第55話 調査

「……様、奥様?」


 はっと顔を上げれば、心配そうに見つめるフィナンと目があった。

 まだ魔女の円卓の疲れが残っている、ということはさすがにないだろう。あの日から既に一週間近くが経過しているのだから、そこまで疲れが長引いていたら病気を疑わざるを得ない。

 それでも真っ先に疲れているという発想が出るのは、事実、あの日遠くから一目見ただけの魔物のことを思い出すだけで精神的な疲労感が蓄積するから。


 それに、慣れない読書を自ら進んで行っていることも、その疲れに拍車をかけている。


 疲れを訴える目元をもみほぐしながら、活字の海から顔を上げる。

 心配げにわたしを見下ろすフィナンに、努めて平静を装って声を出す。


「どうしたの?」


 平静を装ったつもりだけれど、その声は、自分でもわかるほどにかすれていた。

 まあ、数時間読書に没頭して声を発していなかったせいだと思う。


「どうしたの、ではありませんよ。何度もお声かけしても返事がなかったので……大丈夫ですか?」


 大丈夫――とはっきり言えるほどの状態ではなくて、曖昧に笑って本を閉じる。何か言いたげなフィナンの視線を無視して、背もたれを使って体を大きく後ろにそらす。

 ぽきぽき、とひどく音が重なるのは、不安になるほど。


 そうして深呼吸をすれば、書籍から意識が解放されたからか、古書特有のにおいが戻ってくる。

 周囲には無数の本が詰まった棚が並んでいるのだから、当然のこと。

 古い本特有の日に焼けた紙の、あるいはやや埃っぽいにおいに顔をゆがめつつ首を回し、首から肩にかけての筋肉の凝りをほぐす。


 ここは王城の図書室、それも古書などを置いている地下にわたしたちは足を運んでいた。


 調べていたのは精霊に見放された土地のこと。

 あの場所のことを、わたしは知らなさ過ぎた。


 そもそもどうして「精霊に見放された土地」などと呼ばれるのか。その呼び名が意味するところは何か。


 そして何より、先日見たあの巨大な魔物に関する情報はないか、それを調べることが目的だった。


 魔物が魔物を喰らって強くなったにしては、あの魔物は大きすぎた。

 山と見まがうほどの巨体。あらゆる光を吸い込むような底なしの闇に覆われた体は、威圧されているわけでもないのに心臓を握られたように恐怖が体を満たした。

 呼吸すら忘れるほどに魔物の存在感に「飲まれた」のは、初めて魔物に遭遇した時以来。


 魔物に慣れたわたしでさえああだったのだから、魔物との遭遇経験すらない一般人があれを目にすれば、それこそ発狂死するか、あるいはショックで心拍停止になりかねない。

 少なくとも、あれが王都にやってきたら、この国は滅びる。


 だが、いくら調べても、あの魔物の情報はない。そもそも、精霊に見放された土地の哨戒任務にあたっているはずの騎士団だって、あんな巨体の情報を得ていないのだ。一目見ればあの魔物の異常さに、即座に上まで報告が上がって大騒動になっているはずだから。

 突然現れたという言葉がふさわしいほどに、あの魔物に関する情報はない。それこそ、本当に突然、あの森に生まれ落ちたとでもいうように。


 けれど、それにしては大きすぎる。無数の魔物を食らって大きくなったであろうあの巨体が、目撃情報無しに突然現れるなどありえない。

 ありえないことが、現に起きている。その理由は、書物につづられた情報の海の中からは、いまだ見出すことができていない。


 ああ、考えるだけでめまいがする。この膨大な書籍の中から、一体どうすれば目的の魔物一体の、あるいはあのような怪物が生まれる理由に関係する情報を見つけ出すことができるのだろうか。


 わたしにはさっぱりわからない。


「……奥様?」

「どうしたの?」


 視線が向かうのは壁の方。

 そこに設置された掛け時計は、すでに夜と呼んで差し支えない時間を示していた。

 思った以上に、わたしは情報量に圧倒されて無為に時間を消費していたみたいだった。


 なるほど、これだけ長い時間動かずにずっと読書に耽っていれば体が凝り、声もややかすれるのは当然だ。


「そろそろお夕食の時間なのでお呼びしたのですが」

「そういえばお腹が減っているような気もするわね」


 ちらと横を見れば、右から左へ、読み終えた本が積み上がり、未読の本は残り二冊まで数を減らしていた。

 それだけ調べて収穫ゼロ。


 あの魔物の情報は、すでに騎士団の上層部まで上がっているという。上下関係意を躾けた使用人経由の報告だから信憑性に欠けるけれど、流石に完全に間違った話であるということはないだろう。


 今のところ厳戒態勢が敷かれるような状態にはなっていないものの、いつあの魔物が迫ってくるかわからない。騎士団は情報収集と斥候の派遣による選考調査と、てんてこ舞いらしい。


 魔物が王都に近づく前に対処しなければいけないのだけれど、精霊に見放された土地の情報は少なすぎた。

 まるで、何らかの問題があって情報が秘匿されているのではないかと思えるほどに。


 それほどに人跡未踏の土地だといえばそれまでのこと。

 ただ、魔物の発生源だとか、世界の混沌の中心だとか、古書でさえもそんな突拍子のない予測ばかりで正直期待外れ感がすごい。


「ほら、奥様。早く向かいますよ」


 また思考の海に沈んでいたらしく、フィナンの声にはっと我を取り戻す。

 ああ、慣れないことをしたせいで、自分で思った以上に疲れているみたいだ。心ここにあらずなんて、魔物に殺されたいと言っているようなもの。こんな調子では、しばらく狩りに出て気分転換に乗り出すこともできそうにない。


 ……あの魔物の調査のために、精霊に見放された土地に騎士が多数動員されているから、人目を忍んで森に入ることが難しくて、どのみち狩りをするのは困難なのだけれど。

 それでも、このまま空回りしているのはダメだ。


「片付けは――」

「司書の方が行ってくださいますから。むしろ一度出した本はなるべく戻さないでくれと怒られましたよね?」


 以前、本を誤った場所に戻しているところを見られて注意されたのだ。わたしとしては正確に元の場所に戻したつもりだったのだけれど、一冊分順番が前後していたらしい。

 それだけで目くじらを立てられるなんて、と思ったけれど、この膨大な蔵書を正確に管理するためには必要不可欠なことなのだろう。

 何せ、たった一冊分でも本が前後し、それが積み重なれば、司書の手が足りなくなるほどに書籍がどこに収められているかわからない状態になってしまう。

 「精霊に見放された土地の情報が知りたい」と告げるだけで、瞬時にある程度の取捨選択を行い、関連する蔵書が収められたこの場所まで案内してくれた司書の記憶力に脱帽せずにはいられない。


 注意した張本人である丸い眼鏡の司書と視線があったので、とりあえず頷いてみれば顔をしかめられた。

 ……うん、さっさと行け、と。

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