第50話 熱としびれ

「そうか。それで、あの魔法の腕か。よほど厳しい鍛錬を積んだのだろうな」


 何度もうなずく彼の尊敬のまなざしが痛い。

 おそらくはヒョウエンも先ほどの、飴を動かす魔法を見ていたのだろう。


 なんとなく恥ずかしく思えるのは、あの魔法はただ、スワンたちがこれまで精霊とともに積み重ねた時間があったからこそなしえたのだと思うから。

 飴を操ることに慣れがあったからこそ、わたしの意図を十二分に読み取って美しい世界を作り出してくれた。

 つまり、わたしではなく、精霊がこれまで鍛錬をした結果、ともいえるのではないだろうか。


 そもそもわたしは、鍛錬と呼べるようなことは何もしていない。

 まず、魔法の鍛錬とはどういうものか、考えてもよくわからない。

 甘味を用意して、何度も精霊にお願いして、精霊との意思疎通のコツを図るということだろうか。けれどそれは、彼のいうような過酷さは無いように思える。

 他には鍛錬らしい鍛錬を浮かばず、首をひねるばかり。


「鍛錬というよりは、ただ楽しくて続けていた、というのが近いと思います」


 日々の糧を得るという目的はあった。いざというための武力としての意味合いもあった。


 けれどそれ以上に、魔法を使うこと自体が楽しかった。

 だから、森でとれた貴重な果実をささげて魔法を放つことが苦ではなかった。ケチくさく果実を切り刻んでちまちまと魔法を放って練習することはあったけれど、そうした試行錯誤さえ楽しかった。


「魔法が好きなんだな」


 目を細めて告げる彼に、強くうなずく。


「はい。それはもう……本当に、楽しいです。神秘的で、摩訶不思議で、豪快でいて繊細で……底知れなさにひかれたんですかね」


 魔法が、好きだ。

 改めて突きつけられた思いが、だからこそわたしの心に影を落とす。


 そんな魔法を、わたしは、自由に使うことが叶わない。立場が、環境が、わたしから魔法を奪おうとする。それに、抗うことはできない。


「神秘性か……」


 わたしの苦しみには気づかず、ヒョウエンは頭上を見上げる。

 同じように見上げた先、そこにはわたしが作り上げた、わたしの魔法の結果がある。


 心のままに、自由に行った魔法が、世界に形を残している。


「美しいな。まるで琥珀の中に閉じ込められたようだ」

「あぁ、なるほど」


 夕日色のとろりとした光を帯びた天蓋は、確かに琥珀に見えないこともない。

 だとすれば、琥珀の中にいるわたしたちは、世界から切り離され、形を保ったまま閉じ込められた眠り人ということだろうか。


「このまま、時が止まってしまえばいいのにな」


 わたしの心を見透かしたような言葉。

 ただ、声音に宿る悲しみか苦悩のような思いに、心の表層がさざなみ立つ。


 そこまで、わたしと同じようなことを考えたのだろうか。感じているのだろうか。


 まるでこれは、鳥籠の中の鳥のような立場にある自分を揶揄しているようだ、なんて―ー


「何か、大変なことでもあるんですか?」


 疲れているのだろうかと首を傾げれば、彼はさりげない動きでわたしの手を握ってくる。

 ごく自然に、わたしの手は、彼の手のひらの中にあった。


 ふっとこぼすような笑みを浮かべる彼の熱が、手袋越しに伝わってくる。

 剣を握り続けた者特有の、硬くて、マメの多い手のひら。その手は力強く、けれど優しい手つきをしていた。


「君のような美しい女性とともにいられる時間が、少しでも長くなればいいと思うだけだ」


 お兄さまの溺愛ともまた違う彼の言葉が耳の奥で何度も響く。


「……そう、ですか」


 それ以外のどんな言葉も、言えそうになかった。


 気障な人。

 けれど、なぜだか彼の手を振りほどく気にはならなかった。


 それどころか、彼の手がそっと離れる中、心細さが胸を衝いた。


「君は、精霊に見放された土地でも狩りをしているのか?」

「そう、ですね」


 この人も、王都に住んでいるのか。そして、真っ先に精霊に見放された土地の名前を挙げるということは、彼もまた、同じ土地で狩りをしている……騎士、とか?

