第11話 初めての共同作業?
目の前に王子殿下。騎士たちとともに蟻の魔物と交戦中――
状況の理解に数秒。
頭上で激しい物音がして我に返ったわたしはなりふり構わずに叫んだ。
「逃げて!」
けれど、間に合わない。
蟻の魔物と戦闘中の騎士たちがとっさに動けるはずもなく、さらには突然現れたわたしの言うことを聞くはずがなかった。
悪食犀が崖の上にたどり着く。そしてその巨体が姿を見せてようやく、アヴァロン殿下は事態の逼迫具合を理解した。
「総員今すぐたい――」
退避と続く言葉より早く、悪食犀が崖と呼べる段差にためらうこともなく空中に身を躍らせた。
巨体が頭上を覆う。逃げるのは間に合わない。方法があるとすれば――大規模な魔法のみ。
でもどうする?どうやって逃れる?
わからない、わからないけれど、わたしは焦燥のままに叫んでいた。
「助けてッ」
地面が崩落するように激しく揺れて。
次の瞬間、せりあがった大地が巨大な腕となって悪食犀を殴り飛ばした。
「…………は?」
アヴァロン殿下がどこか茫然と声を漏らす。
でも、思考停止したかったのはわたしも同じだった。
視界にあるのは、天を衝くほどに大きな土の腕。
これは魔法だ。でも、魔法にしては規模がでかすぎるし、「助けて」なんて呪文でまともに魔法が成功する方がどうかしている。
精霊との関係を深めた老魔法使いなら可能かもしれないけれど、ただの若い魔法使いにこんなことはできない。
ピリリと皮膚が引きつるような感覚がして、無意識のうちに右手の甲を隠すように左手を重ねていた。
殴り飛ばされた悪食犀が宙を舞い、背中から地面に墜落する。
立っていることもままならないくらい激しく地面が揺れた。
「ッ、そうか、お前が報告にあった
何か恥ずかしい呼び名がアヴァロン殿下の声で聞こえたけれど、言及している余裕はなかった。
窮地を救ってくれた精霊のためにありったけの氷砂糖を放出しながらも、わたしの視線は悪食犀から離れない。
魔物を食らい続けて強くなった怪物が、あの程度の攻撃で倒れるとは思っていなかった。
「逃げるよ、早く!」
「無理だ。今の一瞬で負傷者が複数出た。時間稼ぎがいる。……おい、白衣の女、手伝え」
「……巻き込んだ身だし微力は尽くすけど、甘味が足りない」
「こっちにあるものをすべて使ってくれていい」
そう言いながら投げられた袋の中、ちらと見た先には見た目も美しいガラスのような飴細工がたくさん入っていた。ひょっとしたら、精霊への対価には見た目という評価項目も入っているのだろうか。それともただの殿下の趣味?
ってそんなことを考えている暇はなかった。
体のあちこちから伸びる手が地面を押し、悪食犀が地面を転がる。
起き上がった悪食犀の意識はわたしたちに――特にわたしに向いている。漆黒の目には一切の感情が見られないけれど、その目は確かにわたしを捉えていた。
逃がすつもりはないとばかりに、つぎはぎ肉の手がわたしたちへと伸びる。
「切り裂いて!」
わたしの意を酌んだ精霊が風の刃を生み出し、迫る肉の手を切り刻む。
悪食犀の体に近いほど魔法は無力化されるけれど、逆に体から離れた手には攻撃が通じる。何しろ、伸びる手が糸でつなぎ合わされたような傷があちこちにみられるのだから。
「悪食犀に直接の魔法は通じない!あとすごく早いし手の力が強い。つかまれたら一瞬で死ぬと思って!」
「情報共有が遅い!」
文句を言いながらも、その程度の動きの手につかまる気はないとばかりに殿下が地面を駆け抜ける。
早い。さすが、王子なのに騎士と一緒にこんな危険地帯に来ているだけのことはある。誰も止めないのだろうか。
まあ、王子妃であるわたしの言えたことじゃない。
迫る手を切り払いながら体勢を低くして滑るように走った殿下が、悪食犀の体に剣を振るう。
銀の剣閃が虚空を走り、灰色の巨体に傷を作った。
真っ赤な血を流す悪食犀が怒り狂ったように全身に存在する口から悲鳴を上げる。
大気を震わせるような絶叫に顔をしかめた殿下が飛びのくのと同時に、振り下ろされた悪食犀の腕が地面を砕く。
「チィッ」
飛び散る岩を蹴ってさらに距離をとる。空中でくるりと身をひるがえした殿下の体の真下を、薙ぎ払われた腕が通過する。けれど腕は一本じゃない。上下左右から殿下をつかもうと迫る腕のすべてを空中で避けるのは困難だった。
だから、わたしが、わたしたちがサポートする。
投げられた槍が、矢が、殿下に迫る手のいくつかを貫き、その動きを止める。
そこに、わたしは魔法を叩き込む。
「風よ、吹き荒れろ!テンペストッ」
