第52話 露呈
「んんっ……それで、さっきはどうしてあんな暗い顔をしていたんだい?」
咳払いして場の空気を換えたスワンはきりりと顔を引き締めて聞いてくる。
何の話をしているのかと思って、それからすぐに先ほど手袋を見ていた時のことだと気づいた。
少しためらって、けれどこれ以上ない識者だと思って、私はそっと右手をテーブルの上に置いた。
「この手のことです」
「手?……もしかして、大きな怪我でもしたかい?」
「ある意味ではそうですね」
「古い傷の治癒は難しいけれど、私なら不可能ではないわよ」
フォトスの提案はありがたいけれど、さすがにこれはフォトスにだって治せるとは思えない。
あるいは治せたとして、フォトスに迷惑がかかる可能性がある。例えば、フォトスがうまく魔法を使えなくなる、といったような。
「そういう怪我とは、少し違うんです」
この傷は、見世物ではない。他人に見せるようなものではない。
わたしの人生をゆがめた原因であり、わたしという人間が何者かを伝えてしまうモノ。
「……精霊が刻んだものなんです。そして、わたしの人生を変えた、傷です」
飴を操るわたしに届いた、魔女たちの賞賛の声。その中にいくつも聞こえたそれは、わたしの心に無数の針として刺さっていた。
それは名前も知らない魔女たちの言葉で、あるいはスワンの言葉でもあって。
「精霊に愛されていると、わたしには思えないんです」
「そんなことはないさ」
「いいえ、だって……わたしの手には、これがあるんですから」
そっと、手袋から手を抜き出す。
久しぶりに人の目にさらされた手の甲がチクリとうずいた気がするのは、気のせいだろうか。
現れたのは、不思議な模様。ただの傷と呼ぶにはそこには意思が感じられ、けれど建国の伝説に語られるような仰々しいものとも思えない。
人はこれを、世界樹の紋章を呼ぶ。
ただ、わたしには精霊のいたずらとしか思えない。そう、思っていたい。
「これ、は……」
「……だから、今なの?いいえ、あるいは逆……」
二人が息をのむ気配が伝わってくる。やっぱり、言葉を失うほどに衝撃的なものなんだ。
そう思うほどに胸が苦しくなる。
精霊のいたずらは、精霊による烙印。負のレッテル。対価の甘味を出し渋ったか、あるいは明らかに量が足りない魔法を発動してしまったか、とにかくそうした問題を起こす魔法使いだと精霊たちが共有するための証。
わたしの手に付けられたそれは、傷と呼ぶには整っていて何かの模様のようにも見えるけれど、精霊につけられた傷であることに違いはなかった。
この国で伝説に語られる世界樹の紋章だなんて言われて王子殿下と結婚までさせられたけれど、それはきっと間違い。確かに書物に乗っていた「世界樹の紋章」とわたしの手の甲のそれは似ている気がしたけれど、手に刻まれたそれは少しぐちゃっとしていて、紋章なんて呼べるものではない。
だから、わたしはこう思うことにしたのだ。
これは世界樹の紋章ではなく、ただの精霊のいたずら。
そう判断したからこそ、アヴァロン王子殿下はわたしに見向きもしないのだ――と。
そうして、わたしは心の安寧を図る。
自分の置かれた境遇に理由をつけて、だから仕方がないのだ、と言い聞かせるのだ。
うつむいて深刻な表情で何かを考えていたフォトスがばねが伸びるように勢いよく顔を上げてわたしの目をまっすぐに見て告げる。
「……精霊のいたずら、ではないわね」
「同感さね。もしそうなら、スミレがこれほど精霊と意思疎通を行えている理由がわからないからね」
ひとまず隠しなさいと、言われるままに手袋をつけなおす。
どこか責めるような視線を二人からもらうけれど、その理由がわからない。
「……ここでは、本名だとか社会的立場だとは抜きにして、詮索もしないものなのだけれどね」
「まあミスだっていうのなら仕方がないだろう?……まったく、おっちょこちょいにもほどがあるね」
「ええと?」
やれやれと首を振る二人。
わたしは彼女たちが何を言いたいのかがわからず、首をひねることしかできない。
わたしの動揺に気づいたフォトスが、わたしも耳元に顔を近づける。
かすかな水音と吐息がなまめかしいと、場違いなことを考えて。
――王子妃とお呼びした方がいいかしら?