 あるいは、わたしと森で会ったことがあるとか……どうだろう。


 少なくともわたしの記憶の中には、こんなにも包容力のある、それでいて気障な人間はいない。


「危険ではないか? 君の体に傷一つでもつこうものなら世界の損失だ」


 ほどかれた手のひらの上を、さらり彼の指が滑る。

 腫れ物に触るように、宝石でも愛でるように、優しい手つき。


 びくり、と体が震える。

 指が滑る下、布一麻衣を挟んだ肌が、何倍も敏感になったように感じられた。


 おなかのあたりがきゅっと温かくなったのは、わたしが、そんな言葉を、こんな人を、求めていたからなのだろうか。


 守られたい、と。

 大切にしてほしい、と。


 ……なんて、馬鹿げている。

 魔法が好きで、狩りが好きで、妃になっても王城から抜け出して魔法を放ちに行く人、それこそがわたし、クローディアという人間なのだ。


「大げさですよ」

「大げさなものか」


 何かを探るような眼で、彼はわたしの目を見る。

 心の奥底まで見透かされそうな瞳。


 どこか無機質に、そして恐ろしくも見えるその目に、覚えがある気がした。


「……本当に、大げさなものか」


 もう一度、彼の手がわたしの手を包み込む。

 右手のこわばりをほどくように、手のひらを広げる。


 指が、そっと私の手をなでる。その指が、手の甲にまで滑るように動いて。


 ぴりりとした感じに、思わず手を払っていた。


「……」

「……」


 我に返る。一体何なのだ、そう思いながら、顔の熱を必死に息に乗せて吐き出す。


 微妙な空気が、私たちの間に広がる。

 夕日色の光が照らしだす世界、時が止まったようにどちらも身じろぎ一つとることができなくて。


「私の教え子に不埒な真似をしたら許さないよ」


 いつの間にかやって来ていたスワン。彼女の言葉にびくりと肩を跳ねさせたヒョウエンは勢いよく首を横に振る。


「不埒な真似などしていない」

「本当かい?手を取っていたように見えたけれど?」

「それは……ただ感極まっただけだ」


 感極まるような話の流れだっただろうかと首をひねりつつ、胸元に引き寄せた右手を左手で守るように包み込む。

 黒革の手袋の表面をなでるけれど、彼の手がなでたときのようなピリリとした感覚を覚えることはなかった。


「……おーい、ヒョウエン!」

「呼ばれてないかい?」

「ああ……」


 のっそりと立ち上がったヒョウエンが、ちらとわたしを見る。

 揺れるその目は、わたしの気のせいでなければ名残惜しいと語っていた。


 離れたくないと、このまま、ともにいたいと。


 唇が戦慄く。瞬きに揺れるまつげのかすかな揺れが、肌で感じ取られた。


 改めて見ればさらけ出された顔の下半分はひどく整っていて、丁寧に手入れされているのか肌は透き通るようだった。

 琥珀色の光を浴びる髪は、精霊に愛されたようにまばゆく光を反射している。


「私は――」


 続く言葉は、彼を呼ぶ声にかき消される。

 ぐっとこらえるように口を引き結び、固く目を閉じた彼は、そうして言葉を飲み込んでしまった。


「また、会えるか?」

「……また、魔女の円卓で」


 他に会う手段などないのだから、会えるとすればこの会だけ。


 捨てられた子犬のようにちらちらと振り返っては前を向くヒョウエンの背中を見送り、どっと疲れが出てわたしはテーブルに手をついた。


 頭上で「罪づくりな子だねぇ」なんていうスワンの声がしたけれど、反論する気力はなかった。

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