第19話バレンタイン&ホワイトデー特別編Ⅱ


【僕のグリーン・ゲイブルズへようこそ!】


少年は自分の故郷にルビをふってみた。

そして我にすぐに返る。慌てて消した。


ここはグリーン・ゲイブルズではない。

林や茶畑の緑しか合ってないじゃないか。


あらためて見るまでもない。

想像力も及ばない辺境の地。

辺境伯ではなく辺境僕。

もう全然面白くない。


そう気がついたからだ。



小学校には図書室がなかった。

中学には広い図書室があった。


小学校は集落の中にあり。

家から歩いて五分の距離。


ひたすら坂道を登りに登りつめた至。

空と雲に一番近い場所に建つ木造校舎。


集落を見下ろす高台にあるのは社。

小学校と細い林道で繋がっていた。


生徒たちは学校の清掃活動一環として、

箒や塵取りを持たされ林道を抜ける。

神社の掃除が時間割の中にあった。


無人の古い社は鎮守の森の中。

大楠と椎の落葉樹に囲まれ。

神主も巫女もいない神社だ。


そこは人犇めく里から離れた場所。


高台の地に建立されていたせいか。

それ故か鳥居を潜ると特別な場所。

子供の頃から静謐で特別な場所。

そんな気持ちを抱かせたものだ。


神社の創建には清水が欠かせない。

清らかな水が湧く土地でなくては。


先ずその条件を満たす土地を見定め。

その地に神社創建と言われるほどに、

禊や清めの水が不可欠なのだ。


そこには御神体だけが祀られている。

秋には落葉樹の枯れ葉が舞い落ちる。

風情ありとか散りぬるに任せれば。

石段も参道も社も落ち葉に埋もれ。

不審火や小火も心配になる。


定期的に神社全体の清掃が行われた。

町内の組合と小学校の生徒の役目だ。

社には平素誰も参拝者など訪れない。


一応賽銭箱らしき物はある。

そも参拝者などいないお社。 

賽銭泥などの心配もなく。

賽銭の回収もされない。


社は文字通り伽藍堂で何もない。

御神体は堂の裏手にまわり。

短い石の段を登ったその先。

簡素な祠に祀られている。

誰も神様の名は知らない。


町内会長でさえ他の土地の人に聞かれて。答えに窮した。そこで父に訊ねたことがある。父が調べてみると。


「天照大御神らしい」


無論天照大御神御本尊な訳がない。

日本全国にある分社の中の分社。


それでも神社には神明神社という、

大層立派な名前がつけられていた。


枯れ葉掃除には低学年から参加した。 

そこには一際目にとまる異物があった。


他の生徒や先生は気に止めることなく。

真面目に掃除をする生徒もいれば。

ふざけ散らかし石段から飛び降り。

先生に叱られたりする者もいた。


ずっと気になって仕方なかった。


それは見たこともない楽器たち。

お堂の中に整然と並べられていた。


祭日などの催しに披露される神楽器。

雅楽に使われるような和楽器ではない。


赤いペイントが施されたストラトキャスター、ハモンドオルガン、ドラムキットはパール製の1バス、べースはリッケンバッカーだ。もちろん当時はそんな楽器のことなど何もわからない。


