第56話 書庫にて

「それじゃあ奥様、行きますよ」

「わかったわ。だから引っ張らないで。行きたくないと駄々をこねる犬猫か子どものようじゃない」


 わたしの脳裏をよぎったのは、より正確には「ディアと離れたくない」と泣き叫び、全力で暴れるお兄さまの姿だったのだけれど。

 お兄さまが学園に向かう日、お父さまと村の男衆数名が必死になってお兄さまを縛り上げ、馬車の中に縛り付けようと必死になっていた姿を思い出した。

 魔法まで駆使してお父さまたちを「ディアとぼくを隔てる障害」とのたまって大の大人を引きずりながらわたしの方に戻りかけたお兄さまは、正直少し怖かった。


 お兄さまがそうして駄々っ子のように暴れるのは予想されたことだった。

 だから、お父さまたちは秘密兵器ーー最終手段にして唯一の手札を切った。


 お兄さまを王都へ連れて行って学園に放り込むただそれだけのためにレティスティア男爵領に呼ばれたのは、お兄さまの婚約者。彼女は凄腕の調教師のごとく巧みにお兄さまにいうことを聞かせ、それでもわたしと離れたくないと駄々をこねるお兄さまは、ついには婚約者の手で気絶させられ、厳重に金属の鎖で縛り上げられて馬車に乗せられた。


 あの時の彼女の高笑いを思い出して、ぶるりと体が震えた。

 お兄さま以上に風を魔法で巧みに操る彼女は、お兄さまの魔法の出鼻を挫くように魔法を使い、少ない力でお兄さまを無力化して見せた。

 わたしにはできない計算力の高さーーと言いたいところだけれど、彼女がそれをできるのは、お兄さまのことを愛しているがゆえに、お兄さまの思考が手に取るようにわかって、だからこそお兄さまの魔法だけは完璧にタイミングを読むことができるから。


 いつかはわたしも、あらゆる魔法の起こりにかぶせるように魔法を放って、相手を小さな力で無力化したい。


「まったく、私が引っ張らないと奥様は書庫の虫になりそうですね」

「書庫の虫なんて柄じゃないわ。わたしはどちらかというと外を駆け回るタイプよ」

「なるほど。やっぱり、雪に歓声を上げて外に飛び出す子どもや犬と同じだということですね……ちなみに私は雪の降る日には暖炉の前で丸まっていたいので、猫派です」

「わたしは猫より犬の方が好きね」

「……自分と似たタイプだからですか」

「狩りに連れていけるからよ……何よその目は」

「そのうち、勝手に城を抜け出して、獲物を片手に『褒めて』と言わんばかりの満面の笑みで帰って来そうですよね」


 ドキリとした。まさか既にわたしが狩りのために王城を抜け出していることを……さすがに把握はしていないと思う。まあ、フィナンはわたしと一緒に王城を抜け出しているから、わたしの姿を見かけないイコールわたしが城を抜け出して出歩いていると予想できてしまうのだけれど。


 それにしても、なんだか最近フィナンが言うようになった。

 母性があると表現するには足りないものが多すぎるけれど、精神的に成長したのならいいことだと思う。

 権謀術数が渦巻く王城では、図太くないと心を壊してしまうから。


 そういう意味では、いまだに平然としていられるわたしはかなり精神的に強いのかもしれない。だって、王子殿下にいないものとして使われても、こうしてそれなりに平然としていられるのだから。

 ……ああ、思い出したら怒りがこみあげてきた。


「ねぇフィナン。わたしって図太いわよね?」

「そうですね。確かに少し太ったかも――痛!?」


 おかしなことが聞こえたから思わず本気でデコピンをしまった。

 お兄さまでさえ涙目になるデコピンは、手加減してもフィナンを涙目にさせるには十分だった。


「太ってはいないわよ。ただ運動不足でおなか回りのくびれがはっきりしなくなっただけよ」


 そもそも、太ってなんかいない。お腹回りだって、脂肪なんてついていない。

 より正確には、筋肉がついて体全体が重くなったのだ。


 狩りに行くことができる回数自体が減った代わりに筋トレの量を増やしているから、むしろ筋肉がついている。代わりに野生の感覚が薄れつつあるけれど……野生の感覚を持った妃って、ものすごいおかしな言葉に聞こえる。

 これが俗にいう「パワーワード」というものだろうか、なんて。


「それを太ったって言うんじゃ……ひゃ!?」


 せっかく少し溜飲が下がっていたのに、また余計なことを口走らせたのはこの鳥頭?


