第17話 変化
――アヴァロン王子殿下が壊れた。
いや、ひょっとしたらおかしいのはわたしかもしれない。
毒を飲んで倒れて、アヴァロン殿下に抱き上げられて医務室まで運ばれた。まるで、姫にでもなった気分で。
自分はアヴァロン殿下の妻であり妃なのだと思い出し、同時に、よく思われていないはずのわたしがどうしてこんな対応をされているのか、思考がこんがらがった。
アヴァロン殿下は必死な様子だった。
わたしが大丈夫か、体調に大きな問題はないか何度も尋ね、医者に問いを重ねる始末。
念のためにと望む殿下の頼みに従って、わたしは苦い毒消しを飲み、一晩医務室に泊まった。
王城勤めの老医者はわたしが王子妃であることを知っていたからあわてて口止めをした。「殿下が動いているので」と告げることで引いてもらったが、後で面倒なことにならないだろうかと危惧したけれど、どうだろう。
殿下は「わたし」には興味がないから大丈夫じゃないだろうか。
せっかくなので気絶したまま目を覚まさない使用人を抱いて、殿下と入れ違いでやってきたアマーリエをなだめて。
使用人のぬくもりに包まれて、すぐに深い眠りについた。
思っていたより、毒はわたしの体力を得ずっていたのかもしれない。
翌日。
目が覚めた時にはもう、体のしびれはすっかりなくなっていた。
精霊による契約の証を隠すための指無しの手袋、靴下や靴を身に着け、最低限見られる程度にドレスのしわを伸ばす。
医務室のベッドから起き上がってカーテンを開いた先――
「起きたか。早いな」
昨日老医者が座っていた椅子に腰かけて、足を組んで本を読んでいるアヴァロン王子殿下の姿がそこにあった。
「毒は抜けたか? 熱は……ないな」
困惑に思考が止まったわたしをよそに、殿下が近づいてくる。
流れるようにわたしの額に手を当てた殿下が安堵の息を漏らす。
近い。顔が近い。
そもそもこんな風に気安く女性に触れるような人じゃないでしょ?
私の困惑をよそに、彼は水差しに手を伸ばし、水を注いだグラスを渡してくれる。わたしはただ、流されるままに殿下の手からグラスを受け取る。
困惑で頭がくらくらした。一体今目の前にいるのは誰なのか――思考を放棄してグラスに口をつける。
朝の冷気で冷えた水がわたしの喉を潤す。
きゅぅ、と小さくお腹が鳴った。
そういえば昨日は夕食を食べていない。
せっかく予定していたアマーリエとのお茶会はわたしの看病に代わり、彼女はわたしが動くことを許してくれなかった。
犯人を血祭りにあげてやるとばかりに憤慨していた彼女だったけれど、わたしが自分で毒入りの紅茶を飲んだことを知るとコロリと表情を変えた。
いい笑顔で私に向かって濃密な薬草の匂いが香る解毒薬を突き出してきたアマーリエの姿が思い浮かんだ。
殿下に飲まされた、なんてことを口にする余裕はなかった。だって、殿下のあの対応をどう話せばいいか、まだわたしの中で答えが出ていなかったから。
そういうわけでものすごくまずかい薬を二回も飲む羽目になった。苦くてドロドロしていて、語彙力が死ぬほどには最悪な薬を。
おかげでそのあと食事をする気にもなれなかったのだ。
こんなタイミングで空腹を主張しなくてもいいだろうにと、少し自分の胃に恨めしく思った。
どう反応したものかと顔を上げた先、顔を真っ赤にした殿下が、腕で顔を隠しながら視線を必死に逸らしていた。
「……き、聞いていない、ぞ」
そんなことはどうでもいい。それもよりもまず突っ込みを入れたい。
あなた、誰?
本当にアヴァロン王子殿下なの?替玉じゃないよね?
それともやっぱり私の目がおかしいのだろうか。
目をこすり、頬をつねる。痛い。夢じゃ、ないのか……はぁ。
「ああ、赤くなってしまうだろうが」
目元をこすっていたら、王子殿下が私の手を掴んでくる。反対の手でそっとわたしの目元に触れる。頬へと流れるように動いた手が、わずかにヒリヒリするあたりをさする。
赤くなってしまっているのを確認したのか、吐息を漏らす。
殿下の顔から眼を離せない。
異様な空気がそこにあった。
殿下の手が頬を伝ってあごに触れ、くい、と私の首をもたげさせる。
「……やはり、きれいな色をした瞳だな」
つかんだままだった手に気づいた殿下が視線をさまよわせ、おずおずとわたしを見る。
きゅ、と。どこかためらうように握られた手から、強い熱を感じた気がした。
静寂が満ちる。どうにもいたたまれない空気を何とかしたくて、けれどそのとっかかりがつかめない。何か――
「わぁ……」
後ろの、カーテンの隙間から感嘆の声が聞こえた。救いの手はそこにあった。
シャ、と勢いよくカーテンを開いた先、恋する乙女のように手を組んで目を潤ませる抱き枕の姿があった。……違った、わたしの使用人がそこにいた。
そういえば、彼女は目の前の人物がアヴァロン王子殿下だと気づいているのだろうか。気づいていそうだ。
だとすると、ここで下手に何かを言われて状況をかき回されると面倒だ。
顔を近づけ、耳元でささやく。
「……静かにしておいてね」
ぴゃ、とおかしな声を漏らした彼女は頭頂部から湯気を出し、目を回して背後へと倒れこんだ。
この子、気を失いすぎじゃないだろうか。
背後に倒れる彼女の体を抱きかかえ、後頭部を守る。さすがにたんこぶを再びぶつけるのはまずいだろう。
そう思いながら使用人の子をゆっくりとベッドに寝かそうとしたけれど、動けなかった。
腹部に抵抗を感じて視線を下げる。そこに、細くともすごく力強い腕が巻き付いていた。
「……ええと?」
「ああ、済まない。また倒れてしまうかと心配になっただけだ。他意はない」
「そうですか?」
今の言動にどのような他意の可能性があったか定かではないが、殿下は困ったようにわたしの腹部から手を離す。
使用人をベッドに寝かせ、カーテンで仕切ってから問う。
「……朝早くからどのような御用でしょうか?」
殿下の視線が泳ぐ。やっぱり、わたしの中の殿下の目の前の男性が一致しない。
「その、毒はもう大丈夫か?」
「はい、ご心配をおかけしたようで申し訳ありません。それと、この件はこちらで対処しますので、お力添えは不要です」
「そうか。まあ、なんだ。もしも手が必要だったら言ってくれ。力を貸そう」
王子様ともあろうものがそんな安請け合いをしてもいいのだろうか。まあ殿下が自ら決めたことだから何を言うこともない。そもそもわたしが協力を求めなければいいだけの話だ。
「……それだけ、ですか?」
まさか、忙しいだろう殿下がわたしの毒の確認だけのためだけを理由にここへ足を運んだというのだろうか。そんな、まさか。
ありえないと、そう思うのに。
殿下の表情が、言葉が、それを否定する。
「十分な理由だろう?……いや、その、だな。この機会を逃すと会えなくなってしまうのではないかと、漠然とそう思えてな」
「……はぁ」
乙女か?乙女なのか?
