第16話 抜けた人
*アヴァロン王子視点*
殺意さえにじむその淡い紫の瞳が、やや違和感のある丁寧な言葉を紡ぐ声が、私に突きつけてくる。
目の前の女性が、探していた「スミレの乙女」だと。
まだ確信には至っていないが、「王城にいる淡い紫の瞳の女性」という条件に符合するのは彼女くらいではないだろうか。
スミレの乙女、あるいは
散歩をするように精霊に見放された土地に踏み込んでは魔物を討伐する、純白のローブで顔を隠した亡霊のように神出鬼没な女。
若くして精霊と完璧に意思疎通を図る者。
彼女と同じ薄紫の瞳の女が、私をにらんでいた。
その目には憎悪があった。憤怒がこめられていた。
どうしてそんな目を向けられているのかが、わからない。ただ彼女の言葉が、衝撃をもって私の中で響き続けていた。
『わたしにこの人生を強いたあなたが、それを言うのですか?』
――私が、お前に何を強制した?
お前は誰だ?
混乱が思考を乱す、その一方で。
私はなぜか安堵していた。
理由はすぐに分かった。
彼女を縛ったのがほかの誰でもない自分自身であったことに、私は安堵していたのだ。
エインに語った仮説は、まだ私の中でどっしりと根を張っていた。すなわち、「スミレの乙女は国王陛下の愛人であり、彼女はこの王城にかくまわれているのではないか」と。
ただ、それは不正解なのかもしれないと思えるようになった。
正しくは、私が理由で彼女はここにいるのだと。
問題は、私が彼女を縛ったという「何か」について、自分に少しも心当たりがないことだった。
思考は高速で回り、けれど答えを導き出すことはかなわない。
気持ちばかりが急いていた。
落ち着け。
まだ目の前の女性がスミレの乙女だと決まったわけではない。
だが、まっすぐに目を見れば、やはり彼女の瞳には怒りの光がある。
衝動が私の心を揺さぶる。
正直、目の前の女がスミレの乙女かどうかは、今は重要ではなかった。
その目に宿る感情の理由を、先ほどの言葉の理由を、私は求めていた。
教えてくれ。私は一体、お前に何をした?
――そんな問いかけは、けれど喉を出ることはなかった。
その言葉は、あるいは決定的に私と彼女の間に溝を刻んでしまいかねなかった。始まってもいない関係を終わらせてしまう一言のように感じていた。
ああ、そうかと。
私はそこでようやく、最近私を突き動かしていた衝動がすとんと胸におさまったのを感じた。
私は、スミレの乙女に関心を抱いていた。彼女のことを知りたいと思い、彼女と一緒に生きてみたいと思い、彼女の秘密を暴きたいと思った。
あるいは、純白の衣に身を包む彼女を、己の色に染めたいと思った。私色に染まる彼女と一緒に過ごしたいと思っていた。
そんな欲求は、私の中で急速に肥大化していた。
会えない日々の中、私は正体不明なスミレの乙女に、勝手に幻想を積み上げていた。
自分の理想を押し付けていた。
王子である私が関心を寄せる女は、私の目から見ても完璧な者だろうと考え、私の中の彼女の輪郭をゆがめていた。
だから、現れたスミレの乙女だとしか思えない存在の「裏切り」に、私は激情を抱いていた。
礼儀作法が完璧な令嬢だと考えていたから、音を立ててカップを置いた時に失望した。
使用人を人間とも思わないような言葉を聞いて、お前も愚かな貴族たちと同じなのかと絶望した。
彼女を私から奪おうとした――殺そうとした――使用人に殺意を抱いた。
毒を飲んだと平然と告げる彼女に独りよがりな怒りを覚えた。どうして自分を大事にしないのかと。
お前は、私との関係を築いてはくれないのか――心がそう叫んでいた。
私をにらむ薄紫の瞳の女の目じりには涙が浮かんでいた。
瞳を潤ませるほどの激しい怒りを浮かべる彼女に、かけるべき言葉が見つからない。
何かを、言わなければならない。
――戦慄く唇を動かそうとしたところで。
ふらりと、彼女の体が傾いた。
体を支えるために地面につけていた手から力が抜けたようだった。
慌てて手を伸ばし、彼女の体を抱きかかえる。細く柔らかい、女性の体だった。
そのぬくもりを知っていた。わずかに香る薬草のにおいが記憶を刺激する。
森の中、悪食犀に追われながら必死に走った瞬間を思い出した。
一瞬のようで永遠のようでさえあったあの時の、胸の高鳴りを思い出した。
彼女と一緒にいられるだけで、私はひどく高揚していた。
腕の中、何かを言うように彼女が口を動かす。
伸ばされたその手は、ひどく震えていた。
「……そうか、毒を飲んだといっていたな」
「大丈夫、ですよ。このくらい慣れています。美味しいは、正義ですよ……」
言っていることがよくわからない。意識がもうろうとしているのだろうか。
焦燥が心を満たす。すまないと心の中で謝って、私は使用人ごと薄紫の瞳の女性を抱き上げた。
「っ、何、を!?」
「いいから黙っていろ。念のため医務室に連れていく」
嫌々と身じろぎする彼女は、けれど本気で私の腕の中から逃げることはなかった。毒のせいで手足の神経が麻痺しているから、だけではないだろう。
その顔には、私に触れられることへの激しい嫌悪感があった気がした。――そう考えるだけで心が痛む。
彼女が一人だったら、受け身が取れないこともいとわずに私の腕の中から抜け出していただろう。
それをしないのは、彼女にしなだれかかるように使用人がその上に乗っているから。
ああ、なんだ。
やはり彼女は心優しい女性だ。自分に毒を盛った女性に気を遣うのだから。
使用人の髪を撫でていた彼女の姿が思い浮かんだ。
その際に浮かべていた「仕方がないな」とでも言いたげなあの笑みを、私に向けてくれることはないだろうか。
無性に気恥ずかしさがこみ上げた。
「……今度は、逃げないのだな?」
頬の熱を気取られないように顔を近づけた私が彼女に囁いたのは、そんなよくわからない言葉だった。
私は、何を言っているのか。
びくりと肩を震わせた彼女は、それ以上一言も口を開くことなく医務室に運ばれた。
……やはり、この女がスミレの乙女なのだろうか。
驚愕に目を見開く医者に端的に用件だけ述べて、私は医務室を後にした。
あれ以上彼女とともに居たら気が狂ってしまいそうだった。
歩くたびに、衣服から彼女の残り香が立ち上る。
草木の匂いと、わずかな甘い香り。
廊下を進む。驚いたように目を見張る貴族や役人の姿が目に付く。
私に何かついているのだろうか?
