第42話 門番の試練

*アヴァロン王子殿下視点です*





 精霊に見放された土地の入り口。

 広大な森は夜に沈み、木々が生い茂る先には底なしの暗闇が広がっている。


 ざわめく木々の葉擦れの音は、遠くから聞こえてくる魔物の咆哮と重なってひどく不気味に響く。

 それは人ならざる者のささやきのようにも聞こえる。


 こんな森の奥に一人で向かう――今更ながらに恐怖心がこみ上げ、足が止まる。


「本当に、ここに来たのか?」


 スミレの乙女を追って森に来たのはいい。

 ただ、部屋から移動している間に彼女の姿を見失ってしまった。


 王族の執務室は外部の侵入困難な場所にある。それは私の執務室も同じで、だから部屋からの移動にひどく時間がかかった。その上、秘密通路には窓は無く、外を伺うことはできなかった。


 おかげで今、彼女がどこに行ったのか見当もつかず、そして本当に精霊に見放された土地の奥に向かったのという疑念が心の内で膨らむ。


 最後に見下ろした彼女の位置からそれほど遠くないとは思うものの、どれだけ闇の先に目を凝らしても、スミレの乙女の背中が見つけられるはずがなかった。


「……ここから、どうすればいいんだ?」


 完全にノープラン。

 ただ、彼女を追わないといけないという強迫観念と、彼女と会いたいという焦燥だけが自分を突き動かしていた。


 これではまるで、恋に狂った男だ。


 思い、そして苦笑が漏れる。

 何が、まるで、だ。


「実際に、恋に狂っているのだろうな」


 氷の王子などと呼ばれていても、一皮むけば私はただの男だったということだ。


 たった一人の女性に心奪われ、恋焦がれ、一目でも彼女を見たいと思い、彼女に自分を見てほしいと思う。

 あの涼やかな声が響くたびに胸は高鳴り、息が苦しくなる。耳の奥、残響だけでそれなのだから、彼女を前にした時の歓喜はもう、言葉にできない。


 ああ、私がこれほどまでに君を愛しているのに、君はどうして、私から遠ざかろうというのか。


 嘆き、近くの幹に背中を預ける。とめどなくあふれる思いに飲まれた体は、まるで私のものではないように言うことを聞かない。

 月夜に広がる荒野と、その奥に黒々とした影を見せる王城は、まるで別世界に迷い込んだような気持にさせる。


 いや、ここはまだ、別世界ではないのだろう。


 森の入り口。この場所は別世界との境界線のように明暗がはっきりしている。


 月光が照らす、王都が見える平穏な世界。

 そして、魔物が跋扈する死と戦いの世界。


 その、血濡れた世界に彼女がいるかもしれない。


 そう思えば、いてもたってもいられない。

 背中を幹から離し、森の奥をにらむ。

 そこに、彼女はいるのだろうか。

 今日もまた、一人魔物と戦っているのだろうか。


 この広大な森の中、一人の女性が見つかるはずがない――冷静な頭が訴える。


 きっと見間違いだ。先ほど見た人影は、別の誰か、あるいは鳥か何かの影を彼女と見間違えただけなのではあるまいか。

 何しろ、私の執務室から荒野まではかなりの距離があった。その距離で人を判別することなどできるはずがない。肉眼で人の姿を見ることもできないはず。


 ただ、心が叫ぶのだ。

 あれは彼女だと。

 確かに、スミレの乙女だったと。


 ならば、だ。

 あるいは、彼女は私と入れ違いで王城に戻っているのではないだろうか。

 そうして、誰か、私以外の男のところに、いるのではないか。


 ああ、まただ。

 また、心が悲鳴を上げる。

 狂おしいほどに彼女の名前を叫び、血涙を流している。


 血の味がするほどに強く奥歯をかみしめる。

 怒りか、絶望か、憎しみか。

 こみ上げるどす黒い感情を、必死にのどの奥に押し込む。


「……クソッ」


 思わずこみ上げた汚い言葉が、するりと歯の間から滑り落ちる。


 自分の醜さが、自分のふがいなさが、自分の甲斐性のなさが――とにかくすべてが嫌で仕方がなかった。

 平静を装うこともできない。氷の王子としての仮面をかぶることもできない。

 そのくせ、完全に狂って恋に走ることも、強権を振るって彼女を我が物にしようとすることもない。


 中途半端で、そして、自己保身にまみれた無能。


 こんな男だから、スミレの乙女は私を見てくれない。

 私がどれほど思っても、彼女はなびかない。


 自由な鳥は、けれど私の知らぬ鳥かごの中で、今日も翼を窮屈そうに畳んでいるのだ。


 こんな、危険な森の中にいるのではなく――


「……?」


 風が、吹いた。冷たい、中秋の風。


 森の奥から吹き付けるその空気は、木々のにおいと、土のにおいと。


 そして、人間のにおいを運んできていた。


 とっさに、腰に下げた剣に手が伸びる。

 人が、いる。


 それがスミレの乙女である可能性など、意識から抜け落ちていた。

 突然に現れたように感じられた誰か。

 そんな、魔法使いよりもなお恐ろしい力を秘めた存在を前に、心臓が唸る。


 人――ではないかもしれない。二足歩行をした、魔物?

