第9話 脱走の謳歌

 鹿の魔物を倒して早速解体――と行きたいところだったけれど、まずは精霊との契約を終わらせる必要がある。


 背負っていた袋から取り出したドライフルーツをささげようとして、なんとなく足りない気がした。

 少しだけ迷った末に、好みのものを持っていくだろうと思って、塩と胡椒を詰めておいた木の容器を取り出す。


 地面に膝をつけ、首を垂れて恭しく捧げものを差し出す。

 虚空に、わずかな気配を感じた――気がした。

 手の中にあるものの感覚は消えない。果実も、木の容器もそこにあった。


「……おお」


 ただ、胡椒の容器の中身がひどく軽かった。

 中を見れば、ぎゅうぎゅうに詰まっていたはずの黒胡椒の粒が半分ほどに減っていた。それをすべて精霊が持って行ったらしい。

 久しぶりの変わった精霊だった。

 というか、わたしはこんなにはっきりと精霊の趣向を感じることができただろうか?

 できたような気がするようなしないような……


「まあ、とりあえずは血抜きをしないとね」


 美味しいお肉のためには妥協なんてできない。

 その前にもう一度精霊に頼んで砂を土に戻してもらう。

 戦いの痕跡を残すなんて駄目だ。しかもこんな落とし穴じみたものを残すわけにはいかない。


 ロープで四肢を縛って魔物を木につるす。首の血管を切って、地面に掘った穴へと血を流し込む。

 穴は魔法で掘った。

 臓物を穴に入れ、革を剥ごうとしてふと気づく。革を丁寧に剥いだところで売る先がない。きちんと加工しなければ、この時期では長く置いておくこともできずに腐るだけ。


 せっかくの大きな鹿の皮だけれど捨てるほかなさそうだった。

 それを言えばこの鹿の魔物の肉だって、わたし一人ですべてを消費できそうにはないのだけれど。


 まあ、ここに放っておけば魔物か肉食獣が食べるだろう。

 きちんと自然のサイクルの中に変えるのだから、この死にはちゃんと意味があったはずだ。

 少し申し訳なさを感じつつ、もう一度鹿の魔物に両手を合わせておいた。


 さっくりと解体を終え、ふくらはぎの肉を骨から外す。

 肉に塩と胡椒を刷り込んで近くに生えていた葉で包む。

 剣を回収してから移動する。血臭が立ち込める場所で食事をする気に離れないし、警戒が面倒だった。


 移動先、開けた広場のようなところを仮拠点に決めた。

 太陽は高く昇っていて、お腹が小さな音で空腹を主張する。周囲に人がいれば赤面ものだけれど、ここにいるのはわたし一人。解放感と清々しさも相まって、なんだかおかしくて笑ってしまった。

 妃教育の真っ最中の人間が森で大きなおなかの音を響かせている。なんて、わたしをまともな妃にしようとしている教育係の鼻を明かしたような気分だった。


 魔法によってつけた焚火で、鉄串に刺した肉を焼く。

 ああ、本当に魔法は便利だ。

 便利だけれど、精霊信仰のせいか、わたしはあまり魔法を魔物や動物を殺す最後の一手として使う気になれない。

 だから、基本的に生き物を殺すのはナイフや剣で行う。人によっては甘いというのかもしれないけれど、意外とこの戦法には意味があるのではないかと思っている。


 何しろ、魔法で生き物を殺した場合、その後の対価が跳ね上がるのだ。多分、精霊は生き物を殺すのが嫌いなのだろう。だから、嫌いなことをやった代わりに、対価をより多く要求する。

