第8話 狩り

 久しぶりの森の香りを肺いっぱいに吸い込む。

 草木のにおい、動物のにおい、水気を帯びた土のにおい。

 かすかに吹き抜ける風は花の甘い香りを運び、草が揺れてこすれる音は耳にやさしい。

 心が洗われるようだった。


 妃教育に疲弊し、さらには魔法を禁止されて腐っていた私の気持ちはすっかり上を向いていた。


 すがすがしい気持ちで森の中を歩いていく。

 ここには口うるさくて嫌味ったらしい教育係の女性はいない。わたしに向けて敵意をにじませる使用人もいない。

 わたしは突然現れてアヴァロン殿下の正妃の座をかすめ取った女性だ。

 アヴァロン殿下を狙っていた女性からみれば、わたしはさぞ許しがたい存在なのだと思う。

 そういわれても困るというか、だったらわたしをいじめるのではなく直接王子殿下や国に文句を言って結婚を解消させてほしい。


 多分彼女たちは、わたしが自ら妃をやめたいと言い出すのを待っているのだと思う。

 現に「初夜に何もされませんでしたね?」などとこれ見よがしに言ってきたりする。

 とてもではないけれど王城の使用人の言動にふさわしいものではない。


 そうして感じたことだけれど、この国では意外と、建国神話に語られる契約とそれから続く契約の証を持った女性との婚姻は重要視されていないらしい。

 あるいは、わたしの手の甲にある紋様が本物だとは思われていないか。

 殿下たちの前で偽物ではないかと言わないあたり、彼女たちも心のどこかでこれが本物であると思っているのかもしれない。こうして有無を言わせずにわたしが王家に取り込まれたのがその証だと思う。

 正直、偽物であればいいなと今でも願っているけれど。


 使用人の女性に浴室でこれでもかと全身をこすられた痛みを思い出した。特に、まるで入れ墨を削り落とそうとするように擦られたのは、強く記憶に残っている。

 革の手袋で隠している右手の甲は今も心なしかひりひりする。


 全力でこすれば剥がれ落ちるかもしれないなんて普通考えるだろうか?

 皮がめくれるほどこすられた恨みは大きい。

 いつか復讐してあげたいけれど、方法が浮かばない。


 思わず殺意が漏れた。

 ガサ、と茂みが揺れる。

 顔を出すこともなく、わたしの存在に気付いたその動物は脱兎のごとく森の奥に姿を消した。

 細長い体をしていたから、多分テンか何かだと思う。


 全く狩りに集中できていない。

 せっかくの休暇なのに成果なしで帰るのは嫌だ。

 何より、今日は昼食も夕食もいらないと言ってあるから成果がないと今日は朝食以外何も食べられない。野草で腹を膨らませてもいいけれど、今日のわたしのお腹はジャンクな肉を求めていた。

