第12話 亡霊
*アヴァロン王子視点です*
森で魔物と単独で交戦する女性の姿を見かけるようになった――
そんな報告が、もう数か月前から騎士たちから上がるようになっていた。
騎士によって立ち入りが厳しく制限されているはずの、精霊に見放された土地。
そこは凶悪な魔物が互いを食らいあって成長する場所。手が付けられなくなる前に魔物を討伐することが求められる混沌とした環境だった。
騎士と、あるいは一部の高名な戦士のみが立ち入ることを許される魔物の土地。
そんな場所を女性が一人でさまよい歩いているなどと聞いて、真っ先に私はその騎士の正気を疑った。次に、精霊によるいたずらの線を考えた。
精霊が人に押す烙印としての「精霊のいたずら」とは別に、文字通りのいたずらがある。
精霊はよく人をからかうようなことをする。その一つとして幽霊のような姿を見せて騎士を驚かせたのではないかと私は考えた。
……そういえば、私の妻となったあの女も、当初は己の体に浮かんだ契約の証を精霊のいたずらだと思い込んでいたのだったか。学がなくてもどうとでもなると思っている、頭に中身が詰まっていない女はただただ鬱陶しい。
あの女はもうくたばっただろうか。魔窟と呼べる王城で、一人涙で枕を濡らしているのだろうか。
……どうでもいいことだ。私には関係のない話。
古の契約に従ったに過ぎず、重要なのは私と彼女が歴史にのっとって結婚したこと。以降のことは何も指示されていない以上、たとえ父陛下であろうとも私の方針に指図させはしない。
とにかく、精霊はいたずら好きだ。ただ、同時にひどく飽きっぽい。
それは例えば、妃となったあの女の紋章が、おそらくはすでに何の意味もなかったことが示している。
だから二度三度と同じような報告が上がった時点で、私は精霊に見放された土地をさまよい歩く女は実在すると認めた。これは、飽きっぽい精霊が行っているいたずらではないと判断せざるをえなかった。
白いローブを身にまとった神出鬼没の女。
魔物との戦闘の目撃情報からして、魔法使い。
そして間違いなくこのルクセント王国で生まれ育った民だった。
女は、魔物を殺す際にわざわざ剣やナイフを使ったという。
危険でありながら、魔法ではなく武器での直接の殺害を選んだのだ。
魔法で殺しをしてしまうと、精霊が求める対価が大きくなってしまう。だから、対価を減らしたいからという合理的な考えからの行動かもしれない。
もしくは、己の手で肉を切り裂いて魔物を殺したい狂った戦士である可能性もあった。
少なくとも最も可能性が高いのは、精霊を信仰し精霊に殺しをさせるのを忌避するルクセント王国で生まれ育った人物であるということ。王都の外にある土地での目撃情報なのだから、他国の人間という線は考えにくく、つまりは何もわかっていないと言っているようなもの。
神出鬼没。
ふらりとさまよい歩いては魔物を殺す亡霊のような女。
彼女は気づけば騎士たちの間で
白い衣を身に着け、顔を隠し、森をさまよい歩く女だから
実際のところ、私はいざ出会うまで白衣の女の存在を完全には信じていなかった。
何しろその女は、若くして簡略詠唱をしていたというのだから。
人間とは存在の根本からして異なる精霊に正しい魔法のイメージを伝えるのは困難を極める。だから多くの魔法使いたちは発動の際に言葉を尽くす。
どうとでも解釈できるような言葉は使わず、様々な発動条件を呪文に織り込むのだ。
例えば「距離五十、目の前の魔物の頭蓋へ炎の矢を放つ。矢の大きさは長さ一メートル、着弾まで三秒、飴玉三個分の火力で頼む」といった感じだ。
いや、魔法使いというのはどうにもロマンティストが多いから実際はもっと詩を歌うような詠唱が多いが、それはさておき。
高名な魔法使いが人生をかけてようやく精霊にイメージを汲み取ってもらえるようになるというのに、その女は若くして精霊と完璧に意思疎通をしているような様子だったというのだ。
だから、私は女が実在しない可能性を心のどこかで考えていて。
けれど、そんな非現実的な女は、現実に存在した。
崖の上から現れ、精霊に風の加護をもらって落下速度を殺しながら岩肌を蹴って降り立った女は、まさに亡霊のようだった。
その声が若い女性のものであることに驚き、さらにはその女が連れてきた魔物の姿に驚愕した。
無数の魔物を食べて進化を重ねたらしい「悪食犀」――女がそう呼んでいたアレは、精霊に見放された土地の中で生き続けた怪物だった。
現在ここにいる騎士たちで討伐することは困難だと判断し、私は足止めのために剣を振るうことを決めた。
私が先陣を切ることをよく思わない騎士の気配を感じたが、隊列を乱すことなく撤退することが優先だ。
これが最善だった。
いざ共闘して嫌というほどに分かった。
彼女は、非常に優秀な魔法使いだった。
年はおそらくは私とあまり変わらないか少し若いくらい。女性にしては背が高く、肉体もそれなりに鍛えているようだった。
精霊に魔法を頼むその立ち居振る舞いにはどこか気品のようなものが感じられた。貴族……ではないだろう。
この森に何度も足を踏み入れるような貴族がいるとすれば私の耳に入らないわけがない。
多くの人材が集まる王都にあっても、この女は特異な存在だった。
裕福な商人の娘か、元貴族の高名な戦士を親に持つ者か。
考えれば考えるほどに、女に興味がわいた。
逃げるために抱き上げた女の体は、私が予想した以上に軽く、そして柔らかかった。
これが本当に魔物と渡り合う女なのかと、私は腕の中にいる化粧の匂い一つしない女が不思議で仕方がなかった。
わずかに香るのは薬草の匂いばかり。腕の中にあるその熱が幻のように思えてならなかった。捕まえようと手を伸ばすほどに腕の中からすり抜ける、実体のない存在。
そう思ってしまったのは、彼女がファントムなどと呼ばれていたからか。
あるいは、彼女という存在のすべてがそのように演じられ、その姿が私の目に映ったからか。
すぐそばにある女の、フードの下にある顔を見たいと何度思ったことか。
けれどそれをすれば女はもう二度を私の前には姿を現してくれないように思い、ためらった。
そう。躊躇ったのだ。
ああ、笑わずにはいられない。
この国で最も高貴な血を引くこの私が、女性の顔を見るというただそれだけのことを躊躇っているというのだから。
こんな気持ちは生まれて初めてだった。
だから、逃げるように身をよじった女が私の腕の中から逃げ出した時には愕然とした。
私は、嫌われているのだろうか?
