Another ⑤★

 闇に漂うカビと湿った埃の臭い。

 それに混じる腐敗臭。

 微かな排泄物の臭いまでもが感じられる。

 あまりのリアルさに、道行は驚くよりも先に恐怖を覚えた。


(……こいつは本当にVRなのか?)


 そして、まったく同様の感想を瑞穂が漏らす。

 やはりその表情は、驚きよりも怯えの色が濃かった。


「これ……すごくない? あたし、本当に鎧着てるわ」


「ああ、ここまでとは思わなかった」


 逆に空高とリンダは、自分の格好を見て驚嘆している。

 空高は鎖帷子チェインメイルの各部位を板金で補強した板金鎧プレートメイルを。

 リンダは獣皮をなめした革鎧ソフトレザーアーマーを身に付けている。


 自分はといえば……。

 色褪せた紺色のローブに、同色の三角帽。

 腰のベルトに刃渡り二〇センチほどの 短刀ダガーを帯びていた。

 微妙に “みすぼらしい” ……。

 せめて初期装備はスタッフにしてほしかった……。


 気遣いの娘瑞穂が、“あはは……” とギクシャクした笑顔で、それでも一生懸命良いところを探して褒めてくれた。

 なんというか……幼稚園の頃に出会いたかった。担任の先生として。

 ガックリと肩を落とした自分を、それでも励ます瑞穂に道行は、


「……俺の心配より、そっちこそどうなんだ?」


 と訊ね返した。

 キョトンした顔をする気遣いの少女にして、幼稚園教諭適性保持者。


「……そんな重そうな得物、振り回せるのか?」


 道行の視線が瑞穂の腰の辺りに注がれる。

 重量のある戦棍メイスが、吊されたベルトを下に引っ張っていた。

 ようやく自分の腰の得物に気づいた瑞穂が、ビビりまくって飛び上がる。


“ト、トンカチではないですよね?”


  とトンチキなことを言っている。


「まさしく凶器だね。戦棍っていうんだ。僧侶みたいな聖職者は、戒律で剣のような刃のついた武器使えないことになってて、血が出る武器はNGなんだよ」


 苦笑混じりに説明した空高に瑞穂は、


“これで殴られて血が出ない人なんているのですか?”


  と至極もっともな疑問を呈した。


「……頼むから人の足の上に落とさないでくれよ。落とすなら自分の上に頼む」


 道行はため息交じりに忠告した。

 我ながら冷たい言い草だとは思ったが、実際足の上に落とされてはたまらない。

 瑞穂は引きつった顔のまま、努力する旨を伝える。


「でも、ほんとすごいわ、これ――えいっ! たぁ!」


 短剣ショートソードを引き抜いてはしゃぐリンダと、それを見てますます青くなる瑞穂を尻に目に、空高が道行に顔を向けた。


「これ、“フレンドリー・ファイア” って、あるのかな?」


「……ここまでリアルだと、試す気にもなれないな」


 実際にそういう設定があったとして、“味方の刃を受けて自分の手首が飛ぶ” ……なんて光景は絶対に見たくない。

 まったく、凄まじいリアリティである。

 最近のVR技術はここまで来てたのか。

 そんなふたりの会話を漏れ聞いていた瑞穂はといえば……もはやこれ以上描写をするのは忍びない。


「ね、ね! 魔法はどうやって使うの?」


 一人リンダだけが、テンションを上げ続けている。

 タイトに着込んだ艶消した黒い革鎧が、なかなかに魅惑的だ。


“呪文や祝詞を正確に唱えると使えるらしい”


 と瑞穂が、アトラクションの入口で係員から受けたレクチャーをそのまま伝える。


「……正確にってところが引っ掛かるな」


 道行は思わず呟いた。

 音声を認識して発動のトリガーにするとしても、どの程度までの正確さが求められるのか。

 抑揚、速さ、声量。


 OK Google ぐらいでは、咄嗟の戦闘では役に立たないだろう。


“最初に呪文を暗記させられて、それ以降は確認させてもらえない昔のゲームブックみたい……”