 適当に焼いた肉にかぶりつきたい。できればおいしい肉がいい。

 脂ののった肉。妃教育の一環で出される、毒見を済まされた冷めた食事じゃない、温かくて、贅沢の髄を凝らしたものではない素朴なーー粗野な食事。

 テーブルマナーに精神を擦り減らすことなく、料理の味だけに集中していられる食卓をこれほど自分が求めることになるなんて、少し前のわたしは想像もしなかっただろう。

 ――食い意地が張っていた過去のわたしはきっと、今のわたしを笑うんじゃないだろうか。


 一度足を止める。目を閉じ、気持ちを落ち着ける。

 耳朶の奥に残る教育係の怒声も、使用人たちの嘲笑の声も、全部わきに押しやる。

 体を森に溶け込ませるように意識を広げる。そうすれば、森はそっとわたしを受け入れてくれる。


 耳を澄ませば、無数の音が世界にあふれていることを確認できる。

 風の音、葉擦れの音。虫の鳴き声、鳥の歌、獣の咆哮。それから、小動物の足音、戦闘音、わたしの呼吸の音。


「……」


 目を開く。

 木漏れ日が目に刺さる。それはまぶしく、けれど痛いほどではない、やさしくあたたかな光。


 なるべく気配を消し、風下から獲物を探して歩きだす。

 足が向かうのは、大きな音がしていた方。


 この森は魔物もいるはずだし、油断は禁物。

 流れる風に、わずかな血の匂いがした。


 魔物か、肉食獣か。

 腰に差した剣の柄に手をかける。

 一応持ってきたけれど、わたしはあまり剣が得意ではない。

 振り回して鈍器のように扱うことはできるけれど、たくさんの生物を食らって強くなった魔物相手にこの剣とわたしの技量では心もとない。

 わたしの戦闘の手段は魔法とナイフだ。

 魔法で相手の動きを止めて、至近距離からナイフで急所を狙う。

 いつもの流れを思い出しながら意識を研ぎ澄ませる。

 そうすればもう、わたしの心に凝るように残っていた現状への怒りも苦しみも、すっかり消え失せていた。


 わずかに早くなる心拍を整えながら、わたしは木の幹を陰にしてその個体を見る。

 茂みの先、葉の奥に赤茶の体が見える。

 それは、大きな鹿の姿をしていた。けれどその目は白目まで真っ黒。

 あれこそ、魔物の特徴。


 深淵のようにすべての光を吸い込んで逃さない常闇の目は無感情な光を帯びている。

 そこには怒りも食欲も何もない。

 基本的に魔物は、目についた生き物を無感情に襲って食らう。本当にただ、それだけの存在なのだ。


 だからこそ、魔物はおよそ生命という枠組みから外れた存在に映り、目にするだけで根源的な恐怖に襲われる。

 魔物によって殺される者の多くは、初めて目にした魔物を前に体が動かずに抵抗できずに食べられることが多いという。無表情で、自分を食べるそのためだけに襲い掛かる魔物を前に、体と心がその存在を拒絶するのだ。


 わたしも、最初に遭遇した魔物に見つかっていたら今ここにはいなかっただろう。

 わたしが初めて出会った魔物はウサギの魔物。その個体は、けれどわたしに気づくことなく、近くで響いた獣のかすかな足音の方へと、文字通り脱兎のごとく走り去っていった。

 そばの茂みに身を潜め、身じろぎ一つとることができずに脂汗を流していたわたしを置いて。


 あの日のことを思い出したからか、握りしめていた掌の中はじっとりと汗で湿っていた。

 それを軽くぬぐい、気持ちを落ち着けるべくゆっくりと深呼吸する。


 鹿の魔物はまだあまり生物を食べてはいないようで、その姿は一般的な鹿とほとんど変わらない。

 動物を食らった鹿は、わずかにその頭部に伸びる角だけが通常の動物とは変わっていた。

 その角は大きく、真っ赤で。そして、静かに脈打っていた。

 まるで血のように。


 多分あの角は動く。

 昔、似たような魔物を見たことがある。


 足元にある血の海には、わずかな毛と臓物の破片が浮いていた。

 あの血の量と飛び散り方からすると、鹿が食べたのはそこまで大きな動物ではなかったのだろう。毛の色から察するに狸だろうか。

 まあ、どうでもいいことだった。


 剣の柄を強くにぎる。

 あの魔物は足を拘束しても角で攻撃してくる。角の拘束はたぶん無意味。

 強敵だった。けれど、だからこそ面白い。


 舌なめずりをする。

 あの魔物は強く、そしてその強さの分だけ美味しいに違いない。

 何しろ、魔物は強いほどに美味しい傾向にあるのだから。


「……風よ渦巻け、土よ踊れ、ブラインドストーム」


 簡略なしのまじめな詠唱。

 基本的に、魔法の詠唱は長いほど正確に精霊にイメージが伝わるとされている。まあ当たり前だ。


 精霊は人間とは違う。基本的にその伝達には盛大なすれ違いが生じる。

 その齟齬ができるだけ小さくなるように、同時に素早く情報を伝えられるのが優秀な魔法使いの証。何度も魔法を使うことで精霊もまた魔法使いの思考の癖のようなものを覚え、的確な解釈をしてくれるようになることもあるという。


 だとすると、同じ精霊が常に同じ魔法使いの周りにいるということだろうか?

