潮風は長編漫画の夢を見るか? ――阿部共実と施川ユウキと黒田硫黄の〈海〉、そして無風状態――

石川ライカ

一、『潮舞い』は長編漫画なのか



 友人が阿部共実の漫画『潮が舞い子が舞い』(以下『潮舞い』)の同人誌をつくるというので、何かを書こうとは思っていた。しかし、自分は二次創作をするには度胸がなさすぎるし(彼ら/彼女らのことは好きだが、友達になれるかはわからない)、かといってこの漫画のすばらしさを伝えられるような気の利いた批評文を書けるとも思えない(いつも自己言及から書き出すのは悪い癖だ)。まあだから、いくつかの漫画を読んで普段ぼんやり考えていることを、ちょっと言葉にできたらいいなと思って筆を執った。文章の題に掲げたように、パロディの風に身を任せて、自分がこれらの漫画を読んでいて感じる「潮風」の話が出来たらいいと思う。題材として考えているのは阿部共実と施川ユウキと黒田硫黄の三人の漫画家だ。他にも脱線していくかもしれない。ある作品があり、別の作品と並べて色々言ってみる。夜も更けた囲炉裏の雑談のようなものです。


一、『潮舞い』は長編漫画なのか


 まず、「長編漫画」という概念自体が曖昧なものである点は留意したい。「長編漫画」という言葉の明確な定義はない。たとえば、四七一二名を対象にして二〇二一年一二月に行われた「〝長編マンガ〟に関する意識調査」(総合電子書籍ストア「ブックライブ」調べ)を見てみると、「本調査内では、単行本で5巻以上連載が続いているマンガ作品を「長編マンガ」として定義しています。」という記述がある。また、同様の記事を書いている個人ブログなどでは、長編の定義を「連載5年以上か、単行本10巻以上」としているものも多かった。要するに、「連載が長く続いている」とみなされる漫画が長編漫画なのだ。しかし、せっかくここでこうして文章を書こうとしているのだし、定量的な評価をするのではつまらない。長編漫画についてもっと定性的な、文芸的な批評を試みたい。

 稀代の短編作家である芥川龍之介にとって、最初の長編小説の試みは壮大な失敗であった。その失敗作と言われる(というか本人が散々卑下している)「偸盗」を論じた、山本亮介の「長い小説の作り方」では、叙事詩ジャンルの先に長篇小説(=Roman)を位置づけたヘーゲルやルカーチに触れ、「超越的なものを失った世界で葛藤する個人が、生の全体性の回復を目指すというモチーフは、さまざまな長編作品へ当てはめることができるはずだ。」と述べる。これは作品の構造に着目した定義の一つといえる。また、こちらが論文の趣旨となるが、小説に言葉が多くなること、つまりは量的に〈長さ〉が伸びていくことに関して、「小説の言葉の連なりじたいが帯びるエネルギー」に注目し、「小説の〈長さ〉とは、観念的な線ではなく、質量を持つ言葉が形作るものである。そして長編小説は、その〈長さ〉の生成を一つの目的とする文学ジャンルである。」とまとめている。

 突然文学だ何だと言って、なんだかこの文章自体が長さを延長しようとしているように思われてしまうかもしれないが、この論文で指摘されている小説の〈長さ〉を伸ばす方法はシンプルなものである。場面を変えて、情景の説明をする。登場人物を増やして、それぞれの背景や内面を語る。時間帯や年月を進行させて、変化を語る……もうおわかりかもしれないが、これらの要素は『潮舞い』にはあまり当てはまらない。もちろん小説の語りと漫画のナラティヴを並列に論じる訳にはいかないが、『潮舞い』においては基本的に一つのエピソードはワンシチュエーションで進むことがほとんどである。たしかに登場人物は膨大だが、一人一人の背景や内面が丁寧に掘り下げられるわけではない。時間は……これは重要な問題だ。はたして『潮舞い』世界の時間はどのように進行しているのか。それとも止まっているのか? この点に関しては後述したい。しかし、阿部共実作品に触れたものならだれでも思うように、阿部共実の漫画は質量を持った言葉に溢れている。言葉が氾濫している。また同時に極めて特徴的な点として、ショートショートのような一話完結の形式で進んでいく。これは初期作品である『空が灰色だから』では顕著である。次々と新しいキャラクターが現れては消えていく。初期作品から最新作まで、阿部共実作品の特質でありまた大きな魅力として、物語の一回性、断絶性が指摘できるだろう。

