二、潮風が止むとき

二、潮風が止むとき


 実はまだ僕がこの文章で書きたいと思っていることの半分も書けていないのだ。みなさんはお気づきのことだろうが、副題に掲げた「黒田硫黄」のくの字も出ていない。ちょっと焦ってきたので、もう少し足早に話を進めることにしたい。

 前節では阿部共実と施川ユウキを比較し、「長編漫画」への志向と〈海〉の表象について書いてみたが、ここで「長編に失敗した作家」として黒田硫黄を置き、もう一方に「長編を手玉に取った作家」施川ユウキを置いてみる。施川ユウキという作家については既に述べたので多くは書かないが、たとえば『バーナード嬢曰く。』の無料公開版の、ただ再編集することによって最終話を用意しうるかのような手つきのことである。施川ユウキは長編漫画の持つひとつの〈海〉=クライマックスへの誘惑を回避しつづける作家のように思える。それでは、ここで突然登場する黒田硫黄はどうか。個人的な見解だが、黒田硫黄はいわば芥川龍之介のような、「長編を書けない作家」なのではないかと思うのだ。もちろんこれには彼が病気療養をしていたという理由もあるだろう。断っておきたいのは、「長編を書けない」とここで書くことは決して作家を蔑んだり否定するものではなく、芥川の作品の価値が今もなお更新されていくように、作家の資質としてそう捉えてみたいということなのだ。

(ファンとしては驚くべき事態だったのだが)つい先月に配信されたアナウンサー吉田尚記によるポッドキャスト番組『マンガのラジオ』に黒田硫黄が登場し、全四回にわたって自身の経歴や創作方法について語っていた。その中で、初連載であった『大日本天狗党絵詞』が完結した後、なかなか単行本が売れず、むしろ『大王』という短編集の方が売れたことによって漫画家を続けることができたと話していた。彼の短編作品は珠玉の出来といえる一方で、長編とよべる作品は少ない。長編化を目指したであろう作品はいくつかあるが、それらはどれも果敢な墜落劇のような様相を見せ、最後まで物語を運ぶことができたのは最初の長編『大日本天狗党絵詞』が最後だったようにも思うのである。そして、三人目の作家として黒田硫黄を選んだ最大の理由は、黒田硫黄もまた阿部共実のように短編を積み上げていくことで長編を作り上げようとする節があるからだ。とくに『茄子』と『セクシーボイスアンドロボ』の二作はそれが顕著である。前者にいたっては茄子が登場すること以外には何の繋がりもない(たまにある)独立した話が積み上げられ、後者は女子中学生探偵ものという体裁で一話一話別々の事件が扱われるが、こちらにいたっては未完のまま終了してしまう(その後大幅に脚本を改変してテレビドラマ化される)。その後に不定期に連載したのが『あたらしい朝』であり、こちらは何と一九三〇年代のドイツを舞台にした戦記モノである。といっていいのか、ここで描かれる〈海〉が実に曲者なのである。ただのチンピラだったはずのマックスは、ひょんなことからナチスの裏金をネコババし、ドイツ海軍の仮装巡洋艦「トール」の乗組員となってしまう。この漫画の前半部分はずっと海上で物語が展開されるのだが、そこで描かれるのは戦争状況とは裏腹な停滞に次ぐ停滞である。

 黒田硫黄の〈海〉は物語に対して何らかの引力を持つことはなく、むしろ停滞、安定としてそこに現れる。風は吹いてこず、その無風状態は空虚な空間として好んで黒田硫黄が用いるイメージでもあろう。同様の情景として、黒田硫黄は砂漠を好む。もっと言えば三蔵法師を好む。広大な海や砂漠の上で太陽に照り付けられながら彷徨うというモチーフを何度も書いており、けだるい海の上はあてのない妄想が生まれるキャンパスでもあるのだろう。今年の七月に出た『ころぶところがる』では三蔵法師は自転車にまたがって天竺を目指し、砂漠は火星まで拡張されていた。そんな茫漠とした〈海〉によって、むしろ彼の短編の想像力の奔放さが生まれているのかもしれない。ただしここでひとつ、躍動感に満ちた〈海〉の例を挙げるならば、それは『セクシーボイスアンドロボ』第二話「女は海」に描かれた水族館である。ここでは〈海〉は愚かな男たちが飛び込む水槽であり、女はそれを鑑賞するのみである。愚かなまま水に飛び込む、この力学は黒田硫黄作品に時折登場する徒手空拳のまま飛翔するイメージ(つまりは天狗)を反転させたものともいえるかもしれない。