もし中学生にでもなっていれば。


「ドラムのシンバルのセッティングが若干高めでサウスポー仕様となれば…この神社には夜な夜な紫の神々が降臨するのか!?」


そう言って喜んだに違いない。

それでも幼い時に聞いた音色。

神神楽の正体はそこで解けた。

それは少しだけ前の話になる。

そしてもう少し後の話だ。



小学校に図書室はなかった。


「小学校には立派な本の部屋があるよ」


誰かにそう言われた気がする。

自分でも勝手に想像していた。

期待して少々がっかりもした。


それでも教室には備え付けの本棚があり。

どの学年の教室でも共通していた。

所謂学級文庫というやつである。


「小さな学校だから図書室がない」


長年そう思って来た。

けれどそれは違っていた。

小さくても私塾ではない。


文部省の認可を受けた。

れっきとした小学校である。

年度予算もきちんと降りたはず。


その証拠に、学校には体育館も講堂もあれば、整備されたグランドには体育器具室。特別教室も備品も不足なく揃っていた。


「うちの学校は…町の大きな小学校よりも、備品の充実ぶりや設備では全然負けてないんだぞ!ライン引きの石灰だって一番いいやつ使ってんだぞ!」


よくわからないし響かない自慢。

そう先生方が胸を張るほどだ。

しかし図書室だけがなかった。

それは後々調べてわかった。


それは当時の文部省の方針だった。


子供たちに読書の習慣を根付かせるため、

図書室は敢えて設けず教室に本を置く。


いつでも手に取りたい時。

最短で書物に手が届く。


わざわざ図書室に向かわずとも。

読みたい本を持って借りられる。

先生のいる机に行けばよいのだ。

それはありがたいことだった。


毎日本を持って先生のところに行った。

その度に教員机からスタンプを出し。

その度に先生は首を傾げていた。


「本当に読み終わった?」

「もう読んじゃったの?」


俺はその度に頷いた。

勉強や運動には淡白でも。

本だけ貪欲に興味を示す。

がつがつした子供だった。


あまりにがっついていたので。

学級文庫の本は一学期持たなかった。


「もう読み終わっちゃったの?」

「それは困ったね…」


小学校一年最初の担任は若い女の先生。

そうは言ったが。それきりだった。


いつでも好きな時に気軽に本に手が届く。

後の文科省の方針はありがたかった。


けれどわが地元の子供たち。

教室の本に興味など示さない。


「これ読みなさい」

「感想を書いてね」


そうでも言って尻を叩かれなければ、

誰も教室の本など読みはしなかった。


普段は何かと騒々しい教室の中にあって。

本棚は無人の神社のお堂か墓石のように。

常にそこだけが静寂を湛えていた。


俺は同級生から見れば。

そこにわざわざ出向いて。


猛烈に柏手を打ち。

おりんを叩きまくり。

日参詣でして参拝奉る。

物好きの変な子供だった。


二年になっても本棚と蜜月は続いた。

低学年担当はそう決まっているのか。

担任はまた新卒の女の先生だった。


名前はリエコ先生。


これをボーイッシュと言うのだろうか。


とても勝気ではっきりした物言いの先生。

すぐに女子たちからは慕われた。


何しろバカな男子が調子に乗って来ても。


「リエコ先生に言うからね」


その一言で怖気づいて大人しくなる。

女子からは頼りにされる先生だった。


俺はリエコ先生の顔が好きだった。

目鼻立ちがはっきりした外人顔で、

昔からそういう顔の女性が好きらしい。

それ以外は少し苦手。


理由はぐいぐい遠慮なしに来る。

苦手な言葉の三文字は体育会だ。


初めて二年生の担任となった日。

先生は教室で黒板に名前を書いた。

一人ずつ名前を呼んで挨拶をした。


「これからみんなよろしくね」


それから先生は話してくれた。

先生が大学生の時の話だった。


「ある夜にね…先生の実家で寝ていたら、家に泥棒が入ったの!」


誰もいないはずの深夜の階下。

何か物音がするので不審に思い。


階段を降りて物音のする方へ。

そこで泥棒とはち合わせした。


先生が思わず一喝する。

泥棒はその気迫に驚き。

一目散に逃げ出した。


普通喝ではなく悲鳴とか。

普通女性ならそうでは?


「先生は泥棒を追って!追いかけて!裸足で外に飛び出していました!もちろん母は『危ないからやめな』と止めましたけど…」


逆に襲われる可能性だって充分にある。

なぜそうまでして先生は追いかけたの。


「許せないと思ったからです」


先生はお母さんに「警察に電話しといて!」と言い残し玄関を出て。


そして泥棒を追走した、らしい。


「みんな心配しないで」

「先生だってばかじゃありません」


それは先生になれるくらいだから。


リエコ先生は裸足で真夜中の道を駆けた。

ただひたすら泥棒を追いかけて走った。


けれど泥棒に追いついて。

ぼこぼこにやっつけました!

