第12話 秘密ガール


こんなにも血の色は赤く鮮やかで。

たくさんの血が体を流れていたのか。


腕にしっかりと巻かれた包帯を見て思う。

その日のことは明確に覚えている。

でも誰に治療してもらったか。

その記憶はまったくない。


おそらくは祖母だろう。

母親は畑で仕事だった。

とても不器用な人なので。

あんなに綺麗には巻けない。

或いは病院で処置してもらったか。


怪我をしての流血。

その印象があまりに大きくて。

それ以外は吹き飛んでしまった。


ただ血の色がうれしかった。

巻かれた包帯が誇らしく思えた。

清潔な包帯の白さは安心の色だった。


日頃から病院に行くことが多くて。

いつも病院のアルコールの匂いとか。

看護師さんの制服や白い壁を見ると。


「これで苦しいことが終わる」


習慣がいつしか身について。

いつも心が安らいだから。


それよりもその日は特別だった。


「庭に出るなら上着を着て」

「一人で家の外に行ったらだめ」


そんな祖母の世話焼きを無視して。

俺は勝手に庭に飛び出した。


それで怪我したのだから世話はない。

それでも自分で飛び出した結果だ。

家の中で大人しくしていればいい。

いつもそう言われていたから。


怪我したことと包帯がうれしかった。

過保護な身内がひやひやしても。


結局病院には行かなかったのではないか。

何年後かに俺はそう思った。


傷は実はかなり深いものだった。

病院で何針か縫ってもらう裂傷。


腕に残る歪なその傷痕を見返す度に、

大人になった頭で俺は考える。


やがて傷口は完全に癒合した。

それでも腕には瘢痕が残った。

まるで火傷の火脹れのようだった。

それは何年経っても消えなかった。


肘の窩側なのでまったく目立たない。

自分でも普段は忘れているくらいだ。

今では薄くなったが痣のように残る。

その傷痕を見る度に思い出す。

忘れかけた記憶が甦る。


たかが庭に出て怪我をしただけだ。

それでも初めて我を通して外に出た。


それで得られることもある。

痛みや土塊ばかりではない。


そうしなければ手に入らぬこともある。

確かにあるのだと。その時初めて知った。


だって通りかかったあの女の子。

俺の腕に巻かれた包帯を見て。


「かっこいい!」


そう言ってくれたのだから。

俺も同じ気持ちだった。

その気持ちがわかった。


俺は一人上気した顔で家にいた。

わきわきした怪我人だった。


「痛みはないか?」


そう聞かれても首を振って。


「全然平気!」


そう答えたはずだ。 


本当は傷の疼きや痛みはあったはず。

その記憶や感覚は微かに残っている

祖母は安心して表に出たのだろう。

大体午後は近所て井戸端会議。

嫁の悪口を言うのが日課だ。


家には叔父さんたちもいなかった。

帰って来たのは叔母だけ。


フサ姉ちゃんは俺の顔を見るなり。  


「どしたのそれ?」


包帯を指差して聞いた。

俺の答えも聞かないうちに。

にっこりと笑った。


「あんたにいいもの買ってきたよ〜」


ぶら下げた紙袋をひらひらさせた。


「おみやげ?」


「そ!お土産のお見舞い!」


超能力者じゃあるまいに。

俺が怪我したことなど知るまいに。


「二階においで!」


俺はお土産がもらえると聞き。

尻尾を振って叔母について歩き。

叔母の部屋への階段をかけ上がった。


「フサ姉ちゃんは気がきくね!」

「あんた大人みたいなこと言うね!」


二人とも上機嫌でにこにこだった。

すぐに俺の顔はどん曇りの渋面となった。


「いいでしょ〜」

「可愛いよね〜襟元のフリルとか?」

「これは…お化粧しがいがあるわ!」


目の前に翻るドレス。

叔母はご満悦だった。


それを俺が着るのか?

化粧までされたうえに?


「私も子供の時着たかったなあ〜」


今からでも遅くない。

それあんたが着てくれ。

一応性別は女なんだから。


「いよいよ頭がおかしくなった」


ご近所で評判になるだろう。

いや元々なんだと理解してもらえる。


単純に化粧の時間は長くて。


やれ「動くな」だの「口紅がずれる」注文が多く。退屈で辟易するのだ。


もはや長時間の正座を強いられるようなもので。それは苦行でしかない。


おまけにこの袖を通した光沢のある青のワンピース。南国の熱帯魚みたい。


ひどく着心地が悪い。

しっくり来ないのだ。


「なんか足元がすうすうする」

「女の子だから仕方ないでしょ!」


叔母は最後の仕上げと言わんばかりに、

俺の苦手な香水の瓶を手に取る。

これでもかとふりかけた。


「もう着たから…脱いでいいよね?」


とにかく居心地が悪い。

着心地が悪くて仕方ない。


心地よくて自分の姿に惚けて。

うっとりするようなら今頃は。

俺は別の世界に目覚めてたはずだ。


まるで服に虫でも入ったかのように、

身悶えながら懇願するに俺に。

フサ姉ちゃんは言うのである。


「動いたら滲んだ血が服につくでしょ!」


見ると腕に巻かれた包帯が日の丸みたいになって。赤い血が滲んでいた。


俺は服よりうっとりしてしまうのだ。


「そうだ!写真を撮ろう!」


いかにもいいこと思いついたように。

フサ姉ちゃんは俺にそう言った。


「せっかくだから…ね!」


なあにがせっかくだか!