 と答えた瑞穂に、道行は目をパチクリさせた。

 Amazonで揃えた赤い背表紙のゲームブックは、彼の幼い頃からの愛読書なのだ。


「……なんで、そんなこと知ってんだ?」


 思わず聞き返してしまったのは、同じ趣味を持つ人間を見つけたときに人目も憚らずにテンションを上げてしまう、オタクの悲しい性である。

 瑞穂は信号機のように、真っ青だった顔を今度は真っ赤にして、“お父さんに教えてもらったから” だとゴニョゴニョと答えた。

 なんでも件の父親が道行と同じ趣味の持ち主で、ことあるごとに話して聞かせているらしい。

 本人自身は “万葉集とか古今和歌集” といった、な古典が好きらしいのだが……。

 しどろもどろに言い訳する瑞穂を見て道行は、


(……どうやら俺は、この娘が嫌いなわけじゃないらしい)


 それどころか、あるいは好ましくさえ思っている。

 あくまで自分の根暗な趣味の話が出てきたことが切っ掛けだが、他者への感情が揺れる瞬間なんて、存外そんなものなのかもしれない。

 まぁ、だからといって積極的にアプローチしようなどとは思わない道行であるのだが。

 客観的に見ても、また主観的に分析しても、道行にとって瑞穂は “高嶺の花” だ。

 いや、道行のみならず多くの同年代の男にとってもそうだろう。

 気立ても良く、容姿は端麗で、話を聞けば学校の成績も優秀な部類らしい(体育は凄まじく苦手なそうだが)。

 むしろ、こんな娘に付き合っている相手がいないことの方が、道行には解せなかった。


(……このの場合、本当に惚れ込んで土下座でもすれば、困った顔をしながらも最後は付き合ってくれそうな気配さえあるんだがな)


 どちらにせよ、自分には関係のない話だ。

 自分に出来ることといえば、せいぜいこの娘がこのアトラクションで、あまり怖い思いをしないようにしてやることぐらいだろう。

 道行自身、それぐらいの距離感の方が気が楽であり、またそれ以上踏み込むのは怖かった。


「ちょっと使ってみせてよ、魔法」


 リンダが瑞穂にねだった。

 親友の突然の無心に虚を衝かれた様子の瑞穂だったが、小さな顎に人差し指を当てて、レクチャーされた祝詞を思いだし諳んじようとする。


「……やめといた方がいい」


 その瑞穂を、道行が止めた。


「そうだな。さっきの説明だと魔法は回数制みたいだから。無駄遣いしたらいざというとき使えなくなる」


 空高も同じ考えだった。

 娯楽だからこそ、それなりに先に進めなければ楽しめない。

 せっかくの人気アトラクションだ。

 モンスターとの戦闘前に呪文切れではもったいない。


「あ~、そうなんだ。けっこうシビアなのね」


 あっさり納得するリンダだったが、今度は瑞穂が疑問顔で皆に訊ねた。


“そもそも、どうすればこのアトラクションはクリアなのでしょう?”


「出てくる怪物を倒しながらゴールを目指すらしいよ。その時に得ていた財宝の多さで景品が決まるんだってさ」


(……? そんなこと言ってたか?)


 空高の説明に、道行は内心で眉根を寄せた。

 係員のレクチャーを一言一句記憶しているわけではないが、そんな重要な話を聞き逃すわけはないのだが……。

 瑞穂も同様なのか、訝しげな表情を浮かべている。


「とにかく、進んでみようよ。ここで話していても――」


「――空高っ!!!」


 空高がそこまで言ったとき、道行の鋭い警告が飛んだ

 ハッとした空高が振り返ると、背後の暗闇に “犬の頭をした毛むくじゃらの怪物” が浮かび上がっていた。

 逆手に持った赤錆びた剣を振り上げて、大きく裂けた口からは鋭い牙と大量の涎が零れていてる


 道行は舌打ちした。

 今になって、レクチャーの中でハッキリ思い出せる話があったからだ。

 それはアトラクションが始まったら、まずなにをおいても “聖水で魔除けの魔方陣を描いてキャンプを張ること” 。そうしなければ、いつ怪物に襲われてもおかしくはない――と言われたことだった。

