第4話 羊の言葉とオフコース


「今日は晴れてよかったね」


運転手が不意に語りかけ。 

俺は顔を上げた。


「せっかくのクラス会が雨じゃあ、ね?」


俺は頷いた。


「まあ、こう毎日かんかん照りばかりで、雨が振らんのも敵わんけど・・」


「ねえ?」


目尻のしわが優しそうな人だ。

車内のミラーを見て俺は思った。


「雨が降ると、うちの方は結構大変で」


「そうなの?」 


「すごく霧が深いんです」


山野を藪や木立に囲まれた田舎だ。

居住可能な集落を分つ深い淵もあり。

普段は水元から湧き出る水量は少ない。

雨が降ると水嵩が増して鉄砲水となる。

そうした地形や風土も関係してたはず。


一寸先も見えないくらいの霧が出る。


時化る靄るという言葉があてはまる。

雨の後先は白い濃霧に集落は包まれた。

田舎の霧は厄介で怖いものだ。


道で車を運転するにも難儀する。


「おまけに坂道ばかりで」

「だからいいお茶が出来るんだね」


小学校の中学年の時「読書」という授業があった。図書室で静かに本を読むだけ。

ただそれだけの時間だった気がする。


道徳の中の自習時間だったと記憶してる。


「うちとこの町ロンドンみたい!」


そう言って、同級生の女の子は、自分が読んでる本の表紙を俺に見せた。


ドイルの【緋色の研究】だった。


その子の名前はケイちゃん。

俺はそう呼んでいた。

あだ名は特にない。


「ロンドンは霧の都なん」


「知ってる」


俺はうなずいて見せた。


そこらを、野良着を着た井戸端会議のおばちゃんやら、昼間から1軒しかない商店で飲んだくれて。店のおばちゃんに窘められてる。赤い顔した親父。そんなのばっか。


こんなクソ田舎のどこがロンドンかと。

今の俺なら思ったことだろう。


しかし俺は霧の都という言葉が好きだった。その本は知ってる。ロンドンの霧も!


それはきちんと記憶している。

きっと大切なことだから。


後で思い返して大切だったと思う事がある。それはけして忘れないようだ。

頭の配線がいいかげんな自分でも。

それだけは今も確信がある。


「何を読んでるの?」


そう聞かれて俺は慌てて表紙を見た。

実は本なんて適当に選んでた。

表紙もろくに見てない。


本を読むのが好きじゃない?

むしろその逆だった。


学校の図書室にある本は全部読んだ。

だからもう読む本とかなかった。


教室の本棚に置いてある本を読み尽くし、

小学1年の時に上級生のクラスに出向き、「学校の教室にある本を全部借りて読んでいいから」先生から許しをもらった。


多分、どの国の学校でも本を読むこと。

それは美徳とされているのではないか。

俺はその恩恵にあずかり。

何かしらの免罪符を得た。


どこかしら賢いと思われていた。

本を読むという取り柄があると。


本を読む子供は賢くなる。

本を読む子供はその間大人しく見える。

本を読む子供はその間何もやらかさない。そんな大人の幻想が期待値を高める。


当時から、読み書き、知ってる漢字の数、それだけは他の子供よりも長けていた。


今も、昔も、頭なんてこれっぽっちもよくはない。計算処理能力が高いわけでなく。

頭の回転はまったくもって早くない。

むしろその逆だった。


回転数は超遅かった。スポーツカーのエンジンのトルクではない。脳トレとか?

数学の問題を段取りよく。より多く解く。


そんな習慣が身につけば自分も「まあ!なんて!頭の回転の早い人!」とか・・人様に褒められる人間になっただろうか。


そんなことは微塵も考えて来なかった。

昔も今も…もはや手遅れだと思う。


いつか思い出して。苦笑してるような。

だめな大人になる予感がしていた。


どの言葉が1番的確で正解は何なのか?

探してるうちに日が暮れる。


その疑問や懸念の解答。

頭の中であれやこれや。

いつまでも覚えている。

そんなやつ俺1人だ。


本の読み過ぎは時に脳に弊害も起こす。


誰かが一生をかけて追求した思想。

物語なら主人公や登場人物の人生。

人が生きて過ごす凝縮された時間。

出会いや別れ。死に様とか。


結晶のような言葉たち。

ずっと読んでいたかった。


それらを頭の中で何周かするうちに。

名文という練に練られた言葉の調が響き。

咀嚼するように脳に読み聞かせるうちに。


世の中の大人や、同世代の子供の言葉が、それは耳障りで、野卑なものにしか聞こえなくなる。だけならまだいい。

 

そのうちに聞こえてはいても。

耳を素通りするようになる。


それは幸せなことではない。


紙を食うのは山羊。

紙魚に食われた頭でも。

文字だけは残っている。


本と名のつくものを慾るように読んだ。

幼少の頃からずっとそうだった。


「賢いね」


大人に頭を撫でられたいわけではない。

そんな気持ちも少しはあったけど。


そうしないと死ぬからだ。

多分今はもう生きてない。


その頃の俺にはそれ以外なかった。


邪気や不吉な霧を遠ざける。

歌や言葉に隠された碑文。 

人を進化に導くモノリス。


それにもまだ出会わない。

何事にもなす術がない。 

ただ無力な子供だった。


それは誰にも言わない。

聞かれたこともなかった。


すべては生存するためだった。


「もうじき着きますよ」


運転手は俺にそう告げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る