 昔のわたしにはそんな手持ちはなかったから、必然的に自らの手で獲物を仕留めるようになった。


 わたしも、王国に大きな要求をしようか。

 いかにわたしにとって魔法が大きな存在であるか、魔法を使えないということが呼吸できないことに等しいのだと。

 そうして、魔法を使えない息苦しさを感じながらも妃として形ばかりの仕事をするから、せめてもう少し融通をきかせてほしいと。

 融通ーー考えてみたけれど、特にほしい対価は思い浮かばなかった。

 せめてもっとまともな結婚式にしてほしかったとか、妃になんてなりたくなかったとか、そんな過去のたらればばかりが頭によぎる。


 いけない。

 せっかくの肉祭りだというのに、暗い気持ちで食べては肉に申し訳ない。

 空いている方の片手で頬を張る。ローブについた砂を払って、剣とナイフを布で拭って鞘に納めた。


 ぼろ布を敷いて腰を下ろし、炎に炙られる肉をじっと見つめる。

 生木がはぜる音が大きく響く。

 肉が少しばかり煙臭くなりそうだったけれど、わざわざ乾いた薪を選んで拾い集めるのは面倒だったから仕方がない。


 立ち上る甘い脂のにおいが食欲を誘う。

 やっぱり魔物の肉はいい。ただの動物ではこうはいかない。

 魔物の肉はどれも、動物とは比較にならないほどおいしいのだ。


 鉄串をくるくる回しながら焼けるのを待つ。

 その間も周囲への警戒は怠らない。何しろここは、精霊に見放された土地らしいから。


 精霊が見放したという割に普通に魔法が使えているけれど、多分そういう理由で名前が付けられたわけではないのだろう。

 推測になるけれど、古の契約が関係しているのではないかと思う。

 民の守護を求めた契約の範囲から外れた土地、ということではないだろうか。あるいは契約に組み込めない問題のあった場所。


 あながちこの推測で間違っていない気がした。


 枝葉が風で鳴る音を聞いているうちに肉が焼けて、わたしはためらうことなくかぶりついた。

 一口噛んだ瞬間に肉汁があふれ出す。甘くて旨味が強い。

 ただ、火傷しそう。


「熱!?」


 鹿時代が長かったからか、肉食の魔物には考えられないようなほのかな木の実の香りが肉にこもっていた。


 火傷しそうになりながらも、空腹というスパイスがわたしを突き動かす。

 止まることなく一本目の串を食べ終え、次の肉を串に刺して焚火に戻す。

 丁寧に焼いて、焼きあがったらすぐにむさぼるように食べる。

 ほのかに香るナッツの風味のある鹿肉は、言葉にならないほどに美味だった。


 お腹いっぱいで満足できたころには肉はほとんどなくなり、焚火はすっかりその勢いを失っていた。

 太陽はまだ高い。けれど何かをしようという気にはなれない。


 あまり安全ではないけれど、わたしは降り注ぐ温かな陽光を全身に浴びて日光浴を――


「暑い!」


 全身から汗が噴き出していた。

 結婚だ妃教育だと過ごしているうちに、季節はすっかり夏真っ盛りになっていた。

 そういえばあの初夏のお茶会からずっとアマーリエに会えていない。彼女は今頃結婚式の準備に忙殺されているのだろうか。


 アマーリエの結婚式に行くことはできないだろうか?

 無理な気がする。

 まだ王子妃としての礼儀作法だってろくに身についていないし、貴族の慣習なんかは全くわからない。どこで盛大にやらかすか分かったものじゃない。

 そう考えるとかごの中の鳥のような今の王妃生活を続ける方が、多少はましな気もする。


「ああ、魔法が使えない時点で、ましでもなんでもないよね。本当、最悪……」


 汗でじっとりと湿ったローブを引きずるようにして木陰へと移動し、氷砂糖を対価に捧げて精霊に風と土の操作をお願いする。

 一瞬にして焚火の痕跡がきれいさっぱり消え去り、周囲に満ちていた肉が焼けるにおいもどこかに行った。

 とはいえさすがに衣服や髪に染み付いた煙の臭いは取れない。

 服に鼻をあてて臭いをかぐ。


「……臭い、のかな?」


 マヒした鼻では判断がつかないけれど、使用人たちに脱走が疑われないように最善を尽くすべきだろう。


 このままうたた寝したいところだったけれど、そもそもこの辺りは危険地帯だ。

 ひとまず水辺で髪や服を洗うべきところだろうか。


 夏を謳歌するセミの合唱を聞きながら、わたしは水場を求めて歩き出した。


 そうして、わたしの気晴らしのルーティーンが決まった。

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