言葉に、思考のすべてが停止する。
「……スミレ?」
「あ、ええと……わたしは、スミレです」
「そうね、そういうことにしておくべきね」
やっぱり、身バレしてしまった。
世界樹の紋章を宿した女性の発見と、王子殿下との婚約は、市井に伝わるほど大きな話だったのだろう。その情報さえあれば、わたしの手にある「精霊のいたずらにも見える何か」を目にしたところで、わたしの情報にたどり着いてしまう。
「……ああ、確か魔法は禁止って話だったね」
「ええ、バレたら面倒なことになるでしょうね」
ああ、スワンは貴族家の使用人斡旋の伝手があると話していたっけ。
フォトスは……わからないけれど、いくらでも貴族と伝手がありそう。あるいは、フォトス自身が貴族だと言われても違和感がない。
二人は、田舎貴族のわたしよりずっと王族の事情に精通している。つまり、わたしのことをバラせる伝手があるということ。
命綱を握られる感覚というのは、こういうものなのだろうか。
握りしめたこぶしの中に、じっとりと汗がにじむ。
こんな状況なのに、わたしの頭の中にあるのは「これで魔女の円卓から追放されたらどうしよう」なんていう不安だった。
「内緒でお願いします」
「言いやしないよ。ああもう、大層な爆弾を抱えさせてくれたもんだね」
「そうね。実に重いものを背負うことになったわ」
そう言いながらも、スワンとフォトスは顔を見合わせて笑う。
その反応は想定外にもほどがあって、わたしは目を回すばかりだった。
……なんか、軽すぎない?
「ええと?」
「私たちは魔女なのさ」
「時に、悪い行いをする物語の魔女と同一視されて差別されるくらいにはね。実際に悪い魔女として追われるようなことをしてしまった者もいるけれど」
だからこそ魔女の円卓は詮索は無しで魔法を語る場なのだと二人は告げる。
そういうものだから、と気負いない様子を示す二人を前にして、目頭が熱くなった。
この傷も、わたしの立場も、王族に属する身でありながら魔法を禁止されていることも、彼女たちは気にしない。
ここにいるのは魔法好きのバカばかりなのだと、笑いながら告げる。
「精霊は人間の思考では及ばないことを考えているものなのさ。だからこそ、理解できない精霊の行いを、人は『いたずら』と評すようになったわけだね。だが、精霊の行為には必ず意味があるのさ。たとえ、私たちには理解できなくとも」
「スミレがそれだけ魔法を使うことができている時点で、それは精霊のいたずらなんかじゃないわね」
だから安心していいと、彼女たちは、わたしが求めていた言葉をくれる。説得力とともに、わたしの心にあった重いものを溶かしてくれる。
ああ、本当に胸が温かい。
「祝福と、そう呼ぶにふさわしいものだろうね」
スワンが言うようにこの傷が祝福だと、まだわたしの心は何のためらいもなく受け入れることはできない。
だって、この傷があるから、わたしは苦しい思いをしているのだから。
氷の王子と呼ばれる殿下と結婚し、いびられ、毒殺未遂にあって、魔法の使用を禁止されて。
けれど、それでも、これがあったからこそスワンやフォトスたちに出会うことができたというのなら。
少しは、この傷に価値を見出してもいいのかもしれない。
「ほら、泣くんじゃないよ」
甲斐甲斐しく世話をしてくるスワンの厄介になりながら、わたしは子どものように泣きながら笑った。
楽しくて、おかしくて、うれしくて。
胸がいっぱいになって、笑った。
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