この文章を書いている最中の十二月九日、筆者は武蔵大学で開催された「話芸・パフォーマンスアートとしての実話怪談」という企画を聞きに行った。その質疑応答ではホラーゲーム実況について発表していた橋迫瑞穂さんが「実況などで人気が出るホラーゲームや実話怪談は長さが短いことが多く、瞬間の恐怖は長い物語とは相性が悪い」といった内容の発言をしていた。これはそっくり『空が灰色だから』にも当てはまるだろう。阿部共実作品の中で特に恐怖を主眼とした、オカルトや階段の要素をもったエピソードは初期作品の『空が灰色だから』に集中している。また、そうしたゾクッとする話は単行本の終盤に置かれていることも多かった。阿部共実は短編形式による恐怖を効果的に配置し、その断絶性をより際立たせる形で構成していたのである。

 山本亮介論で述べられていた「超越的なものを失った世界で葛藤する個人が、生の全体性の回復を目指すというモチーフ」という観点は、特に単行本一冊で完結する長さの物語を一人の視点から語り終えた『ちーちゃんはちょっと足りない』などに強くあてはまるだろう。この一つの物語が語りおおせられたという満足感によって、当時の筆者は「ついに阿部共実が長編漫画を描いた」という感慨を抱いた覚えがある。そして、やっと問題は最初に戻ってくる。阿部共実作品としては間違いなく最長の連載となった、今年の八月に第十巻をもって完結した『潮が舞い子が舞い』は、はたして長編漫画なのか?

 こう言い換えてもいい。短編を積み重ねていくとそれは長編になるのだろうか? 先に西洋の叙事詩に触れたので、たとえば『平家物語』や『源氏物語』が長編であるとすれば、『今昔物語』は長編なのか? 話を文学に引き戻すつもりはない。ここで比較してみたいのは、阿部共実より十年ほど早くデビューした漫画家、施川ユウキである。


 デビューの時期こそ違えど、阿部共実と施川ユウキの両者は面識があり、二〇一三年には秋田書店のWEBマンガサイト『Championタップ!』のオープンを記念して、コミックナタリーによる対談企画が行われている。そこでは「ちょっと毒気のあるおふたり」という紹介で、主にギャグマンガ家としての創作に関する対話が交わされている。阿部共実が施川ユウキの『サナギさん』に衝撃を受けて『空が灰色だから』で女の子に屁理屈をペラペラ言わせたなど、貴重な影響関係がうかがえるが、ここで注目すべきは、施川ユウキが影響元として『伝染るんです。』『セクシーコマンドー外伝 すごいよ‼マサルさん』『ぼのぼの』などの作品を挙げているように、この両者に共通して(対談企画によるジャンル化の要請はあるにせよ)「ギャグマンガ家」というアイデンティティが見受けられる点である。