そんな武勇伝ではない。


「泥棒待て!」


大声で叫びながら町中を走る。


「何事か!?」


住宅街の家に灯りが次々灯る。

その明かりが後方に遠ざかる。

泥棒はもう前に進むしかない。


先生はけして泥棒に追いつこうとせず。

一定の距離を保ち追った。


走り疲れた泥棒はへたり込む。

それをずっと待っていたのだ。


港のある湾岸線の道路まで。

二人の追いかけっこは続いた。


「泥棒が、とうとうその場に尻もちをついた時です、先生の後ろの方で、ものすごい音がしました!」


港のコンビナートが火事で。

引火した石油タンク爆発した。


「先生が聞いたのはその音でした」


走る車も疎らな県道湾岸線。

時計なんて持って出なかった。

水平線に未だ朝日は登らない。


「街の西から、夕焼けや、朝焼けの太陽が登ったみたいで…それはとても綺麗でした!先生の忘れられない光景です!」


天才バカボンの歌みたいである。

一人でも戦隊のリエコである。


泥棒はさぞ怖かっただろう。


轟轟と燃えさかるコンビナート。

炎と爆炎を背にして仁王立ちする。

その女のことが。僕たちの先生だ。


それは母の通報を受けてなのか。

火災現場に向かう途中だったのか。


先生は通りがかったパトカーの前に立ち塞がった。もうその姿はハイウェイマンである。


犯人は無事お縄となった。

めでたしめでたし。


小学二年生になったばかりの生徒たち。

全員ぽかんとした顔で聞いていた。

その話を面白がるにはまだ早すぎた。


もう大人になってから久しい。

同級生は誰も覚えていないだろう。 

リエコ先生の思い出の中だけにあり。

その話を覚えているの多分俺だけだ。



小学生になってからしばらくの間は、

そんな日々をぼんやり過ごしていた。

その前に死線をひとつ越えたから。

なんとか生きながらえた。


それは束の間訪れた余暇のようで。

日々呆けたように過していた。


授業中は何時もぼんやりしていた。 

ぼんやりと空想ばかりしていた。


通知表には「集中力がない」「授業中も上の空」「きちんと睡眠時間は足りていますか」などの文字が踊った。当たり前である。


「もう読んだの?」


本を先生に返却する時に言われる。 

夜中遅くまでずっと読んでるから、

昼間は眠くて当然なのである。


赤ん坊でも大人でも、人の脳はその日にあったこと、学んだこと、そのすべて睡眠中に記憶として整理されるのだ。


だから俺の脳は昼間は半ば眠った状態。

夜に読んだ本の整理をしているのだから。

授業の内容や先生の声が入る隙間など。

1ミリ足りとも残っていない。


幸いなことに小学生に上がる少し前。

父親が心配して算数を教えてくれた。


文字の読み書きは、幼稚園の頃から読んでいた本のおかげで問題なかった。


夜中まで、かけ算や割り算など、みっちり叩き込まれていたので、入学してすぐに落ちこぼれる心配もなかった。


テストは問題なく解答欄を埋められる。


しかし不意に先生に指されたり。


「今先生が言ったこと、もう一度説明してみせて!」


これには対応出来ない。

何しろまったく聞いてない。


「あんた帰っちゃだめよ!」


当然居残り確定である。


先生がいる教室で居残り授業。

そして確認のためのテスト。

出来たら初めて家に帰れる。


冗談ではない。

ぼくは出来る子。

先生が間違ってる。


こそこそ学校を抜け出す。

わけあってその頃の自分。

逃げ足には自信があった。


長距離は無理だが短距離なら!


そして…脱出成功!


そう思って校門を出る。

洋々坂道を歩いていると。


猛烈な勢いで足音が近づいて来る。


リエコだ!リエコが来る!


