第17話 番外編 後編


【時は流れて】



雨の日が長く続く季節。

少しでも雨量が多ければ。

忽ち川の水位は上昇した。


昨日まで涸れ川だった。

それが嘘のように荒れ狂う。


山麓からの雨を集めて。

水は軈て鉄砲水となり。

轟音となって川を下る。


早瀬という言葉とは程遠い。

斜に流れる猛瀑であった。


そんな言葉が相応しい。

それが郷里の風景だった。


雨上がりに橋を渡る。

水は橋桁を呑み込み。

飛沫が顔にかかる。


子供はおろか大人でさえ。

いつも恐怖感を覚えた。


近年では洪水と氾濫の経験を経て。

川底が攫われコンクリートが敷かれ。

それでも橋下と民家付近のみである。


そこからは先はどうしようない。

整備にも莫大な費用がかかるはず。


川は現在でも深い山野に囲まれ。

手つかずのままの自然が残る。

美しさと怖さを保っている。


【赤淵川】


風土の特色をそのまま表した。

郷里の河川の名称である。


本流に下るほど淵は深まる。

白く乾いた礫と苔生す黄緑。

周辺の土は粘度質の仄赤錆。


それがこの川の由来である。


夏場は川に降りて川遊びの場に。

バーベキューや花火の楽しみ。


それも晴天の日和に限られたこと。

一度雨天となれば濃霧が立ち籠め。

すべは白い霧の幕に閉ざされる。


普段でも降りに難義する赤土。

傾斜した地面は容赦なく滑り。

靴は摩擦を失い自由を奪われ、

まったく歯止めがきかない。


淵の瀧が暴瀑となる光景。

地元で見る者などいない。

見に行く物好きもいない。


橋の袂にでも降りようものなら。


「この命知らず」


そうどやされるだけだ。


ダムの放水を直に浴びる。

落水の真下に立つようなものだ。


川で亡くなった。

命知らずの男の話。

子供の頃に聞いた。


それはいつも間にか集落に住み着いた。

一人の宿無しの男だった。


「この頃…おかしな、見窄らしい身なりの男、よく見かけるね」


そんな話を集落の人たちが話始めた。

男は身寄りのないホームレスで。


いつの間にか川の橋の袂にいて。

焚火の火を頼りに暮らしていた。

そうして眠っていて。


気がつかないでいたか。

それとも目はさえていて。

押し寄せる水の音を枕に。


神様もういいですわ。


そんな風に思ったものか。


増水した大水に呑まれ。

瀧の下の岸に打ち上げられて、

死んでいるのが発見された。


やはり大水が集落を降る雨の夜。

ひとつ上にある集落の橋から。

一組の男女が流された。


止まぬ長雨が降り続き。

此処は危険だと水音の報せ。

それでも男と女は橋から離れず、

そのまま逆巻く波に呑まれた。


「土地の人間ではなかったよ」


橋を渡った先には民家の灯り。

その中に親類など誰もいない。


二人は橋の上にいたのか。

橋の真ん中に車を止めて。

酒でも飲んでいたのか。


そこで踊るように燥いだのか。

ずっと抱き合っていたのか。

それとも口づけを交わした。


そのまま縺れて水に落ちた。

それとも車で煙草を燻らし。


最後の逢瀬を楽しんだのか。

車を降りずに離れぬように。

そこを鉄の柩と決めたのか。


川の水は車ごと二人を呑み。

二人のことは誰も知らない。

誰にも知られぬ秘密となった。


何れもまだ物心つく前の出来事だった。

その話を父や大人たちから聞いたのは。

きっとあの子の名前を忘れぬようにと。

その時俺が口にしたから。



橋の下からさらに上流へと進む。

ゲームの境界のように橋が見える。


そこからは先は別の集落となる。

その傍らの畑の一隅に祠がある。

それは龍神樣をお祀りした祠だ。


祠はすべて石で造られ。

川を避けた場所にある。


誰も気にとめる者もなく。

その在処さえ知らない。


けれど祠は昔からそこに在り。

此処に荒れ川ありと教えている。


乾燥して苔むした川の大岩群。

水に濡れると生物の内蔵のよう。

干乾びた岩の苔も本来の色に戻り。

ぬらぬらして手掛りや歩行を阻む。


足元が滑れば川底まで転げ落ちる。


成人してから郷里に戻った。


向かいの家はうちよりも旧家で裕福。

もっと大きな専業農家だった。


二人の姉妹と長男の兄がいた。

小さい頃はご近所姉妹と遊んだ。


お兄さんは俺より5歳も年上なので。

あまり一緒に遊んだ記憶はない。

年の離れは子供同士には大きい。


話すのにも物静かで優しい人。

そう記憶している。


郷里を離れて都会で暮らしていた。

目には見えずとも。時は流れる。


その頃には姉妹は他所の土地に嫁いで。

一児の父で家長となっていた。


年の暮れになると崖道に向かう。

正月の飾りや門松に欠かせぬ植物。

ウラジロを採るために沢に下りた。


ウラジロとはシダの別名である。

昔からシダは勝ち草とも言われて。

非常に縁起がいいとされる。


古来より、門松とは正月の神様、御先祖の霊を迎えるため。欠かせない供え。神聖な植物。依代でもあった。


沢付近の急勾配や人が通らぬ区域。

崖のような場所に群生している。


大滝のある川の本流まで下りる。

ウラジロのある道は二つしかない。


俺の実家から歩いて南に坂を下る。