このように人生や大事な舵取り。

けして人任せにしてはいけない。

俺はこの時それを学んだ。


「カメラ!カメラ!」


歌うように階段を降りて行く。

叔母の部屋にカメラなどない。

それは俺がよく知っていた。


叔父のジェリーの部屋にでも勝手に入って。くすねて来たのだろう。


立派な一眼レフのカメラを手にして。

叔母はすぐに俺の前に戻って来た。


「そんな立派なカメラ使えるの?」


俺はそう思ったけど。

叔母の前では口にしない。


「さあ立って立って!」

「スカートを裾まで上げて見せて!」

「笑顔!笑顔!あんた表情が硬い!」

「そうそう!そのままくるくる回って!」


俺は言われるままに次々とポーズを決めた。実は写真慣れした子供だった。


妹が後にアルバムを見て愚痴るくらい。

実家では被写体を演じて来た。


上野動物園に行って見るといい。

動物たちにカメラを向けるとわかる。

そこにいる動物たちは皆職業モデル。

あまりにも毎日写真ばかり撮られる。

カメラを構えて下ろすまで動かない。


写真慣れしてしまっているのだ。

俺も実はそうであった。


「よし!次は外で撮ろう!」

「景色のいい場所でね!」


カメラとフォトジェニックなモデル。

手に入れた叔母はすっかり興奮して。

童心に帰ったかのように。

上気した顔で言った。


「せっかく…せっかくだからね!」


もうあんたはぶっ飛されていいから。

ボーリングの珠でも投げててくれ。


冬には花が咲きそうな庭先の鴉鷺。

黄金色に衣更えした糸檜葉の下で。

柿の実や金柑が実が色づく庭先で。

車庫裏の孟宗竹の御稲荷さんの祠で。

叔母の写真のモデルになった午後。


俺は調子にすっかりのっていた。

言われるままにポーズを決め。


得意気に仮面ライダーの変身。

オリジナルポーズまで披露する始末。


後から考えればそれはとんでもない。

俺にとって黒歴史が収められている。


大きくなればなるほど。

彼女や親戚に親が持って来るような。

子供の頃のアルバムほど忌まわしい。

まして痴態とも言える写真なら尚の事。


後先のことを考えない愚行である。


それらの写真が日の目を見る日を恐れた。

それは終ぞなかった。勿怪の幸いである。


なぜなら当時のアナログは扱いが難しい。


露出だって計算して、採光を考えて、日陰ではストロボだって焚かなくてはだめだ。当時のカメラは写真が撮れないのである。フィルムにいたっては、日光などを避けた暗所で取り出さなくてはならない。写真にならない。


ばかちょんの叔母に扱える代物ではない。

フイルムも行方不明になった。

この日のことを知るのは二人。

俺と叔母のフサ姉ちゃん。


そして一人だけだった。


あのアヤナちゃんと言う女の子。

通りすがりに俺を見たのだろう。


庭で写真を撮ったこと。

それ以降も何回かあった。

その時に俺を見かけたのだ。


突然予兆も原因もなく体調を崩す。

当時俺はそんな病に苛まれていた。

それゆえに家の中に匿われていた。


人の運動神経が培われるのは三、四歳。現在は交通事情や防犯の問題もある。それでも、子供は本来なら、表で元気に遊んだり、運動するのが理想だ。


その意味では俺の運動神経は既に絶望的だった。スポーツ選手としての未来は遠い。それどころか、幼稚園や小学校すら、まともに上がれるか。すでに御入園御入学の年は見遅られていた。


祖母が過保護なのも無理からぬ話。


それでも外に飛び出して。

案の定怪我をした。


それも遠目に見れば悪いことではない。

そう思うことがあった。


思い切って手を伸ばした先に。

飛び出した無謀の代償に。

手痛い傷や失敗がある。


無謀者や冒険者だけが手にするのは。

死を待つ季節の移り変わりだけではない。

人生は思わぬ好機や舞台を用意してくれる。


そんな風に思うのだ。


ある秋の日曜日の午後のことだった。

庭に敷き詰められた砂利を踏む音。


小さいけれど小気味よい音を響かせ。

その来客は家にやって来た。


玄関のすりガラスに映る小さな人影。

待ちきれずじたばたアイドリング。

子供の声で俺の名前を呼んだ。


家人の誰でもない。

それは俺の名前だった。

それは俺を訪ねて来た。


生まれて初めての来客だった。

お盆の迎え火の火つけと。

来客が来た際のお出迎え。

それが俺の仕事だった。


「アヤナ!」


俺の顔を見るなりそう言った。

玄関の外にその子は立っていた。


「遊びに来たよ!」


俺は頷いた。

子供同士だから。

それで充分だった。


「あがって」


それだけ言った。


胸の高鳴り。

抑える術すら。

まだ知らなかった。

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