ぼくがいないのに気がついて。

ものすごい勢いで後を追って来る。


とっさに脇道の茶畑にダイブ!

そしてすぐに茂みに身を隠す。


髪を靡かせるガソリンスタンドの女神か?

いや般若の面を顔に貼り付けた鬼だ。

赤いジャージの女が通り過ぎて行く。

昔話の三枚のお札は一枚もない。


救急車より!消防車より!!

それはエマジェンシーだ!!!


多分その時に頭に閃いた。

リエコの言葉を思い出す。


「泥棒待て!」


そう言われた気がした。

リエコに追われた泥棒。

その気持ちがわかった。


コソ泥にシンパシイを感じる。

そんな小学生二年生であった。


リエコはけして俺を許さない。

けして甘やかしはしない。

恩赦など存在しないのだ。


なぜこんな先生にばかり縁がある。


人間誰れしも好き嫌いはある。

大人だってそうだろう。


足りない栄養は他ので補えばいい。

食えないもののひとつやつふたつ。

あって然りだ。そこが可愛い。


人間味があっていいじゃないか。

子供らしくていいじゃないか。


昔からひじきと塩辛が食えなかった。

好きな人には気が悪いかも知れない。


家にいる時は叔父さんやフサ姉ちゃんにからかわれて「食ってみろ!美味いから!」と騙されて食べさせられた。


幼児に珍味はハードルが高すぎた。


幼稚園では給食以外に「お弁当の日」というのがあった。


家から手作りのお弁当を持参する。

好きなおかずだけ食べられる日。


友だち同士おかず交換するもよし。

みんなが楽しみにしていた。


俺はいつも休みがちだった。

連絡が行き届かないこともあり。

その日お弁当を持たずに出かけた。


お昼時間はみんなが笑顔だった。

母自慢のお弁当を机に広げていた。

パンをちぎって投げるやつもいない。


俺は一人しょんぼり座っていた。

すぐに先生が気づいて来てくれた。


銀紙に包んだ大きなおにぎりを二つ。

そっと俺に手渡してくれた。


確か年長に上がったばかりの頃。

その先生は優しくて好きだった。


「食べなさい」


嬉しくて。先生にお礼を言った。

お弁当を忘れて怒られると思った。


まんまるで海苔を巻いたおにぎり。

すごくお腹も空いていたから。

俺は思いきりかぶりついた。


中身が塩辛だった。


まったくの不意打ちだった。

まさかお弁当のおにぎりに塩辛。


しかも常温なので温い。

絶妙の気持ち悪さと食感だ。

きっと先生の好物なのだろう。

お弁当の具にわざわざ入れるくらいだ。


俺は先生の顔を見ながら。

涙目でおにぎりを食べた。


若い先生たがらたくさん食べるのか。

おにぎりは漫画みたいに大きくて。

塩辛の具もたっぷり入っていた。


以来塩辛は大人になってからも。

まったく口にしなくなった。

トラウマになったらしい。


「もう泣かなくても大丈夫よ」


先生は俺の頭を撫でてくれた。

俺はその先生が嫌いになった。


塩辛は発酵食品である。

腸などが腐っている。

腐ってる風味なのだ。


外国人が納豆を食えないと言う。

それとまったく同じ理屈でないか。


太古の昔から受け継いだ本能。

その本能が警告を発するのだ。


「これは危険だ!」

「毒かも知れないぞ!」


俺は本能に従っただけだ。

子供が野菜を苦手にする。

原因は強い香りと色彩。


自然界にあっては、警戒すべき色を意味する。生物だって、赤や黄色や色彩が強烈な個体は、有毒の可能性が高い。


そんなことを先生に説明出来ない。

まだ圧倒的にボキャブラリー不足。

それに給食に酒盗は提供されない。


ひじきにいたっては意味がわからない。

あの味や見た目からしてそうだ。

海の物とも山の物とも思えず。

うまみや甘みからほど遠く。

しかも食べ物なのに黒い。


一度は口にした。

教室で吐いてから。

トラウマに化けた。

だから食わないのだ。


それ以前から嘔吐するという行為。

体験から並々ならぬ恐怖心があった。


しかしリエコは許さない。

俺を特別扱いしない難物だ。


隣の席の女の子はお肉が苦手だった、


「あげるね!