その先には共同墓地がある。


墓地と民家集落の間にある山と雑木林。

その山林の途中から分け入って進む。

そこに淵に下りる道になっている。

奈落までひたすら続く坂道だ。


勿論舗装などはされていない。

昔から人が通ると草木が踏まれ。

枯れて獣道のようになっただけ。

木立を払い除けて隙間を下りる。


そこからさらに道を外れる。

藪笹に覆われた崖のような場所。

そこにだけウラジロは生えている。


そこでウラジロを採ろうとして。

うっかり足を滑らせた。


ウラジロが生える場所。

そこには藪や林がない。


そこだけぽっかり拓けた空間。

他の草花や木が避けるように。

なぜか下生えや樹木が生えない。


「俺も昔そこに行ったよ」

「木の枝につかまらないと」


父親は俺にそう話していた。。


淵の入口まで転がり落ちて。

掴まる手掛りも足掛かりもなく。

頸椎か頭をひどくやられたのだろう。


そのまま落ちて亡くなった。


「そんなもの買えばよかったのに」


葬儀の後でそんな風に言う人もいた。

その家では先祖の代から受け継がれた。

家長の大切な役目であった。


亡くなった父親に場所を聞いて。

それを守って来たのだと聞いた。


そうして正月を迎えて来た家。

正月には門松や御飾り標縄を飾る。

それは古来より伝えられた神事だ。


門松も依代。

神社の鳥居。

角ある鹿。

御神木。


神は神社にいない。

御神体にもいない。

それらを介して。

神は舞い降りる。


確かそう聞いた。


だから人は悪戯に赴くことを禁じた。

鳥居はそのための境界を示すものだ。

その境界を踏み越えて訪れる者。

それは迷える心を抱えた人か。

それ以外のなにかだ。




「ちょっとあんた!」


フー姉ちゃんに呼び止められた。


「なに?」


「あんた!また勝手に私の口紅出してったら!」


「洋服も出してハンガーに!」


俺は姉ちゃんに言った。


「いいでしょ別に!」


「なに!?」


「だってあのドレス…ぼくのだよね」


「だって…あんた着ないでしょ!?」


「着ないけど、ぼくのだ!」


ハンガーにあのドレスをかけた。

そして化粧台から口紅を拝借した。

そしてそれを数本並べて飾ったんだ。


アヤナちゃんがもし家に来たら。


「今度こそあげるんだ」


きっと喜んでくれる。

女の子が喜ぶと。

うれしくなる。


それを知ったから。

もう怖くなんてない。


「イタズラばかりすると!」


俺の腕を掴もうと手を伸ばす。 

そして腕の包帯を見てやめる。


かわりに頬をぎゅっと抓まれた。


「ばあちゃんに言う」

「は!?なんて!」


「あの服のこと言う」


「あんた!?」


「それで怪我した」


「それ違う!」


姉ちゃんが手を離した。


「あんたこの頃生意気!」

「もう幼稚園行くからね!」


本当はもう年長さんになるんだ。

こう見えても一年休園してる。


「言わないから…ちょうだい!」


「なにを!なにをよ!ちょうだいよ!」


「あの服ぼくのでしょ?」


「そうだけど…あんた着ないでしょ!は…!やだ困る!うちが目覚めさせた!?」


少し思案した後で言った。

元々熟考長考など向いてない。


「ねえ…あんた大丈夫?」


「飾っておいてね」


俺はそう姉ちゃんに頼んだ。

これはおどかしじゃなく。

お願いだった。


「べ別にいいけどさ…あんた、すぐに大きくなるから…もう着れなくなるよ!」


俺は頷いた。


「しまっても大切にしておいて」

「わかった…それだけ?」


それだけで充分だった。


でもフー姉はあてにならない。

すぐにぼくに嘘ばかりつく。


本当は屋根裏にあるステレオだって。

叔父さんたちがぼくに買ってくれた。

ばあちゃんがそう言ってたぞ。


どこか他にいい場所はないかな。

ぼくがこの家で一番好きな場所。

そしてそれはすぐに見つかった。





「だからまあ…」


放課後に今流行ってる降霊術。


「やんない方がいいと思うよね」


教室の隅で降霊術に興じてる。

俺はその女子会には参加しない。

そんなクラスの女子たちを見て。

彼女たちにではなくて。


俺の友だちにそう言ったんだ。

いや自分自身にだろうか。


「イッチなんか言うた?」

「もう!ぼそぼそ喋るから!」


聞こえないように言ったんだ。

聞いてもわからないと思うが。


「依代ならここにいる」


あれからずっとそうだ。

いやそれより前からか。

ただ記憶がないだけで。 


そんなことは誰にも言えないし。

言ってもとうてい理解されない。


あれから俺はずっと依代だ。


放課後の陽はまだ高く。

教室の窓硝子には映らない。


自分の顔を見て。

俺はそう思った。


「ねえ」


もはや馴染みのある澄んだ声。

魔除けの鈴のように心地よい。


俺は顔を上げて彼女を見た。

きらきらした曇りのない瞳。

工藤さんが俺に話しかける。


「もうすぐだね」


ここは一体何処なのだろう。


立ち籠めた霧はあまりに深く。

彼女の顔もよく見えなかった。


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