 アトラクションは…… “ゲーム” はとっくに始まっていたのだ。


 そしては一瞬で追い込まれた。

 奇襲を仕掛けてきたのは、“犬の頭をした毛むくじゃらの怪物” いわゆる “犬面の獣人コボルド” だった。

 ファンタジーではお馴染みの魔物で、危険度は低く強さは最弱の部類。

 しかも、たった一匹。

 それでもリアルが売りのこのアトラクションでは強敵だ。

 なぜなら自分たちはリアルでは勇者でも冒険者でもなく、ただのに過ぎないのだから。

 高校生に “犬面の獣人” は強敵だ。


https://kakuyomu.jp/users/Deetwo/news/16817330669537252607


 肩口に深手を負い昏倒している空高のかたわらで、リンダが腰を抜かしてベソを掻きまくっていて、瑞穂がぺちゃんこ座りで泣きじゃくっている。


(――俺は大間抜けの大馬鹿野郎だ!)


 道行は “犬面の獣人” と取っ組み合いを演じながら、自身に向かって吐き捨てた。

 間違っていた。

 完全な判断ミスだ。

 空高が倒れたあと咄嗟に出したふたりへの指示だったが、リンダと瑞穂、どちらも却って混乱し、恐慌状態に陥ってしまった。

 特に空高を “癒す” ように強い口調で命じられた瑞穂は、慌てふためきながらも、それでも係員にレクチャーされたとおりに “癒やしの加護” を施そうとした。

 そして、出来なかった。

 当然だ。

 リアル高校生でしかない彼女が、そんなみたいな真似ができてたまるか。

 目の前であっという間に土気色に変っていく空高の顔を見て、瑞穂はついにぺちゃんと冷たい迷宮の石畳に尻を落とし、おいおいと泣き出してしまった。


“お家に帰らせてください”

“お父さんに会わせてください”


 小さな子供のように泣きじゃくる瑞穂の痛々しい姿に、


(……すまん!)


 道行は自分の窮地も忘れて謝った。

 そう、彼自身も窮地だったのだ。

 道行は赤錆びた短剣ショートソードを逆手に握る “犬面の獣人” の右手首を左手で握りしめ、自身に突き立てられるのを防ぎながら、自分も逆手に握った短刀ダガー で “犬面の獣人” を突き刺そうとした。

 獣人の毛むくじゃらの指がお返しとばかりに自分の右手首をつかみ、鋭い爪が食い込んでくる。


(……この体勢はマズい!)


 お互いに左右の手を塞がれて組んずほぐれつの取っ組み合いだったが、“犬面の獣人” には道行にない武器がある。

 生臭い息が顔に掛かったかと思うと、涎が噴きこ零れる真っ赤な口が道行の首筋目掛けて食らい付いてきた。

 体勢の不利にあと半瞬気づくのが遅かったら、道行の喉笛は巨大で鋭利な犬歯によって食い千切られていただろう。

 咄嗟に蹴り上げた膝が、運良く獣人のみぞおちに突き刺さった。


 道行に、これがアトラクションだという意識はもはや微塵もない。

 加減のない膝蹴りが、彼よりもよほど小柄な “犬面の獣人” の身体を吹き飛ばした。

 道行はうずくまった獣人に躊躇なく飛び掛かり、その身体に短刀を何度も何度も突き立てた。

 迷宮に響き渡る断末魔の絶叫と、鼻腔を満たす鉄錆の臭い。

 自分の下で毛むくじゃらの小柄な身体が動かなくなると、道行はぜぇぜぇと新鮮な空気を求めて喘いだ。


(――リアルだ!? アトラクションだ!? VRだ!? クソ喰らえだっ!! 俺は金輪際、二度とこのテーマパークには来ねえからな!)


 擦り傷、切り傷、ひっかき傷だらけの顔を歪ませて、道行は胸の内側で盛大に毒突き、ぶちまけた。



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