ここまで読んでくれていた人には、文学だとか叙事詩だとか大層なことを書いているけど、これはギャグマンガじゃないかと呆れていた人もいるだろう。そう、ここにはギャグマンガは長編たりうるのかという深淵なる問いすら横たわっている。それぞれの作品について読者の価値判断が適用されるとは思うが、阿部共実と施川ユウキの二人に限っていえば、その作品の特徴は重なりつつもかなり異なっている。このインタビューの時点で十作品以上の連載を終えている施川ユウキは、この前後に描かれた『オンノジ』や『ヨルとネル』を見ただけでも、これらの作品がSFかつ日常的なギャグエピソードの蓄積によって駆動しつつも、それが例えば前者なら奇妙な世界からの脱出、後者なら待ちうける死の運命など、明確な結末に向かうドラマツルギーを駆使している。この点ですでに施川ユウキは長編化の要請に応えるストーリーテラーとしての手腕に長けた作家といえるが、阿部共実作品と比較すべきはむしろ連載中の『鬱ごはん』や『バーナード嬢曰く。』(以下『ド嬢』)の方である。これは「日常系」と言えばいいのだろうか、めぐり続ける四季の中で登場人物たちのやり取りを紡いでいくものである。前者は一人暮らしのフリーター「鬱野」の視点でアンチグルメ漫画のようなネガティヴな(と同時に楽天的な)生活と食が語られ、後者は高校の図書館に集う男女数人の(読書ジョークにまみれた)交流が描かれる。ショートショート形式でもあり、物語の「終わり」が設定または予感されずに進んでいくことができる。『空が灰色だから』や『潮が舞い子が舞い』もまたこのような作品と共に見ることができるだろう。ちなみに私見では、施川ユウキの近年の作品『銀河の死なない子供たちへ』はそのナンバリングが(上)(下)とされていたように、最初から想定された尺の中で描かれた「完結に向かう物語」といえ、阿部共実の『ちーちゃんはちょっと足りない』をも連想させるような、作家たちの持つ「独立した、高度に構築された作品を創ること」への欲望を感じたものだった。

しかし、施川ユウキは膨大な作品数を経て、より狡猾な戦略を持ち合わせているようにも思えるのだ。それは、長編化の技術というよりも、むしろアンチ・エンディング的な資質である。施川ユウキは本来読者をドラマチックな終りへと導くことに長けた作家であるはずなのだ。であるからこそ、彼はエンドを示すことを避け、非線形な物語として逆説的な長編漫画化を成し遂げている。例を挙げよう。『鬱ごはん』の第一巻であんなにも印象深く登場していた黒猫(第一話では「妖精」と呼ばれていた)はなぜ第二巻を最後にして姿を消してしまったのか? 主人公の内面と対話する自己分析的で嫌味なあの黒猫が登場し続けていたならば、「鬱野」の物語にはそのような自分との決別や和解など、ある種の「エンド」が想定され得たのではないか。

また、これは極めて象徴的な例であるが、『ド嬢』には再編集された電子書籍限定の無料公開版、【友情編】が存在する。これは主人公の町田さわ子と神林しおりの二人の交流エピソードのみを収録したものであり、そのカップリング人気の高さから巷では【百合編】などと呼ばれていたりもする。この【友情編】では二人の友情の芽生えからその関係性の変化が丹念に描かれ、読者はその行く末を見守ることとなる。もちろん連載途中の作品の「傑作選」であるのでその中でストーリーが完結することはないのだが、それでもかなりクライマックスと呼べるエピソードが二回ある。【友情編】における13冊目「渚にて」と16冊目「デジャヴ」である。それはどちらも〈海〉にまつわるもので、普段は図書室の中で人物同士の掛け合いを映すカメラがここでは神林しおりにフォーカスし、彼女のモノローグが浮かび上がっていく。そして言ってしまえば、神林が「潮風」に呼び起される読書の記憶と共に町田さわ子を想う、というある種の「ハッピーエンド」が読み取れるのである。「ハッピーエンド」という言葉は熱狂的なSF小説ファンの神林には似つかわしくないかもしれないが、このエピソードが終末ものの名作、ネヴィル・シュート『渚にて』を引用しているところからもその終わり(と同時に永遠)への志向は明らかであると思う。

