第34話 偏見と月贔屓ルナティックⅣ


リエコ先生が手渡してくれた。

それは本一冊だけではなかった。


それは何処にでも行ける切符。

開かない扉をこじ開ける鍵。


しかし道を間違えてしまった。

おかしな場所にも迷い込んだ。

そうと知ってもまだ線路の上。


軌道を走る列車にしがみついている。

ここにいるお前らと…彼女もそうだ。


みんなが未来に向かう列車の乗客。


ほんとうのさいわい。

魂の集う南十字星の駅。


そこは心安らぐ場所。


けれどほんとうのさいわい。

そこにはけしてないものだ。


だから皆駅で汽車を降りる。

自分の進む線路をみつけて。

別の汽車に乗り込んで行く。

それはわかっていることだ。


束の間の幻のように消える。

追憶の中にしか残らない駅。


何がさいわいかなど俺は知らない。

これから先もわからないままかも。


それは皆が大切に抱えている。

火星と似て非なる夜空の真紅。


凶星とは逆の意味の謂れ。

痛みすら伴う赤い炎の星。


「嫌いの反意語を答えなさい」


そんな簡単な設問。

テストには出ない。


「好きの反意語は嫌いではない」


昔、誰かがそう言った。

嫌いの同義語もまた然り。


好きも嫌いも感情である。

感情を言葉にしたとしても。

それは一つの解で括れない。


ではすべてのさいわいの反意語は?

そこにあるようで無辺無窮の彼方。


さいわいの反意語は厄災である。


すべてに降りかかる災厄。


だからやるべきことかある。

いつもの戯言や妄想であれ。

そう思わずにはいられない。


どっかで聞いてるはず。

俺の一番古い連れ合い。


ずっと名無しだった。

自分の名を隠してた。

仇以外のお前の名前。


お前に相応しい名前。


今はそれを考えてる。




なんとか小学生になれた。

俺はなんとか生きていた。


「みき君…足大丈夫?」


ノリちゃんは俺を気遣ってくれる。

捻挫した右足を固めた石膏ギブス。


それを痛々しそうな目で眺めている。


「リエコの野郎のせいだ!」


忌々しげにそう言うのだ。

リエコ先生は女だけどね。


「みき君に…こんな恥をかかせて!」


たかが遠足で五kmくらいの距離。

しかも下りの道を歩いただけだ。


それだけで捻挫。


われながらひ弱過ぎる。

自分が嫌になる脆弱さ。


初めてギブスをはめて学校に行くと。


「弱虫」


そう言ってリエコ先生に笑われた。

まあ言われてみれば確かにそうだ。


遠足の途中で足を捻ったり。

転んだりしたならまだしも。


これは怪我ではない。


俺の足は少しばかり長距離を歩いた。

それに耐えられなくて悲鳴を上げた。


他の子と比べて随分弱い。

女子の方がよほど逞しい。

骨や筋肉は藁といい勝負。


「みんな準備はいい?」


リエコ先生は笑顔で皆に言った。

その手には太い油性のマジック。


クラスの皆は返事をする代わりに。

手にしていたペンを上げて見せた。


「やっておしまいなさい!」


色とりどりの筆記用具たち。


クレバス、クレヨン、パステル、サインペンに七色鉛筆。目の前を飛び交う。


クレヨンとパステルの違いは何だろう。

サインを求められるアイドルみたいだ。

俺は同級生たちにとり囲まれた。


あの子はその中にいただろうか。

何色かのペンを手にしていたか。

でも大勢の生徒たちを前にして。

きっと俺のそばには来かった。


あの子に書いてほしかった。


そしたらきっと記憶に残った。

その文字と色彩は記憶はない。


「バカ!弱虫!ビンボー!」


それそのまま読んだら悪口だよ。

悪口に読めるかも知れないけど。


クラスの皆がギブスに書いてくれた。

怪我で休み明けへの俺へのメッセージ。

それはリエコ先生のアイテアだった。


「リエコのやつめ!」

「これはいじめだ!」


いじめとは思えないんだけど。

むしろ何かくすぐったい気持。

ちょっとだけ嬉しかったのだ。


ノリちゃんは憤懣やる方ない様子。


「こんなのは許せないよね!」


ノリタカさんじょう!


しっかり書いてあるけどね。


「ぼくちんは友情だからいいの!」


「リエコは悪い先生」

「リエコは悪い大人」

「だから戦うのだ!」


ノリちゃんは鼻息荒くそう言った。

ノリちゃんはそう言うのだけれど。


リエコ先生はいい先生だ。

それに気づき始めていた。


ノリちゃんは理解出来なかった。

ノリちゃんはずっと親友だった。


「みき君が一番好きだ!」


誰よりもそう言ってくれた。

具合が悪くて来れない日も。

いつも待っていてくれた。


でもリエコ先生のことを悪く言う。

それを一緒になって笑えなくて。


なぜだか悲しい気持ちになる。


秋の浮雲を眺めるように。

オノマトペを響かせながら。

時間と季節は流れて行った。




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