 ここに至って、無理やりに一つの答えを出してみる。長編漫画を描くということ、いや、漫画が長編となること、その鍵となるのは、「潮風」を弱く、しかし長く確実に吹かせることではないだろうか? これは比喩でありながらそのまま「風」という漫画表現でもある。映画の演出として、クライマックスに近づくにつれ、風が強くなるというものがある。お手本のような例としては黒沢清の『散歩する侵略者』がある。しかし、風が強くなりすぎると物語は終わってしまうのである。全十巻の『潮舞い』単行本をならべてみると、「潮風」が明確に確認できるのは一巻、八巻、九巻、十巻であり、とくに八巻の表紙は88話と強くリンクしたものである。88話は水木の「風の音しか聞こえないな 静か」というセリフで始まっている(この台詞は最終巻で水木と二人乗りをする犀賀の台詞「静かだね! 風の音以外は!」としてリフレインされる)。この風はどんどん強くなり、最終ページで描かれるのは「風」のみである。対して二巻、三巻、四巻の表紙は無風状態のように見え、それは容易く静止した時間を錯覚させる。バーグマンを包み込む水玉表現は八巻の強く風が吹く百々瀬の表紙と好対照をなしている。そして最終話は、読めば読むほど風は止んでいるのではないかと思う。


 この、物語の終わりと〈海〉をめぐる思考にかこつけて、今一度の飛躍をお許し願いたい。「無風状態」とは、なによりも日本語ロックの草分け的存在であったはっぴいえんどの、通算三枚目の、つまりは解散前の最後のシングルのタイトルなのである。


〝風がなけりゃ ねえ船長〟

マストの風をたたんで 彼は今

夜霧のメリケン波止場で 船を降りる


 正確には『さよならアメリカ さよならニッポン/無風状態』という二曲が並べられたシングルカットだが、このどちらのタイトルにも「終わりの時間」が滲んでいる。アメリカの音楽にも日本の音楽にも属したくないという彼らの立ち位置や、「この船を降りる」といったストレートな表現など、読むべき文脈は多いが、考えたいのははっぴいえんどがなにより「風」に表象された存在であったということである。彼らの代表曲「風をあつめて」が収録されたアルバムは『風街ろまん』だし、その他にも「颱風」「風来坊」そして「無風状態」といった楽曲がある。そしてこの「風」は、「アメリカ」という〈海〉から吹いてくる風でもあった。「風」が止んでしまった時、そこにあらわれる終りとは、解散のことでもあるだろう。しかし百々瀬が言ったように、それは新たな始まりでもあるだろう。

 無風状態で船を降りること。「さよならアメリカ さよならニッポン」と歌う時、彼らは一体どこに立っているのだろうか。それは陸でも海でもない、絶えず打ち寄せる波打ち際かも知れないし、水木が真っ直ぐに飛び込んでいったあの空白そのものかも知れない。その始まりからバンド名が示していたように、はっぴいえんどの詞世界はとにかく「さよなら」に満ちている。松本隆はロックに飲み込まれない日本語歌詞を作り上げるために、つげ義春や永島慎二などの『ガロ』系漫画から影響を受けたと話しており、ファーストアルバムのアートワークは漫画家の林静一によるものである(そう、これは枇杷谷への目配せである)。「さよなら」を何度も歌わねばならなかった彼らと、ただそこにいるということが提示される『潮舞い』の世界。『潮舞い』は終わったのか? という問いは、ナイーヴに言えば、僕らは彼ら/彼女らとさよならできたのか? ということでもある。この同人誌がその反証になっている気もしなくはないが、最後に彼ら/彼女らと過ごした時間について考えたい。

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