第59話 気分転換

 王城を抜け出すのは慣れたもの。

 そもそもお城は侵入こそ難しいものの、脱走にはあまり気を配っていない。何しろ無駄に広い城のすべてを見ていることなんて人員の面でも予算の面でも難しい。だから基本的に見回り以外の見張りは入り口の門付近に重点的に集まっていて、その他の場所ではずさんな警備になっていた。


 そういうわけでフィナンを背負った状態でささっと壁を伝うように下りて王城からの脱出に成功した。

 以前は背負われることに抵抗するフィナンを落とさないように必死で逆にフィナンが怖い目にあっていたけれど、さすがに暴れない方が安全だと学んだみたいで楽だった。

 もっとも、高くから見下ろしてしまい、耳元で悲鳴をあげてくれたのだけれど。


 背中で騒いでいたフィナンは途中でぐったりして、今では諦めた顔で黙ってわたしの後ろをついてきている。

 時々地面を見つめて涙目になっては「地に足がついていることがこんなにありがたかったなんて……ッ」と大げさにつぶやいている。

 そのおかげというべきか、通りがかった者がぎょっとフィナンを見つめ、そそくさを去っていく。


 ……無駄に目立ってしまうからやめてほしい。


 そうして、魔女の円卓が中止になったこと、精霊に見放された土地に生じる異変のこと、姿を現した巨躯の魔物のこと、その調査――すべてを投げ出し、わたしたちは気分転換のために王都を散策する。


 商業区画。左右に広がるガラス張りのショーウィンドウを眺め、ごみごみとした市場に入って露店を見て回り、怪しげな品や異国情緒にあふれる用途不明の道具を眺めやる。


 けれど人気のない場所で活動することが多いわたしと一応はいいところの出であるフィナンにはこの喧噪に居続けるのは少々厳しいものがあって、市場の片隅で少し休むことにした。


 といっても椅子や何かがあるわけではなくて、ただ喧噪から一歩離れたところで壁に背中を預けて息を吐くだけ。


「そういえば、お見舞いの品を買いに行く予定があったわ」


 ふと思い出したのは、道行く人の手に提げられたかごに入っていた果実を見たから。

 風邪を引いた時には果物。普段は次期領主として領民の声を聴き、あるいは農作業に精を出しているお兄様が、わたしが風邪の時にはたとえ冬場であろうと森に飛び込み、駆けずり回ってわずかにある果実を採取してきてくれた。

 あの甘味を思い出しながら、そういえば、と脳裏をよぎるものがあった。


 まあ、正確には彼女は風邪ではないのだけれど。


「お見舞い、ですか?」


 フィナンがひどく怪訝そうに聞いてくるのは、それもそのはず、わたしがお見舞いに向かうべき相手がいる情報を、フィナンが持っていないことがおかしいから。


 一応は王子妃であるわたしは、現在鳥籠の中の小鳥の生活を余儀なくされている。王子の妃たるわたしのもとへ、一介の貴族が足を運ぶことはない。ましてや異性はなおさら。

 外部との連絡こそ取れるものの、これまでわたしが手紙を出したのは実家とお兄さま、それからアマーリエだけ。


 だから、おそらくはアマーリエのことを思い出したであろうフィナンはトレイナ伯爵令嬢のことかと聞いてきて、わたしは首を振る。

 確かにアマーリエは結婚準備で忙殺されていて大変だという手紙をもらったけれど、倒れたという話は聞いていない。忙しくも楽しく、心身を削って準備に追われているというアマーリエの手紙には狂気の気配を感じた気もするが、それはさておき。