殿下の足元で渦巻いたつむじ風が、次の瞬間には突風に代わる。迫る腕は無数の風の刃に阻まれて殿下には届かない。
瞬く間に血肉を巻き込んだ風の渦は赤黒く染まり、殿下の姿が悪食犀の目から見えなくなる。
「吹き付けて!」
精霊が風の向きを変える。血肉の霧を取り込んだ鋭い風が悪食犀の全身に吹き付ける。
毛皮が、口が、目が、切り裂かれる。
絶叫が大気を震わせた。
絶命には至らないけれど、負傷した騎士たちが撤退する時間は稼げた。
「逃げるぞ!」
差し出された手を無意識のうちにつかんでいた。
体を浮遊感が襲う。
わたしは疾走する殿下に抱かれて悪食犀から距離をとる。横抱きの体勢で、フードに手をかけて顔を隠しながらすぐそばにいるだろう精霊にお礼の甘味をささげる。
あれだけ量があった気がした飴細工はそのすべてが虚空に消えた。もし残ったら摘まもうと思っていただけに残念だった。
目を切り裂かれたせいか、濃密な血の臭いのせいか、あれだけ執拗にわたしを追いかけてきていた悪食犀が追ってくることはなかった。
森の外延部付近に残っていた騎士たちに合流して、わたしは逃れるように身をよじって殿下の腕から下りる。
氷の王子の鋭い視線がわたしを射抜く。そこには確かな関心があった。その光が、わたしをひどく苛立たせた。
「おい、お前は何者だ?」
「……何者でもいいでしょ?」
ここにいる「わたし」は戦友ではあった。けれど王子妃である「わたし」は殿下のことを受け入れられなかった。
周囲から強烈な殺意が迫るのを感じながら、わたしはただじっとアヴァロン王子殿下をにらんだ。騎士たちがわたしを取り囲むように動く。
殿下が苦笑を浮かべる。
その笑みには、わずかな寂しさと期待と、わたしの知らない感情があった。
そんな彼を前に、わたしの思考は凍り付いたように動かなくなった。
氷の王子だと思っていた。ただすべてに無関心な人間だと思っていた。
血も涙もないと、温かな血が通っていない人間なんだと思っていた。
わたしの中にある殿下の人物像が、刻一刻と音を立てて崩れていく。
凍り付いていたアヴァロン殿下の氷の人物像の先、むき出しになった炎のような熱が、わたしを射貫いて。
「……どうすれば、また会える?」
――強烈な怒りがこみ上げた。
まず、耳を疑った。
再会を、望んだの?あなたが?
二度会った時にもほとんど言葉を交わさなかったあなたが、妻であるわたしに今更それを望むの?
ああ、ずるい。
殿下はわたしの正体を知らないのだ。
もし今、ここでわたしが自分の正体を告げたら、殿下はどんな反応をするだろうか。そのまま興味を示すのだろうか。わたしの正体を知ったことで興味が失せるのだろうか。
あるいは、王子妃でありながら魔法を使うわたしに罵声を浴びせるのだろうか。
答えはわからない。だって、わたしはこれ以上殿下と関わる気なんてなかったから。
今回の遭遇は偶然のもの。
これを機にわたしたちの関係が変わるなんて、そんなはずはない。それは少々夢を見すぎだ。
怒りを、ため息に乗せて吐き出す。
再び吸い込んだ空気が、ほんの少しだけ捨てた
「……精霊よ、風を」
ローブのポケットに入れていた手を持ち上げる。
その手に握っていた胡椒を虚空に差し出す。
精霊との契約の対価は、その精霊の好みによって決まる。そして、あらかじめ対価をささげてから魔法を使ってもらうことで、対価に適合した精霊に魔法を頼むこともできる。
わたしはここ最近の狩りでそう理解した。
手持ちに甘味はないから、先に黒胡椒を提示して、香辛料を好む精霊に魔法を使ってもらう。
手の中にあった木の容器が軽くなる。
中身が消失したのと同時に突風が周囲に吹き荒れる。舞い上がった砂が騎士たちの視界を覆う――その、一瞬。
くすくすと精霊が笑う声が聞こえた気がしたと思ったら、下方からの突風がわたしを襲った。
捲れ上がりかけたフードを慌てて手で押さえたけれど、どうしようもなく視界が開けた。そして、真正面にいた殿下が目を見張る様子をはっきりと見た。
ああ、最悪だ。これこそまさしく精霊のいたずらだった。
砂嵐の中で騎士の間を駆け抜けて森へと走りながら、わたしは先ほどの殿下の姿を思い出していた。
目を見開き、少年のように瞳を輝かせる男の姿が、瞼の裏に張り付いて消えなかった。
もう、殿下が「氷の王子」であるなどとは思えなかった。
けれど、そう思っていないといけない。
だって、王子妃である「クローディア」は、心無いアヴァロン王子を嫌悪しているのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます