第15話 問答

 使用人が発狂したら夫である王子様がやってきました。

 なお、その使用人は馬車に牽かれたカエルのようにひっくり返って意識を失っているものとする。


 ーーさて、この状況でわたしはどうするべきだろうか。


 いくら頭をひねっても答えは出ず、とりあえずわたしは紅茶を置くことにした。

 カチリと、やけに大きな音がたった。

 指なし手袋をしている上に、手がしびれていては仕方がないかもしれないけれど、少し恥ずかしい。

 マナーが鳴っていなくて恥ずかしいなんて、わたしももう、心の中では王族になりつつあるということだろうか。


 殿下がわずかに顔をゆがめる。

 ひどく葛藤している様子。何にか……まあ、カオスすぎるこの状況に何を口にするべきか迷っているのだろう。

 久しぶりに顔を見合わせた妻が使用人をいびっている。


 ここでわたしに罵声を浴びせるようであれば、わたしとしては気が楽だ。

 だって、殿下はわたしにとって敵に他ならない。

 この苦しい妃生活は、ひとえに殿下のせいだ。わたしの手の甲にある紋章とやらのせいなのかもしれないけれど、一番大きいのはやはり殿下の庇護がないこと。

 殿下の訪れがなければ、わたしは無能な妃に転落する。

 妃としての最大の務めは子をなすこと。あるいは国母として国に仕え、いずれ王となる殿下を支えること。


 そのすべてを放棄している身としての罪悪感がゼロというわけではないけれど、すべて殿下が悪いのだと思っていれば心は軽くなる。


 実際、殿下のせいなのだ。

 右も左もわからないわたしは、ただ流される中で必死に岸にしがみつくしかなかった。

 しがみついたそれが実は藁か流木かもわからず、ただがむしゃらになるしかなかったのだ。

 必死に妃教育を受け、魔法を使えることを、あるいは使いたいことを隠す。悪辣な行為でわたしを妃の座から排除しようとしてくる使用人から身を守り、一人孤独に戦わないといけない。


 ああ、だめだ。

 考えるほどに怒りがこみ上げる。

 今更何の用だと、そう罵声を浴びせたくなる。


 ゆっくりと戦慄いた唇は、けれど言葉を発することはできなかった。


 だって、殿下がわたし以上に百面相をしていたから。

 まるで必死に現実に折り合いをつけているよう。

 その目は、わたしから離れない。ただじっと、わたしの顔を見ていた。


 氷のような、揺らぐことを知らない目をしていると思っていた。

 敵には容赦せず、自分が興味関心を抱かないものにはとことん冷たい、そんな目。

 その目で、わたしに対応したあの氷の王子様はどこへ行ったというのだろうか。


「……殿下、わたしの顔に何かついていますか?」

「あ、いや。何もついてはいない」


 じゃあどうして穴が開くほど見つめてくるのか。

 問いかけたい思いはあったけれど、今は彼女のことを優先しようと思う。

 椅子から立ち上がろうとして、体が揺れた。慌ててテーブルに手を突けば、乗っていたカップが音を立て、天板に琥珀色の飛沫が飛んだ。


「……おっと?」


 ああ、思った以上に上体が悪い。

 膝から崩れ落ちるように地面に足をつけて、倒れる女性へと手を伸ばす。

 その体が震えているような気がしたのはわたしの勘違い。震えているのはわたしのほうだ。


 彼女の頭部はポッコリと腫れていた。

 のけぞるようにして後頭部から倒れたのだから仕方がない。


 患部に軽く触れて、思ったよりも大事には至らなさそうだと胸をなでおろす。

 それが緊迫感を切り破る一助になったのか、殿下がゆっくりと口を開く気配がした。


「どういう状況だ?」

「……いろいろあったというだけです」


 いつの間にか側に来ていた殿下がわたしを見下ろしていた。

 その目には、気のせいでなければわたしへの関心があった。熱があった。


 その目は、怒りに、困惑に、あるいはわたしの知らない感情に揺れていた。

 氷を思わせる水色の澄んだ瞳は、陰になっているせいか、やけに険のあるように見える。


 そうして、殿下を見上げながらふと心に疑念がわく。


 そもそも殿下は、わたしが誰だか気づいているのだろうか、と。


 今の殿下の反応は、少なくとも妻を前にしたそれではないと思う。

 殿下はわたしに関心がない。それは事実だ。初夜どころか、王城に入ったわたしのところに、殿下は一度たりとも訪ねてきていない。貴族たちへの顔見せも必要だろうに、その気配もない。

