第54話 厄災の影

「……それは、本当なのか?」


 肩が跳ねる。

 慌てて振り向いた先、魔女の円卓の開催地には、もう一人の姿がある。


 わたしと同じようにお決まりの流れについていけずにすっかり置き去りにされていたヒョウエンは、険しい表情でにらむようにフォトスを見る。

 その立ち居振る舞いには、覇者の気迫が感じられた。フォトスよりもずっと強い覚悟を秘めたまなざしが、まっすぐに彼女を射抜いている。


 その視線にさらされてなお、フォトスは揺らがない。

 それは、精霊に見放された土地に起きた異変が事実だと、おそらくは彼女自身が調査して把握したから。


「ええ。嘘を言っても仕方がないでしょう? すぐに国に報告が上がるけれど……魔法で守っているこの開催地のすぐ近くまで、驚異的な能力を有した魔物が接近していたの。それも、多数ね」

「やはりここは精霊に見放された土地の中なのか」


 その言葉にフォトスは答えず、ただ、空へと手を伸ばす。

 踊るように、ほっそりとした白魚の手が伸び、虚空をつかむ。


 たったそれだけで私が生み出した飴の天井は流動性を取り戻し、フォトスのこぶしの先、空中で球状に丸まる。


 わずかに残ったランプの明かりの下、揺らめく琥珀色の液体はどことなく不気味な色味を帯びていた。

 それはまるで、巨大な月のよう。

 あるいは、わたしたちのことをうかがう深淵のまなざしのよう。


「そろそろ見えるわ」


 気が付けば空はうっすら白くなっていた。

 そして、その先、明け方のうす暗い空を背景に、闇が動いた。


「……え?」


 それは、山のように大きかった。

 大きな毛のような何かを揺らす、黒い巨体。

 ゆっくりと、振動一つなく動くそれを前に、足がひどく震えた。


 毛にしては大きな何かが、揺れ動く。それはまるで、水中に葉を広げる水草のよう。

 ゆっくりと白む空の下だからこそ、それの気味が悪いほどの黒さが主張される。


「あれが精霊に見放された土地を動き回っているの。今のところ、あれに勝てる魔物は無し。あれが何なのかは私も知らないけれど……もし森から出れば、人類はひとたまりもないでしょうね」


 水面に波紋を広げるように、フォトスの声はただの音としてわたしの心を揺らす。

 完全に魔物を前にして飲まれていた意識が、揺らぎ、そうして、現実に戻ってくる。

 自分が立っていることすら忘れたように、体から力が抜けてふらついて、そんなわたしを、フォトスはそっと支えてくれる。


 冷汗で全身が濡れていた。

 気迫を感じることもない距離。この長距離であってなお、わたしは、魔物に飲まれていた。

 それはまるで、初めて遭遇した魔物を前に何もすることができなくなった只人のように――


「この土地から出ないことを祈るか」


 そうはならない――半ば確信をにじませた苦渋に満ちた言葉。

 ゆっくりと首を巡らせれば、そこには苦虫をかみつぶしたように唇をゆがめるヒョウエンの姿がある。

 視線を動かせば、すぐ目の前にフォトスがいる。

 自分は、一人ではない。何より、ひょっとしなくても自分よりも強い人たちが一緒に居るということが、少しずつわたしの体のこわばりを溶かしていく。


 そうして心が落ち着いて初めて、フォトスの顔の険しさや、ヒョウエンの体がわずかに震えていることに気が付いた。


「……あれに対処するのは困難でしょうね。ましてや討伐なんて、ルクセント王国の総力を挙げても難しいんじゃないかしら」


 どこか淡々と告げるフォトスが、私を励ますように笑う。それからやっぱり、視線はすぐに精霊に見放された土地をうごめく巨体へと向かう。


 朝焼けで燃える東の空、赤色を背景にその巨体は静かに動く。

 黒々とした塊は、そこにいるだけである種の威圧感を放ち続ける。


 一度は止まったはずの冷汗が額ににじむ。

 あれに触れてはいけない――そんな恐怖からか、右手の甲がピリリと痛んだ。


 その痛みは、まるでわたしの意識を覚ますよう。

 一瞬にして視界が明瞭になり、地に足がついたような感覚が襲ったのは、世界樹の紋章が何らかの働きかけをしたからか、あるいは、努めて気楽にフォトスが告げた言葉のせいか。


「それじゃあね――頼むわよ」


 最後に聞こえたのはきっと、幻聴ではなかった。


 その言葉の意味を聞くよりも早くフォトスは魔法を発動して、わたしは森の出口へと戻された。


 一瞬。

 わたしの体は、精霊に見放された土地の入り口、広がる荒野とその先にある王都を視界に収められる位置にあった。


 左右を見て、背後を見る。

 そこには、わたし以外の人影はなく、心臓をわしづかみにされるようなプレッシャーもない。

 ただ、鬱蒼と生い茂る枝葉の緑だけが、薄暗く、不気味に影を落とす。


 それはまるで、わたしの心に巣食った、未来への不安を暗示しているよう。


「夢……じゃない」


 頬をつねれば、痛みが頭を襲う。

 眠気なんてすっかり吹き飛んで、ただ疲労だけが体に蓄積していた。


 森の外、明るくなり始めたその世界へと一歩を踏み出しながら、ふと、思い出したように背後を見る。


 そこにはのびのびと枝葉を広げる木々があって、その遥か先に、きっと、あの巨躯の魔物がいる。

 目を閉じれば、鮮明に思い浮かぶ漆黒の巨体。

 うごめく異形。心臓を握りつぶされるような恐怖を感じずにはいられない化け物。


 あの魔物を、どうしてフォトスはわたしたちに見せたのか。


 わたしが、王子妃だから?

 だから、わたしに対応を期待しているの?


 こんな、お飾りの王子妃に?


「だったら、どうしてヒョウエンも……?」


 問いかけても、答えは返ってこない。


 フォトスの意図は何一つ分からず、ただ分かるのは、今日という日が始まりを告げていて、夢のような時間は終わりを告げたのだということ。


 次の魔女の円卓の開催は未定で、わたしは日常を生きていくことになる。


 息苦しさしか感じられない、王子妃としての日々を。


「……はぁ」


 全部、捨ててしまえたら。

 全部、放り出すことができれば。


 そうしたら、ずっと楽に生きることができるのに。


 けれど、家族や友人に迷惑をかけるその選択肢を、わたしは選べない。

 大切な人たちを裏切り、苦しめる側へと天秤は傾き、逆転はしない。


 ただ、もし、天秤を逆に傾けるような激しい思いがあったら、わたしは――


 脳裏に浮かんだ顔を振り払うように頬を叩いて、森の外へと一歩を踏み出す。


 木々が傘となる精霊に見放された土地の入り口から出れば、雲間から覗く朝日が世界を染める。


 明るい陽射しは、完徹したわたしの目にはまぶしすぎた。

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