頬を赤く染めて潤んだ瞳を揺らす今の姿を見せれば、大半のご令嬢が惚れてしまうんじゃないだろうか。まさにより取り見取りだ。
少なくともわたしやアマーリエは見惚れることはないだろうけれど。
使用人が気絶していてよかった。ここで彼女が殿下に惚れてしまったら、さらに話がややこしくなるところだった。
「逃げも隠れもしませんよ」
「本当だな?絶対にだな?」
王城を抜け出して精霊に見放された土地を探索していたことはおくびにも出さない。
妃教育の賜物だった。
何度も確認をする殿下に首肯すれば、彼は胸に手を当ててゆるりと笑った。
……本当に、今日の殿下はどうしたのだろう。
「お前は普段どこにいるんだ?」
「王城ですよ」
「…………」
沈黙。
間違ったことは言っていない。だってわたしは王城に住んでいるし、たぶん殿下の許可なく王城を出ることはできない。
そしてわたしは、この男に許可を求めるなんてしたくない。
だから勝手に抜け出すのだ。そして、
殿下のジト目が痛い。男性がそんな目をしても可愛くない。
ああ、この使用人がやったらすごく様になる気がする。
「……そうですね。あの庭園には時折行きますよ。それより、王子殿下ともあろうものがいつまでもこのようなところにいらして大丈夫なのですか?お忙しいのでしょう?」
「……やはり私のことは知っていたか。まあ、そうだな。用事がないと言ったら嘘になるが、実際それほど忙しいわけではない」
へぇ?
忙しくないのに、第一妃との結婚式は最低限で済ませたと。なるほど?
まあ、もし結婚式を盛大に行っていれば、ほかの仕事ができないくらいに忙殺されただろう。
今頃はわたしも殿下も、栄養剤片手に徹夜明けの脳に鞭を打っていたかもしれない。
そんな可能性は、髪の毛の先ほどもありはしないけれど。
でも、妃教育のせいで、わたしは結婚式を行わなかった理由を知っていた。王族とて、望まぬ結婚をすることがある。あるいは、情けとして瑕疵のある令嬢を娶ることもあるという。
そういう場合は結婚したという結果だけを作るのだ。
形式だけで結婚したことにより、この国の貴族からは、わたしに瑕疵があるとみられている。あるいは、殿下が心からこの結婚を望んでいないということになっている。
そこに、貴族たちの動ける余地があるわけだ。
つまり「殿下がお望みだから妃を引きずり降ろそう」という口実が生まれた。言い換えれば、わたしを引きずり落してもその罪は軽いだろうと、何の根拠もなく信じられる状況ができたということだ。
アヴァロン殿下とわたしの結婚は国王陛下にも認められたものであるわけだし、表立って結婚に反対すると陛下の決定に唾を吐くことになってしまう。だから口実を盾にわたしに結婚を解消させようとしている。
その行き過ぎた行為の一つが、昨日の毒の一件というわけだ。
……重要なのは、殿下がわたしとの結婚を全く、一切、一抹たりとも望んではいないという点だ。
そしてわたしも、こんな結婚を望んではいなかった。
それはまあ、状況に流されて否といえなかったわたしに原因の一端はあるかもしれないし、このまま結婚出来たら楽だなんて心のどこかで思っていたのは事実だ。
けれど、一番の戦犯は殿下だ。間違いない。
そう思うと正直、こうして顔を合わせているのも苦しい。怒りが顔に出そうになる。
「それなら今度は庭園で会おう」
……本気なの?本気で、次があるなんて思っているの?
何度も名残惜しそうに振り返りながら、殿下が廊下の向こうに姿を消す。やがて踏ん切りがついたのか、足音が軽快なものになって遠ざかっていく。
その音が完全に聞こえなくなったころ、わたしはずるずると床に座り込んで膝を抱きかかえた。
「本当、何なの……?」
瑕疵が証明されたこんな娘を捕まえて、殿下は一体何をしたいんだろう。そもそも、いまだにわたしが自分の妃だとも気づいていないみたいだし。
わたしの問いに答えてくれる人は誰もいない。
ただ、二重の意味で傷物令嬢になったのだという事実が、今更ながらに心に爪を立てる。
その痛みによって、胸の中でくすぶる炎が静かに燃え上がっていた。
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