誰かの皿に苦手を放り込む。

俺はそれが要領よく出来ない。


やるとリエコに必ず見つかる。

そしてひじきは不人気なのか。

すくに突き返されてしまう。


食べれずトレーの食器とにらめっこ。にらめっこが将棋の長考のように続く。


「もう残していいよ」


そんな言葉を辛抱強く待った。


「食べれるまでそうしてなさい!」

「好き嫌いは先生許さないからね!」


今ならハラスメントのカテゴリーだ。

ひじき給食モラルハラスメントだ。


リエコ。体育会。ひじき

苦手の三大ランキング。


給食の時間が終わり。お片付け。午後の授業。そして掃除の時間が来ても。


給食の時間がとっくに終わっても。

俺だけがドリフの合唱団みたい。

ぶかぶかの給食着を着たままで。

ふくれ面で席に座っている。


「どいて!」

「掃除の邪魔!」


そう邪険にされても。

家ではそう育てられた。

食えないものは食えない。


「掃除の邪魔だから職員室!」


トレーと机を持って職員室に移動。

他の先生たちの視線を一心に浴びる。


「邪魔!」


上の学年の生徒たちにも言われる。

校長室、さらに保健室へと移動する。


まるでピルグリムのようだ。

いや文字取りドリフター。


受難のトレーを両手に抱え彷徨う。

島流しにされた孤独な旅人だった。


最後に漂着する場所は音楽室だった。

午後の授業終了の放送が流れる時刻。

放課後の音楽室に追いやられると。

いつもその先生は一人でいた。


音楽室は六年生の教室の隣。

石の渡り廊下を歩いた棟にある。

学校の教室の中でも特に静かだ。


六年生の担任らしい。

中年の女の先生だった。

ちょっと冷たい感じがする。


「とても躾とか礼儀に厳しい」


そう上級生たちが話していた。


「あら、また来たのね?」


そう眼鏡の奥で惨めな俺を見て。

黙って弾いていたピアノを再開する。


元々は専門は音楽の先生らしい。

放課後は一人でピアノを弾いていた。


何かディナーにでも似合いそうな曲。

先生のピアノが流れる中に二人だけ。

俺は夕暮れの時間までそこにいた。


先生がピアノを弾き終える。

鍵盤に蓋をして立ち上がる。

さっさと教室を出て行く。

その間一言も会話もない。

音楽室に取り残される


その先生が俺の前でよく弾いてた曲。


その曲の題名はバター付きのパン。

モーツアルトの曲だと後で知った。


その先生にはユーモアがあって。

話しかけてくれたのかも知れない。

けれどそれは知らない言語だった。


日暮れの校舎の影が教室にも暢る。

音楽室に一人だけ取り残される。


額縁の中のバッハやべートーベン。

今にも何か話したそうにしている。


給食のおばさん二人が廊下を通る。

そんな俺を見て哀れと思ったのか。


「これに入れて持って帰りな」


そう言って、いつもビニール袋を手渡してくれた。それはリエコの差金か。そうするよう二人に頼んでいたのか。


リエコは絶対に俺を甘やかさない。

悪いことは悪い。けして許さず。

退かぬ折れぬの姿勢を貫いていた。


塩辛とひじきは苦い思い出の食べ物。

それとチョコレートもそうだ。


チョコレートは食べれない。

子供の時に食べた記憶がない。


発酵した林檎の香りと酸味。

それを思い出すからだ。


叔母の部屋にあった安い化粧品。

甘ったるい匂いが苦手だった。

多分その中のひとつだと思う。


「もうすぐバレンタイン」

「そうだね」

「チョコとかもらえそう?」

「でもぼくは食べないし」

「チョコが嫌いなの?」

「もらったらあげるよ」

「本当に?」

「約束」

「約束」


いつかそんな約束を誰かとした。

小学生の時の微かに残る記憶だった。



そして俺は何度も居残りから抜け出す。

何かすれば息を吐くように脱走する。