 精霊には人間の好みがある?

 あるいは、精霊は個を持たず、すべて同一の個体であるとでもいうのだろうか?


 答えは出ない。というか、精霊を観測できないのだから、どれだけ思考をこね回したところで憶測の域を出ない。

 だから、そんなこと今はどうでもいい。


 発動した魔法は土と風を操るもの。

 砂が鹿の魔物の足を飲み込み、渦巻く風によって舞い上がった砂粒が魔物の視界をふさぐ。

 深い砂に足をからめとられた魔物は動けない。けれど目の前の魔物には動かずとも攻撃できる手段がある。

 わたしの詠唱を頼りに居場所を感じ取ったらしい魔物が、真っ赤な角を砂の檻の奥から伸ばす。木の枝をたやすく貫通した鋭い角はそのまま木の背後へと伸びるけれど、そこにはもうわたしはいない。


 地面を蹴って前へと進む。

 引き抜いた剣を頭上へと放り投げ、上空からの奇襲を狙い、同時に側面から砂が舞う空間へと飛び込む。

 鹿の魔物は少なくとも、まだ片方の角を攻撃手段として有している。あるいは、伸び切った角もその側面から枝分かれして角を伸ばせるかもしれない。

 攻撃を回避しないといけないけれど、砂のせいでわたし自身も目を開けてなんていられない。

 だから耳を澄ます。


 フードを砂粒が打ち付ける音がする。その激しい音の中、空から降る剣が鹿の角とぶつかって甲高い音を響かせる。

 その音に反応した鹿が、上空からの奇襲だと判断して首をもたげる気配がした。

 今がチャンス!


 一跳びに砂海を飛び越え、魔物の首にナイフを突き刺す。


 肉を切り裂く感触があった。

 浅い。

 手に伝わる感覚が、致命傷には程遠いと伝えていた。


 とっさに魔物の体を蹴って上へと飛び上がる。

 体の下を、何かが走り抜ける音が聞こえた。かろうじて攻撃をかわせたことに安堵している余裕はなかった。

 空中。身動きは取れない。

 普通だったら、わたしはこのままなすすべなく魔物の角に体を貫かれる――けれど。


「風よ、刃を飛ばせ!」


 宙を舞っていた剣に、強風が吹く。空中で剣が軌道を曲げる。

 鋭い切っ先が、魔物の眼窩に突き刺さる。


 鹿が悲鳴を上げる。

 首を大きくひねり、その体勢が崩れる。

 わたし目掛けて伸びていた真っ赤な角は、体のすぐ横を走り抜けていった。


 砂は晴れた。

 フードを叩く砂粒の打音が消え、視界が開ける。


 倒れる鹿の魔物の首めがけてナイフを叩き込む。

 血の匂いが肺腑に満ちる。腕を伝わり、もがく魔物の最後のあがきを感じる。


 肉をかき分けるように、深く、深く、ナイフを差し込む。


 ビクリと、魔物の体が大きく跳ねる。

 鹿の角が網のように伸び、鋭利な先端が周囲の枝葉を穿つ。

 けれどその攻撃を予想してしゃがんでいたわたしに、角は届かない。

 頭上を通り過ぎた角は、それ以上伸びることも枝分かれすることもなかった。

 鹿の魔物の角が溶けるように柔らかくなり、血のような液体に代わって地面に広がった。


 わたしは鹿の魔物に勝利した。

 魔法のような不思議な力で角を操る鹿だったけれど、まだ魔物になって日が浅かったのか、その能力は低かった。

 前に戦ったヤギの魔物は、片方の角をあえて切られ、それを遠隔で伸ばして奇襲を仕掛けてくる油断ならない個体だったから、比較にもならない。


 そのことを思えば今回の魔物は戦いやすかった。

 もっとも、それは肉の味が想定を下回る可能性があることを意味するのだけれど。


「……美味しいといいけれど」


 命をいただくことへの感謝の祈りを捧げ、わたしはさっそく解体作業に臨んだ。

 今はただ、血の滴るこの魔物の肉にかぶりつくことだけを考えていればいい。

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