確認するが、身だしなみにおかしなところはない。
それでも、通り過ぎる者たちは相変わらず私を前に驚愕をあらわにし、顔を隠すようにいつも以上に深く頭を下げる。
王城を出る少し前、ひどく焦りをにじませる少女とすれ違った。
彼女は確か、エインの婚約者のトレイナ伯爵令嬢だ。
もっとおしとやかなイメージだったが、今の彼女は貴族令嬢としての顔をかなぐり捨てて焦燥のままに走っていた。
何か緊急事態だろうか。エイン関連か?
周囲に、エインの姿は見えない。
少し迷い、声をかけるほどの関係ではないかと思い至り、放っておくことにした。
ここで声をかけ、私が彼女に気があると誤解されてはたまらない。トレイナ令嬢自身はそうは考えないかもしれないが、周りが誤解する可能性は十分に考える。
友人であるエインワーズとその婚約者の関係を壊すことはしたくない。
護衛とともに馬車に乗る。
ひどくまどろっこしい。歩けば数分で着くものの、馬車で行こうとするから無駄に時間がかかる。
馬車に揺られる中、やはり、おかしなものを見るような目で騎士たちが見てくる。
ふと、貧乏ゆすりをしていたことに気づき、腕を組んで己に自制を言い聞かせる。
最近、同じようなことがあった気がする。
苛立ちは募るばかりで、気づけば肘を指で何度も小刻みに叩いていた。
馬車が止まる。
下りれば、王都のナイトライト侯爵邸が目の前に広がっている。
私とエインの関係を知っているからほかの家を来訪するよりは来やすいのだが、さすがにこの電撃来訪はまずかったらしい。
普段は見せないあわただしさを感じる屋敷を進みながら、私はエインの部屋の扉を蹴り破った。
「彼女がスミレの乙女なのか!?」
「お、おお……?」
驚愕に目を見開いたエインの手から書籍が落ちて床を転がった。
だがさすがは性悪。すぐにいつものニヤニヤ笑いを取り戻した。
「そっか、会えたかぁ。どうだった?なかなかに皮肉な運命を感じたでしょ?」
「……いや?何やら因縁めいたものは感じたが、それほどではないな。それで、彼女は何者だ?」
「は?会ってきたんだよね?」
エインの動きが止まる。一度瞼の裏に隠れた瞳が、驚愕に揺れる。
「ああ、会ってきた。それで、答え合わせに来た。彼女について知っているんだろう?」
「いや、殿下……まじかぁ。ああ、いや、そういやぁお前はそういう
最低限の礼儀もかなぐり捨てて私のことを「お前」とか「やつ」などと呼ぶエインが、顔を手で覆い隠して天を仰いだ。
どうやら答え合わせをしてくれる気はないらしい。
つまり、己の身一つで彼女の正体を暴けということか。
「一つだけ確認させてくれ。スミレの乙女は王城にいる、淡い紫の瞳と黄金を溶かしたような髪の女性だな?細身で、化粧っけがなく、薬草の匂いがする」
「薬草の匂いって……嗅いだのか?」
「……………いいや、偶然香っただけだ」
「偶然って。ごまかすのが下手すぎるだろう。……あんまりやらかしてくれないでよ?マリーに嫌われたらたまらないからさ」
「先ほど王城でトレイナ伯爵令嬢とすれ違ったが、彼女はスミレの乙女の知人なのか?」
「そこも含めて自分でがんばれ」
どこか投げやりに告げたエインがソファに深く体を沈ませる。
その対面に座り、私はスミレの乙女について考える。
まずは彼女との関係改善から努めるべきだろう。
彼女は王城にいるのだ。探せば見つかるはずだ。いや、私には見つけられないような場所にいる可能性もある。
これはすぐにでも医務室に行って――
窓の外を見る。空が燃えるように赤い。さすがに日が沈んでから女性を訪ねるのはまずい。
明日の朝いちばんに医務室を訪ねることに決め、私は暇を告げて席を立った。
背後から、ひどくあきれたようなため息が聞こえた気がしたが、今の私にはそれに反応を返す余裕はなかった。
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