吉村昭の破獄の主人公のようだ。

それは日常のことで繰り返す。

もはや性格になりつつあった。


そんなある日無事家に帰り着くと。

祖母が居間で布団を敷いて寝ていた。調子が悪くて伏せている訳ではない。単なるお昼寝の時間だった。


「お土産だよ」


俺は戦利品のように恭しく。

祖母に給食の残りを手渡す。


「またハイカラなものを!」


祖母は俺の手土産を喜んで食べる。

もはや資源ゴミ処理機である。


ばあちゃんに給食を与えていると。


「すみません!」

「ごめんください!」


ああ…もう俺には「たのもう!」という道場破りの声にしか聞こえない。


リエコが玄関で呼んでいる。


こんなとこまで追って来るか。

居留守を決め込んでも帰らない。

帰りそうもないで襖を開けた。


襖越しに身を起こした祖母。

赤いジャージの鬼と目が会う。


お互いに頭を下げて挨拶を交わす。

鬼とゴジラは相殺しなかった。


「ちょっと」


俺は笑顔のリエコに手招きされ、

しぶしぶ観念した下手人のように。

お白洲…いや庭に先生と二人で出た。


「おばあさんが心配だったのね」


見上げると目頭を抑えて泣いていた。いや…ばあちゃんは昼寝してるだけ。

別に超ぴんぴんしてるんだけど。


なにか壮大に勘違いされてる。


「今日はもういいから」


そう言い残して帰って行った。

帰る時も目頭を抑えていた。

その背中を黙って見送った。

俺は何も嘘をついていない。

それでも罪悪感が残った。


もしもこの神様が本当にいて。

この世界を作ったのならば。

その時に善や悪も生まれた。


それはいつも人の議論の的となる。

幼い頃の体験から思うこともある。

けれどリエコ先生に限っていえば。


人や子供たちの性善を信じる性善。

いつもの先生のジャージのポケット。

そんなところから見え隠れしていた。


リエコ先生はいい先生だった。

ずっと後になってからそう思う。


俺が他の子より欠落していたこと。

それを理解して接してくれていた。


若い先生なりに「なんとかしてあげなくては!」そんな決意が先生にはあった。


それは今なら理解出来る。

もう少し歩み寄れたはず。


俺の中にある事情や倫理は一切無視。

学校の決まりごとばかり押し付ける。

そんなリエコ先生が嫌いではなかった。


本当は大好きな先生だった。

だから記憶の中に残っている。

そんな先生ばかりと言ったが。

そんな先生だから覚えている。


先生を喜ばせることだって。

きっと自分にも出来たはず。

けれどそれが出来なかった。

出来ないから覚えている。


子供の頃に積み残したもの。

それは先生との和解だった。


それが出来ない事情があった。


例えば女子受けする振る舞いとか。

綺麗で若い先生に褒められるとか。

バレンタインにチョコが貰えるとか。


そんなことはこの際度返しにしても。

守らなくてはならないものがあった。


これより男同士の友情と絆の物語である。

それはすべてを台無しにする。


女子には呆れ顔をされたり。

先生には目の敵にされたり。


手に手を取って好まざる方へ。

逆走してしまうのが常だ。


中学生になった俺はまわりを見て。

三つ子の魂百まで続くのかなと。

幼い頃のことを思い出していた。


それとて二度とは来ない季節。

そんな時間の中で生きていた。


流されて辿り着いた岸辺に咲く。

その時もまた短いと知っていた。


ここでしか聞けない鳥たちの囀り。

ここでしか聞けない調べが流れる。

一人だけ嘆きの鳥にはなりたくない。


自ら勝ち取ったものではない。

それでも俺は守りたいと思う。


それはテストには出ないけど。

蛍光ペンで線を引いておこう。

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