そして、もう結論を言ってしまっているような気もするが、『ド嬢』の〈海〉が読書に夢中になって終点まで乗り過ごした果てにたどり着く場所であるならば(それは文字通り神林と町田の距離感でもあり、また関係性の終点でもあるだろう)、『潮舞い』の〈海〉とはどのようなものだろうか。『潮舞い』の第一話冒頭のモノローグは「潮が舞い込む/海のそばの/田舎町」であり、この言葉は第一話の末尾にて繰り返され、「しょっぱいすわー!」というモノローグの応酬が重ねられている。つまり、『潮舞い』世界における〈海〉とはなによりも「潮風」として子供たち(と大人たちすべて)を包み込むものである。「しょっぱい」という味覚によって内側から浸食する「風」である。第一巻の表紙に描かれた風を孕む教室のカーテンが示すように、それはむしろ「向こうからやってくる」〈海〉といってもいいのかもしれない。もちろん高校生の彼ら/彼女らは容易く海に寄り道し(21話)、時には海にダイブする(37話)。しかしそうした〈海〉への接近は物語にクライマックスをもたらすことはない。むしろ高台にある団地から遠景として〈海〉が描写される場面により強烈な関係性の動揺がもたらされる。

ここから最終巻の内容に触れるが、最終話まであと四話に迫った107話では水木と火川が高台の団地から海辺の銭湯まで下降移動をしながら将来についての会話をする。また、最終話手前の109話では水木と犀賀が自転車の二人乗りをしながらよりスピードを増した状態で坂道を下降していく。学校においても漫画においても中心人物といえる水木と、火川や犀賀との関係性がやがて変化していく(もしくはもう変わってしまっている)ことが高度の変化によって示唆されている。というより、水木は二人のどちらとも下降運動を繰り返すが、その適応力の高さゆえか、自身のスピードを決めかねているようにも思える。高度の変化に関していえば、学校の持つ構造そのものも学年という高度を持っている。たとえば八巻の末尾に収録されている〝あの〟88話では水木と百々瀬が二人で団地のある高台まで上っていき、やがてあの会話へとたどり着くことになるが、そこに至るまでの八巻の道のりを振り返れば、78話から83話までは水平方向に同一化されたグループの話を描き(ワンシチュエーション劇が多い)、とくに81話、82話では二人に視点が固定されスローな時間が描かれるという点において後半の流動化、階層化、固定された関係の破壊の下準備としては強烈な仕掛けになっている。また84話、85話、87話の三話分を使って執拗に一年生男子の視点を入れ込んでくることで、水木たちのいる学年の階層性が立体的なものとして浮かび上がり、何らかの閾値に達してしまうかのような緊張感を味わったことを覚えている。

そして最終話に視点を戻せば、百々瀬とバーグマンの二人は教室に揺れるカーテン(潮風)によって〈海〉へと誘われ、授業をサボって(二時間目から!)砂浜へゆく。そしてこの二人はあくまでこの二人らしく、徹底して動かず、並んで座ったまま言葉を重ねていく。


「学校を抜け出しちゃって これ私たち終わりましたよね」

「真鈴 終わりは始まりともいうじゃねえか」


 北野武の映画『キッズ・リターン』のラストの台詞すら思い出す鮮烈な言葉だが、この二人はラストショットに至って海へと足をうずめる。〈海〉に入ったというよりは触れたというべきか、このやわらかな接触は阿部共実お得意の水玉表現と共に半ば静止した時間のようにも見える。ここに「永遠」を見てしまいそうになるのは読者のエゴかも知れない。僕は容易く、節操なく、思い出してしまう。


また見付かった。

何がだ? 永遠。

去ってしまった海のことさあ

太陽もろとも去ってしまった。


 これは中原中也が訳したランボーの「永遠」の一節だが、しかし太陽はまだ真上に照っている。せいぜい四時間目が終わるくらいの時間だろう。彼女たちには無限のような午後がある。そして、僕が言いたいのは、この場面ではない。その前話のラストに置かれた水木と犀賀のやり取りを思い出せば、どこか現実を捉え切れずに「潮風」への抵抗感をにじませたままの水木と、「潮風」そのものと戯れようとする百々瀬たちの遠く離れた在りようを感じてしまうのである。


「いいね どこまでも行きたくなるよね でも風越が待ってるから」

「わかってるよ」


 潮風と接近することで、彼女たちの物語は無風状態を呼び寄せる。しかし一方で、水木は『シン・仮面ライダー』の冒頭すら彷彿とさせる「風」の最大化の状態にある。そして、何を隠そう、待っているのは「風越」なのだ。水木は風を越えようとしている。

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