 アマーリエのことではないと知ったフィナンは、ひどく鋭い目をしてわたしをにらむ。


 気づかれた、らしい。

 わたしが、以前フィナンと一緒に出掛けてからも、フィナンには内緒で何度も町に出ていることを。


「……それで、一体いつどこで交友関係を結んだのかお聞きしても?」


 答えられないでしょう? とどこか誇らしげ、というかしてやったり、といったような顔をしているが、残念。

 今回の相手は、フィナンも知っている人物だ。


「ハンナのことは覚えている? 彼女がぎっくり腰になったらしいの」


 魔女ハンナ。

 フィナンと一緒に王都を散策したときに出会った、薬屋をしているらしい魔法使いの女性。

 掃除洗濯などに魔法を使うということにフィナンが強く目を輝かせ、自分には魔法を使えないことを嘆いていたことを思い出した。


 魔法の才能、というものはある。

 精霊に対価を捧げることで不思議な現象を起こしてもらうこと――それが魔法。精霊が叶えられるものであれば、情報共有をしっかり行えば対価次第におよそあらゆる現象を起こすことができる。


 ただし、精霊がその人を認めるならば、という前提条件が付く。


 精霊にも好みがあるというのは知られた話。

 そして、その好みは対価の種類だけではなく、魔法を望む人間に対しても存在する。


 「精霊に振り向いてもらえない」人間は、どれだけの対価を用意しようと、どれだけ詳細に魔法のイメージを語ろうと、精霊に魔法を発動してもらえることはない。


 精霊に嫌われている、ということではない。精霊は嫌った相手――例えば甘味を捧げなかった魔法使いには苛烈に対応し、それこそ「精霊のいたずら」のように傷をつけたり、あるいは様々な悪意あるいたずらを行って罰を与えるから。


 ある魔法使いは、精霊はこの世界に居ながら別の世界に居り、その精霊に声を届けて存在を主張できる特定の波長をもった人間と、そうではない人間がいるのではないか、という。

 前者は、声を発することで、あるいは強く願うことで精霊に己の存在を主張でき、精霊が気になって近づいてきてくれる。

 後者は、どれだけ声を張り上げようと、強く念じようと、その思いが精霊に届かず、魔法を発動できない。


 そういうわけで、フィナンは魔法が使えず、けれど魔法が使えないからこそ、魔法へのあこがれがあるらしかった。


 ……魔法へのあこがれというよりは、魔法によって使用人仕事が簡単になることに目を輝かせていただけかもしれないけれど。


 それはさておき、ハンナがぎっくり腰になったという話を聞いたフィナンは、強い納得と同情の念を抱いて頷いた。

 どうやらフィナンも若くしてぎっくり腰になった経験があるらしく、いかに大変かをわたしに語って聞かせる。

 使用人として生活をする以上、重い荷物を運ぶこともあり、その際に腰をやらかしたのだとか。


 若いのに大変だ。

 とりあえず、フィナンは運動が足りないのだと思う。あとは筋肉をつけるべき。


 外見も重要な要素である使用人として体型を整えることはしているみたいだけれど、細くなることを重視しているために筋肉をつけないようにしているのが問題だと思う。

 何しろ、わたしのことをマッサージするときに、ぼそりと「筋肉女」などと言う始末なのだから。

 わたしは覚えているからね? 侮辱は忘れない。今日にでもマッサージを交代でやってあげて、「鶏ガラ女」と呼んであげるわ。


 なんて、わたしの悪意を感じ取ったのかどうか。

 フィナンはぶるりと体を震わせ、周囲をきょろきょろと見まわす。

 意外と鋭い。


 何かを感じ取ったフィナンは、けれど気のせいだと言い聞かせるように首を振り、それから悩ましげに吐息を漏らす。


「……ハンナ様は独り暮らしでしたよね?」

「そうね。でも魔法で何でもできるからあまり問題ではないという話よ」


 それでも魔女の円卓を紹介してもらった身としては、話を聞いてしまった以上何もしないというのははばかられた。数日、調べ物に時間を費やしている間はすっかり彼女のことなんて忘れていたのだけれど。


 ちなみにフィナンは、ぎっくり腰という話に意識が向かって、どうしてわたしがそのようなことを知っているか、という点には思考が向かなかったらしい。


 まあ、今更フィナンがわたしの脱走のことを追加で知ったところで何があるという話でもない。

 何しろ、すでにフィナンは共犯なのだから。

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