 殿下がわたしが妃であることを嫌っている、あるいはどうでもいいと思っている。

 それはわかっていて。

 けれど今更ながらに突き付けられたは、わたしの心に茨のように絡みつき、無数の棘が突き刺さった。


 さて、そんなことよりもこの状況をどう話すか。

 意識を失った使用人の頭を膝の上に乗せながら必死に考えるわたしをよそに、殿下はテーブルの上にある紅茶へと顔を近づけていた。

 一瞬にして思考は真っ白になった。


「あ、飲んではいけません」

「……ああ、やはり毒か。麻痺系だな」


 殿下が顔からカップを離したのを見て、安堵に深いため息が漏れた。ここで殿下が一口でも口に含んでいれば話はもっとややこしいことになっていただろうから。場合によってはわたしの極刑だって……まあ、過ぎたことだ。

 それより、においで分かったのだろうか。

 確かに紅茶に含まれているこの毒草の成分は少しだけ刺激臭がする。だからわたしは飲む前に気づけた。


 つまり、わたしの使用人の中で最も立場が低い彼女は、命令されてわたしに毒を盛ったということ。

 一応は妃であるこの身に毒を盛るーーその覚悟は、彼女には明らかに足りなかった。


「……その使用人は、よほど毒に耐性がないのか?この程度の毒で失神するか?……今すぐに応急処置がいるか」


 ああ、見当違いな問いかけだ。

 毒見をして倒れていると思ったのだろうか。まあ、一見そう見えるし、そう考えるのが最も自然だろう。

 ちらと視線を向け、白目をむいた顔から眼をそらしながら思う。やはり、毒に驚いてひっくり返った可哀そうな生き物に見えて仕方がない。というか怖い。


「いえ、その必要はありませんよ」

「なぜだ?使用人の命など関係ないということか?」


 顔が怒りに染まる。

 認めたくないと、そう言いたげにこぶしが固く握りしめられる。

 そのこぶしを、わたしにふるおうとしているのだろうか。


 わたしの心は、ますます殿下から遠くなるばかり。


「いえ、そうではなく、そもそもこの子はそれを飲んではいませんから」

「…………ではなぜそいつは倒れている?」


 まず、虚を突かれたような顔をして。

 苦虫を噛み潰したような様子で尋ねてくる。


 おかしな反応に突っ込みを入れたいところだけれど、それよりも、わたしに対するあたりが強すぎないだろうか。

 わたしは「使用人なんて人間じゃない」とか思ったりするような傲慢な女性ではないつもりだ。そもそもこの使用人のほうがわたしより立場が上だったはずなのだし。


 思わずため息が漏れた。

 ぴくりと殿下の眉が揺れる。視線が痛い。


 コホンと咳払いした殿下が汚れることをいとわずに地面に膝をつける。這うように伸びた手が使用人の首に触れる。

 心配しないでも別に毒を飲んではいないと言っているのに。


「無事か……もう一度聞くが、何があった?」

「そうですね、わたしが毒入りの紅茶を飲んだら彼女が失神しました」

「っ……どういうことだ?」


 さすがにこれではわからないか。

 現場を押さえられてしまったわけだし、言い逃れは難しそうだった。だとすれば、どうやってこの子の罪をなくすかを考えるべきかもしれない。


 ……この子、という表現は不適当だろうけれど。

 そういえば名前は何だっただろうか。

 ああ、これでは殿下のことをとやかく言えないかもしれない。


「まず、わたしはその紅茶に毒が入っていることを知っていました。そして、それはこの子も同じです」

「互いに毒入りだと知っていた……知っていて、この使用人はお前に飲ませたのか?」

「ちょ、殺気を収めて下さい」

「……続けろ」


 ええ?どうしてそう不機嫌なの?

 おかげでわたしの膝の上で使用人がさらに泡を吹いている。もうわたしは今後、彼女を淑女として見られないかもしれない。

 まあ?魔物と対峙した恐怖がそよ風のように思えるほどの殺気をあてられたのだから仕方ないかもしれない。

 わたしも、毒とは別で少し体が震えている。


「紅茶の毒は、おそらくは彼女が入れました。……強制されてのことでしょうけれど」

「……身分か。使用人が使用人を使うとは、世も末だな。こんな奴らがはびこっているわけか」

「身分というのは絶対ですからね。わたしも王族の方に命令されれば口答えの一つもなく唯々諾々と従うしかありませんから」

「……誰が命令した?お前を縛っている存在がいるというのか!?」

「ッ、あなたがそれを言うのですかっ!?」


 思わず声を荒らげてしまった。

 言ってから後悔した。目の前の男は、この国の王子なのだ。

 アヴァロン殿下の前で、私は吹けば飛ぶような存在なのだ。


 でも、言わずにはいられなかった。あなたが、お前が、それを言うのかと。


 わたしだけは、それを言わなければならなかった。


「わたしにこの人生を強いたあなたが、それを言うのですか?」


 殿下は答えない。

 ただ驚愕と困惑をもって、わたしの顔を見ていた。


 ここにきて改めてわたしは確信した。


 アヴァロン殿下は、目の前のわたしが誰か、気づいていない。


 ーー自分の妻の顔を、彼は覚えていなかった。


 ああ、本当にひどい人。

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