確認するように問えば、女は嫌悪感をにじませながら吐き捨てるように告げた。
『……何者でもいいでしょ?』
女の言葉が、ぐるぐると頭の中を回る。
高揚していた気分は乱高下し、無性に苛立った。
どうして私に顔を見せようとしない?
その正体を語ろうとしない?
私は王子だぞ?
この国の次期王なのだぞ?
――ああ、そうか。彼女は、私が王子であることを知らない。
私こそがアヴァロン・ルクセントであることを知らないのだ。
もし、ここで自分の正体をばらしたらこの女はどんな反応をするだろうか。
ひょっとしたら、ほかの女のように目の色を変えて私にすり寄ってくるかもしれない――などと思って。
けれど、なぜだか確信があった。
彼女は、ほかの女とは違うと。
王子という肩書にすり寄ってなど来ないと。
あるいは、王子という立場を知って離れていくと、根拠もなくそう思った。
果たして、彼女は逃げるようにその姿を消した。
魔法を発動して砂嵐の中に身をくらませ、騎士たちは気色ばんで彼女に剣を向ける。
逃がすものかと、一歩を踏みこもうとしたその時。
彼女のフードが、一瞬大きく捲れた。
フードの、奥。大きく見張られたスミレ色の瞳が、私の目に焼き付いた。
――少しだけ、既視感があった気がした。
けれどたぶん、気のせいだ。
精霊の、文字通り「いたずら」に遭ったらしい。
女は「しまった」とばかりに目を見開き、すぐにフードを手で下げて顔を隠した。
そうして彼女は、砂塵の向こうに消えた。
伸ばした私の手は、当然ながら女に届くことはなかった。
砂嵐が収まった後、そこにはもう女の姿はなかった。
けれどこの目に、脳に、女の姿が焼き付いて離れなかった。
精霊とともに生きているような女。
白いローブの裾をたなびかせ、強力な魔法を放つ姿。
零れ落ちんばかりに見開かれた、私だけを映した淡い紫の目。
彼女は、再会を約束してはくれなかった。
けれど私は、私の心は、彼女との再会を望んでいた。
だとすれば、探すしかない。彼女を見つけ出すんだ。
情報収集といえばエインだが、あいつには頼めない、というよりは頼みにくい。
ニヤニヤとした人の悪い笑みを浮かべる彼の顔が見えた気がして、エインに頼るという考えはすぐに消え去った。優秀だが、こういう頼みごとには全く向いていないのがエインワーズ・ナイトライトという男だから。
優秀、だが。
「騎士団長!」
「はっ」
恭しく首を垂れる男を見ながら、私は己の中の感情をもとに言葉を紡ぐ。望みを、口にしようとしてふと考える。
これまで私は、こうして本心を言おうとしたことがあっただろうか。
幼少期にはあったかもしれない。けれど物心ついた時にはすでに私は期待を一身に背負う王子だった。常に王子であらねばならなかった。
こんな自分勝手な望みを、口にしてもいいのか?
けれど、冷静な思考とは裏腹に、悲鳴を上げるように叫ぶ心が私の口を動かした。
「先ほどの女を探せ。淡い紫の目をした、若い女だ。髪は……金髪だったか?」
すぐに行動を始めた騎士団長の背中を見送って、私はもう一度森の奥へと視線を向けた。
おそらくは、あの女が去っていった方向だが、そちらに彼女はいない。
彼女はきっと、王都のどこかにいる。
その、はずなのだ。
もう一度。
もう一度、会いたい。
――会って、私はどうしようというのだろうか?
答えは出ず、答えを出せない己が、なぜだかひどく怖く思えた。
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