゆらしながら、とっとっとっとぼくに近づいてきて、ぼくの足に体をすりよせ、それから彼女の前に行って、
「みゃあ」
と鳴いた。
「あら。チャスケって、人見知りなのに」
と、チャスケをだきあげ、固まっていたぼくを見て、彼女は笑っていた。
ぼくの住んでいたのは、一人向けのせまいアパートだったから、ぼくのほうが彼女の住んでいたマンションに引っこすことになった。
ちょっとくやしかったけど、年上の彼女の証券会社の給料のほうが、電機メーカーのぼくの給料より、ずっと多かった。
いっしょにくらし始めると、チャスケの世話は、だんだんとぼくの仕事になっていった。ぼくの方が朝はおそく、夜早く帰ることが多かったから。
朝起きたら、チャスケのごはんを用意し、水をかえ、トイレをそうじしてから、自分の朝ご飯を食べて出かける。帰ってきたら、チャスケの水をかえ、トイレをそうじし、ごはんを用意してから自分のことをする。もちろんたまには、チャスケがはいた毛玉の後始末もする。風呂から出て来ると、チャスケはぼくのひざの上にのって、
「みゃあ」
と鳴いて、耳の後ろをなでろと言った。なでてやると、ゴロゴロとのどを鳴らした。
そのころに、彼女が帰って来た。
「チャスケの世話のために、ぼくが拾われたみたいだ」
そう言うと彼女はケラケラ笑っていた。
ちがうとも言わなかった。
今年のはじめ、スーツケース一つ持って、彼女は旅立った。
急にシカゴの事務所で働くことになったのだ。米国に住んで働くことは、ずっと彼女の夢だった。
最後に
「チャスケをおねがいします」
と言われた。
ぼくの給料だけでは、とてもこのマンションの家賃は払えない。だから、出来るだけ早く引っこさないといけない。
そう考えていた時に、三重県への転勤の話があった。
(だから、あんな夢を見たんだな)
ひざの上のチャスケをなでながら、そう思った。
結局、ぼくは、年度末で電機メーカーをやめた。
自分でも不思議なくらい、思い切ったことをしたと思う。
電機メーカーをやめると決めると、あれよあれよと、考える間もなく、いろんなことが決まっていった。
職業訓練校でホテルサービスの訓練を受けているとちゅうで、ハローワークですすめられて、同じ県の山間の旅館で働くことになった。まかないつきで、旅館のうらの離れに、タダでチャスケといっしょに住んでもいいと言われたのだ。
この転職は、ぼくよりも、チャスケにとっていいことだったみたいだ。
もともと人なつっこいチャスケは、すぐに旅館の従業員のみんなにかわいがってもらうようになった。
マンションでくらしていたときは、昼間は、ずっと部屋で留守番だった。でも今は、旅館の中だけじゃなくて、庭や、裏山にも、自由気ままに行っている。古い旅館だから、いろいろと抜け道があるみたいで、チャスケは、二階にも、屋根裏部屋にも、どこでも自由に出入りしている。
(ぼくは、チャスケのゴロゴロにあやつられて、この旅館に来たのかな)
そう思ったりもした。
最初は、離れでぼくとくらしていたチャスケだったが、すぐに旅館の母屋でねとまりするようになった。
「ちょうどよかったわ。猫がいると、ネズミとゴキブリがよりつかなくなるのよね」
と、旅館の女将さんに言ってもらえて、ほっとした。
ゴンタという茶トラの猫が、昨年末になくなったばかりなのだそうだ。
今やチャスケは、旅館の看板猫だ。お客さんがくると、とっとっとっと、玄関まで走って行って出むかえる。
評判も上々だ。
ご飯は、女将さんか、娘の良子さんにもらっている。
そのせいか、最近はぼくの後を追いかけてこない。よんでも返事もしない。
「お母さん、ゴンタがいなくなってさみしそうだったから。『もうあんな悲しい思いはしたくないから、猫は飼わない』なんて言ってたけど、チャスケが来たら、すっごく元気になっちゃって」
旅館の風呂場をそうじしているときに、良子さんが教えてくれた。
午前中の仕事がひと段落して、離れの縁側で、新緑の山をながめていた。
良子さんが作ってくれたおにぎりを食べ、麦茶を飲んでいるときに、ふと考えた。
(チャスケの世話をしなくなったわけだから、ぼくは、間引き対象になったってことなんだな)
その時だった。
「にゃあ」
ふり向くと、三毛猫がぼくを見あげていた。
小さな子猫を三匹つれていた。
そして、その後ろに、遠ざかって行くチャスケのしっぽが、ゆるゆるゆれて見えていた。
人間抹殺計画 かんだ しげる @cckanda
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます