第11話 I am I :血と大樹



ある日庭前を歩いていた。

そこで転倒して怪我をした。


誰かに押されたわけではない。

何かに躓いたわけでもなく。

勝手に自分でコケたのだ。


人生でもなかなか類をみない。

それは壮絶なコケだった。


当時の実家は舗装も敷石もなく。

雨で赤土が泥濘んでいたせいもあり。

俺は手足両足空中で平行になった後、

ものの見事に地面に叩きつけられた。


これが創作された話なら。


「叔母の部屋から脱走して躓いた」


それならドラマチックな展開だ。

実際そうであればよかった。


怪我をしたのは叔母のせいであり。

叔母は祖母や他の兄たちにも責められ。

きつくお灸をすえられるのだ。ざまあみろ。


そして叔母の密かな幼児に対する虐待行為。男子の心に芽生えかけた、尊厳を踏み躙るかのような、非道かつ、悪虐的なその行いは、忽ち白日の元に露見し。粛清されたはず。


しかし世の中はそんなに御都合主義ではない。まして子供に都合よく出来てはいない。


いつもならそんな派手な転び方をすれば。

泣きべそのひとつもかいたはず。

でもその時俺は泣かなかった。


確かに地面には肘から落ちた。

その右腕はずきずきと痛んだ。

泣いて然るべき痛みであった。


それよりも俺は呆気にとられて。

泣くことも忘れてしまっていた。


右肘の下かざっくりと切れて。

裂けた皮膚からは止めどない出血。


火傷したような痛み。

出血は動脈や心臓の鼓動。

地面は血溜まりとなった。


その血溜まりの中央には烏帽子岩のように、鋭い石の先端が顔を覗かせていた。

剃刀のように鋭利な石の刃。


それが転倒した時腕を切り裂いた。

どくどく流れる鮮血の迸りを見て。

俺は唖然として泣くことも忘れた。


それまでだって怪我をしたことはある。

しかしこれほどの血を見たことはない。


「自分の体にはこんなにも大量の血が」


今も脈々と流れている。

ただもう感心する他ない。


それは物心ついてからの最も古い記憶。

血に関する思い出だった。


血溜まりはひとつの場所へ流れて。

やがてバィパスが開通して。繋がる。

未だ行動規制の標識だらけ。俺の脳に。

シンクロを起こすのであった。




それは実家の真裏の家。

ヨシヒロさん家の庭木。

グミの大木だった。


その木は屋敷の東側。

道路沿いにあった。


俺が高校を卒業して地元を離れた頃。

新築を建てる際に伐採撤去たらしく。

今はもうそこにグミの木はない。


幹の直径は最大でも60~70cm。

大きな材木にはならないとされる。

しかし緻密で丈夫な木質である。


昔から、大工道具の柄、囲炉裏の自在鍵等に用いられた。そんな樹木である。


神社にある御神木と比べて遜色ない。

およそ庭木とは思えない大木だった。

大人の両手で二抱えはあった。


グミは漢字で茱萸と書く。

グミ科グミ属の植物の総称である。


桜桃に似た果実は食用にもなる。

実際に口にしたことは一度もない。

果実は葡萄のよう甘いとされるも、

その実にはタンニンが含まれる。


タンニンは葡萄の皮に含まれる成分。

そのために独特の渋みや苦味もある。

古くから果実酒にも用いられた。


グミは大和言葉である。

菓子のグミとは異なる。

菓子のグミはGummi。

独語でゴムを意味する。


日本では十三種が確認されている。

特に二種類が馴染み深い。


夏グミと秋グミ。


その外観や花や果実に大差はない。

公園などに植えられる植物でもある。


他にナワシログミ:英名ギルドエッジ。

古くは生垣等に利用された。


近年ではプランター栽培され。

ガーデニング植物として好まれる。


丘陵地帯や海岸地帯に見られる秋グミ。

夏グミは山野に多く見られる。


名前通り初夏にかけて実をつける。


暑さ寒さに強く荒れ地でも生息する。

土質を選ばず痩地も厭わない。


それゆえかグミの花言葉は「野生美」「純潔」「用心深さ」である。


実家を出て通りに出る。

その坂道の途中ある家。

道路に葉陰を落すグミの木。

それは夏グミであったろうか。

初夏にたくさんの実をつけた。


グミの木は本来その幹や枝は細い。

図鑑を見ても大木の写真は少ない。


実家の庭の隅に植えられた金柑の木。

金柑は細い幹と枝葉が特徴的な庭木。 

それと大差ないのが通常のグミの木。


本来は落葉低木とされている。

漢名で夏グミは木半夏と書く。


秋グミは時に大木化することもある。

ヨシヒロさんちのグミがそうだった。

花咲む枝を路上まで繁らせ。

初夏にはもう実をつけた。


果実は日に透ける桜桃のようである。


秋グミの実はまんまる。

夏グミはやや楕円のかたち。


実の大きさは直径15ミリ程度である。

それは明らかに夏グミの特徴である。

しかし他に類を見ない大木であった。


春の季節にT型の花を咲かせる。

グミの花は小さくて可愛らしい。

管楽器を逆さにしたような形。


四月から五月にかけて開花する。

通常は淡い黄花であるとされる。


葉の付け根から伸びた1〜3cmの柄には、淡いクリー厶色の花が1輪から3輪咲く。


しかし記憶にあるその花は白色だ。


家屋の屋根付近まで伸びた枝葉。

道路全体を覆うように枝垂れる。


春先にその道は白い花の天蓋となる。

そこだけ仄かに上品な香りを放つ。


銀葉は風に戦ぐオリーブに似て美しい。

剪定にも強く樹形は優美。

花は無秩序に咲き整わない。


小さな花たちの昼灯の下を通る道。

それは近隣に住む人を和ませた。


枝葉が生い茂って樹形はまとまらず。

その木もまた二股に別れていた。

夏の一時葉陰に椅子でも置いて。

涼むことが出来たらと思う。

しかしそこは屋敷の外。

車が通る車道であった。


花は道路に散っても可愛げがある。

純潔の花は風に儚く吹き流される。

問題は道路に降り注ぐその実。

そして膨大な秋の枯葉である。

花言葉の野生美そのままに。


グミの語源はグイミであるとも言われ。

グイミとは棘を意味する。

ギルドエッジの英名通り。

その花付近には棘がある。


枝が変化した茎針というもので。

これがまったくない庭木もある。

環境にストレスを感じた時。

武装するように棘は増える。


虫や野鳥を呼び寄せる虫媒花でありながら。その花には花弁がない。


花弁に見えるのは萼と呼ばれる部分。

変形して先端が四つに裂けたものだ。


長さ8ミリ程の萼筒。

その周りには繊毛が密生し。

長さ10ミリほどの花柄に続く。


花に見えるのは偽花である。

その香りは虫を呼び寄せる。


奥深くまで潜らなければ届かない。

本当の花の蜜にはありつけない。


ムクドリやオナガにヒヨドリ。

野鳥が好む果実は実も偽の実。

花托が変化したものだ。


その中に本当の果実があり。

種子はさらにその中にある。


花言葉にある通り。

用心深き乙女である。

その太木が好きだった。


優れた詩篇がそうであるように。

美しい修飾や比喩で身を飾り。

命あるものを引き寄せながら。

その核に辿り着くことを拒む。


グミの木の陰は何処までも昏く。

どの森や林の木立の陰よりも濃く。

足元の道路を果実で埋め尽くした。


グミの果実は土に還ることもなく。

コンクリートの上で車に轢かれる。

轢かれて飛沫が飛ぶほど溢れる。

その付近は血の海の色に染まる。


それは夏の熱さで忽ち発酵して。

強烈な腐熟の芳香を放つようになる。


採取された後に足で踏み潰され。

樽詰めされる葡萄の実と同じ芳香だ。

それは必ずしも不快な匂いではない。


しかし香りに誘われて集まる虫たち。

その虫や小動物の上を車が通過する。

車輪は果実脆ろとも容赦なく轢き潰す。


あたりに小動物の死骸が散乱して。

その周りを蝿や蜂が飛び交う。


どんなに蛆が身をくねらせても。

死骸はけして土には還れない。

コンクリの道は湿ったまま。


その大木の枝葉の下を潜る七月八月。

夏の季節は誰もが顔をしかめた。


破裂した実や生き物の死骸を避けて。

注意深く通らなくてはならなかった。


人々は目を細めた花の季節もすぐに忘れ。

秋になる頃には、膨大な落ち葉にもすっかり辟易した様子で「家主に文句のひとつも言わねば」と噂話しをする。


それでも、その家に住む人たちは皆いい人たちだった。ご近所からも好かれていた。


俺がお世話になったお姉さんたち。

その兄で若い家長のヨシヒロさん。

三人のお母さんも親切にしてくれた。


家主である父親を早くに亡くし。

東京で料理の修業を積んだ。


ヨシヒロさんは、集落の行事や役を快く引き受け参加した。好青年だった。

ただ帰郷後はとても忙しくしていた。


父と母と三人で寝泊まりしていた離。

その二階の窓からも目視で確認出来た。

実家から、五キロほど車を南に走らせた先に見えて来る。西から東へ伸びる高速道路。


インターチェンジ付近の区域には「立地がよく集客が見込める」という理由から、無数の娯楽施設が建設された。


ボーリング場もそのひとつだった。

その中のレストランのひとつの店舗。

鉄板焼店の経営を、帰郷したヨシヒロさんと、その家族が請け負うことになった。


俺がまだ幼い頃、地元に本格的な鉄板焼の店などなかった。ホテルなどにはあったかもしれない。いずれにせよ高価であったに違いない。俺の実家は、そんな高級店に出入りするような、洒落た習慣のある家柄ではなかった。