 デコピンの形に手を構えれば、フィナンは素早い動きで額を押さえて飛びのく。

 ここは狭い図書館の中、そんな風に跳べるようなスペースはない。


 ゆえに、フィナンは背中から勢いよく棚にぶつかり、くぐもった悲鳴を漏らした。


 軽く揺れる棚から本が落ちてくることこそなかったものの、重い本がいくつも入った書棚が小さく揺れたのは恐ろしい光景だった。


 遠くから鋭い視線が突き刺さるのを感じた。

 こっそりと背後を振り向けば、そこには、わたしが出して散らかした本を棚に戻している司書の姿がある。

 メガネの奥、猛禽類のごとく鋭いまなざしは、フィナンを震え上がらせるには十分だった。


「……小さくても本棚は揺れるのね」

「今、私の胸を見て言いませんでしたか!? 私の胸が小さいって意味ですか!? ええそうですよ。私の胸は揺れませんよ。たとえ棚に体当たりをしてもびくともしませんけれどそれが何か!?」


 何でそんな自爆をしているのだろう。

 涙目で叫ぶフィナンの姿は痛々しすぎる。

 ついでに、地下の書庫に反響するせいで、ますますフィナンが可哀そうな人に感じる。こう、もの悲しさが加わった感じだといえば伝わるか。


 ……それより、フィナンよりもわたしの心に刺さるのだけれど、どうしてくれよう?

 フィナンの胸は決して小さくない。揺れるほどではないけれど。少なくともわたしに比べれば…………はぁ。


「胸じゃなくて背を見て言ったのよ」

「うぅ、わたしはそんなに言うほど小さくありませんよ? ただ、奥様がでかいんですからね」

「失礼な口はこれかしら」


 頬をつねりながら、にっこりと笑って見せる。

 威圧感を込めて。


 わたしの背は言うほど大きくはない。

 大きい、というのはアマーリエのようなサイズのことを言うのだ。

 あと、大きい小さいは、自分の胸のサイズのことを考えてしまうからこれ以上は議論したくない。

 ……揶揄う話題に選んだのはわたし自身だった気がするけれど、きっと気のせい、のはず。


 それにしても、フィナンの頬は柔らかい。お湯を加えてまとめたパンのタネのようなしっとりもちもち感。

 ああ、くせになる。

 ……そういえば、フレッシュ・ボール以来まともに料理をしていない。狩りの時には凝った料理など作っている余裕はないし、王城では料理をする機会なんてまず訪れない。

 それなりに鍛えた料理の勘がどんどん鈍っていってしまいそうで少し心配だ。


 いや、料理は花嫁修業のためだったから、別に感覚が鈍ってもいいのだろうか。

 だってわたしはすでに結婚しているわけだし……あの、腐れ王子とだけれど。


「ひ、ひひゃい……それに、顔が怖いですよ!」


 ぐいと頬を引っ張れば、情けない声がフィナンの口から洩れる。

 まったく、やっぱりフィナンに母性なんて感じられない。


 頬から手を放して、代わりに自分の顔をもみほぐす。

 アヴァロン王子殿下のことを考えるとすぐにこれだ。妃教育で鍛えたはずの鉄面皮があっという間に揺らいでしまう。

 ……アヴァロン王子殿下の氷のような冷徹な顔も、最近大いに緩んでいるみたいだけれど。


 まるで雪解けしたように……あまり上手い表現じゃない。


「……お静かにお願いしますね」


 すすす、と近づいてきた司書が、眼鏡のつるを指でクイと持ち上げながら告げる。その目はひどく冷ややか。


「フィナン、言われているわよ」

「奥様のことでしょう?」


 互いに顔を見合わせて、責任を押し付けあう。

 まったく、明らかに書棚にぶつかって、そのあとも胸が小さいのなんのと大声を出したフィナンのことを叱責しているに違いないのに。

 これだからフィナンはフィナンなのだ。


「わたくしは、お二人に言っているのですが?」


 笑み。確かに、微笑んではいる。

 けれどその目は憤怒の炎を燃やし、わたしたちを射殺すように見つめている。目じりが下がっているだけに、一層瞳の強さが迫力を増している。


「「静かにします」」

「よろしい。それでは、さっさとご退席ください」


 ぴくぴくと眉間のしわを痙攣させながら怒気をかろうじて抑えて告げる司書の女性にそろって告げて、わたしたちは読めていない本を手にこそこそと出口に向かう


 この期に及んで「王子妃に対する対応じゃない」なんて口にする余裕もなく、わたしたちはすたこらさっさと逃げることに成功した。

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