 あるいは、禁忌の力に身をやつし、魔物のような異形に変わり果てた人か。


 がさりと。

 茂みが揺れる音に、柄を握る手の力が強くなる。


 敵か、味方か。


 ドクン、ドクンとやかましい心臓の音が耳の奥で鳴り響き、本能は警鐘を鳴らし続ける。


 今すぐに立ち去るべき――そう思っても、時すでに遅し。

 果たして、茂みの中から現れたのは、見た目は人間と変わらぬ、一人の女だった。


 白い仮面を身に着けた、異様な気迫を宿した存在。


「今日は新顔が多いわね。残り香がないと見落とすところだったわ」

「……お前は、何だ?」


 のんきな声で、女が告げる。


 美しい体格をした女だった。

 濃い紫のローブは体に張り付き、その輪郭を浮かび上がらせる。

 肌よりもなお白い無機質な仮面が目元を隠す。

 癖の強い黒髪と、闇を濃縮したような同じ色の瞳。

 白い肌の上にひかれた真っ赤なルージュがやけに目についた。


 亡霊か、魔物か、あるいは、と。


 考える私をよそに、女は少し不思議そうに首をひねる。


「……そう、招かれざる客なのね」

「招く?……少し前に、このあたりに来た女性を探しているのだが、心当たりはあるか?」


 もし、この女がスミレの乙女を招いたというのなら。


 彼女の行方を知っているということ。

 彼女の正体について、何か知っているかもしれないということ。


 仮面の奥、細められた目は私のすべてを見透かすよう。

 あらゆる光を吸い込むような闇の瞳が、私の心を揺さぶる。

 気を抜くな。油断するな。この相手を前に、不用意な言動は死を招きかねない。


「……知り合いを、探しているの?」


 女が問う。

 肝心なところは濁したその言葉は、何かを伝えるには足りないものが多くて、けれど、私が求める情報を知っていることを示唆していた。


 この女は、スミレの乙女が近くに来たことを否定しなかった。

 いや、まだ足を運んだ人物が、スミレの乙女だと決まったわけではないのだが。


「ああ。戦友で、命の恩人で、私の……知人だ」


 ――好いた相手だ。


 喉まで出かかった言葉を必死に飲み込む。

 どうしてあったこともない相手に告白しようとしているのか、まるで相手の掌の上で遊ばれているような感覚に、首の後ろがちりちりとした。


 何か、されているのか。魔法、あるいは超常の力の行使?

 あるいは、この場の空気感がそうさせるのか。


 死の世界の入り口に立つ女は、静かに何かを考えていた。

 その立ち居振る舞いに隙はない。

 そして少なくとも、私に敵意は向けていない。


 まだ、剣は抜かない。

 敵対が決まったわけではない。

 その気になれば武力も権力も、すべてを使って目の前の女からスミレの乙女を聞き出すことも考慮に入れながら、彼女の選択を待つ。


 吹き抜ける冷たい風に、木々が揺れる。

 ざわり、ざわりと。

 その音は、何か、形のないものが私のところに迫ってきているように錯覚させる。


 形のないもの――私を飲み込もうとする怪物。


 それは、私が積み上げてきた王子としてのすべてを崩す恋という怪物かもしれなかった。

 私の想いを打ち砕く、真実という折れない剣かもしれなかった。

 あるいは、私の怯えかもしれなくて。


 長い時が経ったように錯覚するほどの緊張感の中、女は小さくため息をこぼした。


「……いいわ。私はただ、門番として貴方を見定めるだけね」

「門番か。お前は何を守っている?」

「すべてを知りたければ試練を超えて見せなさい」

「…………いいだろう」


 私に試練を課すなど不遜極まりないが、必要とあれば乗り越えて見せよう。

 負けはしない。


 スミレの乙女のためだと思えば、全身に力が沸き起こる。


 キン――剣を抜く音が、やけに大きく響く。その凍てつくような音は、私の決意の強さを示しているよう。

 心の動揺を消していく。氷のように、凍らせる。

 そうして、打倒すべき相手てきだけを見て――


 ぎょっと見開かれた女の黒目が視界に映った。

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