出来たばかりの娯楽施設は盛況だったらしい。町内会でも組合費を叩いて、お祝いを兼ねて食事に行ったらしい。

俺はそのお店に行った記憶はない。


ただ新しいものに目がない女が家に一人。

叔母のフサ姉ちゃんはその遊興施設にどはまりした。挙げ句。


帰宅は門限を過ぎて連日深夜となり、

高校生活にも支障を来すようになった。


家の外に待っていた長男の兄。

俺の父親にビンタをくらう。


その時父にぶっ飛ばされた夜のこと。

叔母はそのことをずっと恨んでいた。

ことあるごとにその話を口にした。

父親と叔母は性格が真逆で。

まさに水と油であった。


もっとも一方的に恨んでいたのは叔母。

父はまったく無頓着で。妹の兄として。

家長としするべきことしただけ。

そう思っていたようである。



実家ぐるみで親しかったお隣さん。

父親はそういうことには義理堅い。

しかしお店には行った記憶はない。

おそらくそれが原因かもしれない。


ヨシヒロさんの店はくない。

悪いのフサ姉ちゃんだ。


「本気でプロボーラ目指してたのに!」

「夢を壊された!」

「うちは女の子だよ!?素手で殴るか普通!」


いつもぶーたれた顔で俺に文句を言って来る。そんな話を母親にすると。


「そんで…農協入っても、遅刻やら浮気ばっかしてるから…悪いんだよ!」


そう俺に耳打ちしてどっかに行った。

俺の育った環境もすこぶる悪い。

貧富の問題とかではなく。


そろそろ棘が生えそうな気がした。


ヨシヒロさんのお店は連日盛況だったようだ。そうなれば、家族総出で、店を手伝い。盛り立てていた。


夕方になっても俺が寝る時間になっても。

家の窓に灯りは点かなかった。


その家族にとって商売が軌道に乗るか否か。大切な時期だったのだろう。


大木の木の実や落ち葉は近所迷惑。

それで落ち着いた頃に話をした。


すぐに道の掃除がされるようになった。

近所迷惑を放置する家ではなかった。


優しかったその家のお姉さんたちには、

もう遊んでもらえなくなったけれど。

それはかなり残念なことだった。


子供時代とその季節は目まぐるしく、

日々移り変わるものでもあった。


休みの日に家人が少々掃除したとて。

グミの木はその実を道に降らせ続け。

おいそれと変わることはなかった。


先代かそれとも先先代が植えたのか。

その時はこんな大木ではなかった筈。

綺麗な可愛らしい実をつける小木。

少しでも賑わいになればと植えた。

今は掃いても掃いてもきりがない。


降りかかる因果とはそういうものだ。


その大樹の裳裾袂の足元の凄惨。

それは俺の原風景とも呼べる。

最も古い記憶のひとつだった。



蜥蜴は白い腹を見せて事切れた。

それは切り離された私の薬指。

車に踏みしだかれ砕けた甲虫。

それは脈打つのを止めた心臓。

血溜まりに投げ出された。

私の体の一部だったもの。

それが蠢き寄り集まる。


私を殺した。

私をこうした。

足音が遠ざる。


それを聞いていた。

それを見ていた。


野鳥よ鴉よ啄むな。

赤いグミの果実。


刳り出された。

私の眼球。


それは私なのか?

それとも彼女?

それとも誰?


一体誰の記憶に触れたのか。


人形のような髪色と瞳で横たわる。

派手な化粧をした女が血溜まりの中、

既にこと切れて動かない。

それは紛れもない。

自分の亡骸だと。

知っていた。


頭の中で明滅を繰り返す映像。

最も古い記憶よりも遥か以前。

此処に生まれる前の記憶。


切り裂かれた腕からとめどなく溢れる。

赤土が血溜まりとなる。


偽物の天空の花。

偽物の血の池地獄。

それに似て。


地面に溢れた鮮血は赤黒く色を変えた。

血はいつまでも止まらなかった

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