第7話 王族と魔法の禁止
かつて、ルクセント王国の王女が隣国に嫁いだ。それ自体はよくある話だ。
その一件において変わっていたのは、嫁いだ王女がルクセント王国史上類を見ないほどの魔法好きであったという点。
目には見えない精霊に言葉を投げかける王女の姿は、ルクセント王国においてはひどくほほえましいものだった。
毎日起きたら精霊に朝の挨拶をして、食事のデザートを精霊に捧げ、読書の合間には答えが返ってくるわけでもないのに気になったことを精霊に尋ね、精霊にお風呂の湯加減を聞き、精霊に挨拶をして眠る。
それは、精霊信仰の盛んなルクセント王国においては何も珍しいことではなかった。
彼女ほどではないが、多くの民が生活のなかで精霊に祈りを捧げ、あるいは精霊の存在を感じて生きているのだから。
精霊は確かに存在する。
虚空に消える甘味がその存在を証明している。
精霊の存在は、世界どこでも認められている。
ただ、それが信仰の対象であるかどうかは、その風土によって違う。
王女が嫁いだ先の王国では、精霊は信仰されていなかった。
その国では、魔法は武力の証だった。人殺しの術だった。他国を侵略して国土を広げるための力だった。
そして精霊とは、魔法を使うための歯車に過ぎなかった。
その国において、精霊への信仰は芽生えなかった。精霊は目に見えない道具でしかなかった。
だから、精霊とともに生きるルクセント王国から嫁いだ王女は、その国において異端だった。
彼女はいつだって白い目で見られた。精霊ごときに何を祈っているのかと、心無い言葉が彼女を傷つけた。
精霊に祈る彼女を、夫である公爵はたしなめた。
精霊など祈るなと、そう命令した。
夫を立てるべく、彼女は精霊への思いを押し殺して生きるようになった。
そこから、地獄が始まった。
その国で暮らし、その国のものを食べ、その国に染まっていく中、王女はいつからか声を聴くようになった。
それは、泣き声であり悲鳴であり慟哭だった。憤怒や憎悪をはじめとする、この世のあらゆる負の感情を煮詰めたようなどす黒い思いに染まった声。
それが精霊の悲鳴であるという結論に至るのは、ルクセント王国の王女である彼女にとっては当たり前のことだった。
人を殺させられている精霊の、救いを求める叫び。
狂いそうな声を聴く彼女は、精霊を酷使するあり方を改めるよう、夫や国王に求めた。
だが、たかが小娘一人の言葉で、国に染み付いた価値観が変わるわけがない。便利道具としての精霊の見方を変えられるわけがない。
国民に染み付いた常識を変えるなどという、そんな面倒なことはできなかった。
声は強くなるばかり。
聞こえてくる声はますます王女の心を傷つけ、苦しめる。
だが、誰も王女を心配せず、それどころか聞こえもしない声を聞いているという彼女を気味悪がった。
王女は、少しずつ心を摩耗させていった。
誰も、自分の言葉を真剣に取り合ってくれない。
どうして、誰にもこの怒りの声が聞こえないのか。
どうして、精霊に人殺しをさせるのか。
精霊の声に染まり、王女は狂気を身に宿した。
それはあるいは、信仰が生んだ怪物だったのかもしれない。
彼女は鍛え上げた魔法という力を手に、精霊を貶める者たちを殺した。
夫を、国王を、貴族を、騎士を、殺していった。
それは本末転倒な行為だった。精霊を救うために精霊にその手を汚させる、唾棄すべき手段だった。
けれど、とうに狂っていた王女は止まらなかった。
まるで、狂った精霊が乗り移ったように、彼女は凶行に及び続けた。
彼女が討たれるまでに王国のかじ取りを担える者は死に絶えた。
首脳陣が消滅した侵略国家は瞬く間に周辺諸国に信仰され、国土を奪われ、ついには国が消えた。
領土を増やした王国の怒りの矛先はそのまま周辺諸国へ、あるいはルクセント王国へと向き、戦火は大きく広がった。
その戦いにルクセント王国が負けることはなかったが、火種を作った国として、あるいは狂った王女を生んだ国として、近隣諸国から大いに批判を浴びた。
以来、ルクセント王国では、他国に嫁ぐ可能性の高い王族の女性は魔法を使ってはいけないというルールが設けられた。そしてその決まりは次第に範囲を拡大させ、ついには王家に連なる女性すべてが魔法を使ってはならないとされるようになった。
王家に連なる者――王子妃となったクローディアとて、それは変わらなかった。
いくつもの本が積み重なる埃っぽい部屋に凛とした、けれどねばつく悪意を秘めた女性の声が響く。
「同じ過ちを繰り返さないために、ルクセント王国の王族の女性は魔法を使ってはならないのです。そしてクローディア様には、王女様方にその手本を示していただかなければなりません」
黒い塗装の施された金属フレームの眼鏡をくいと上げた女性が、教科書に指を突き付けながら叫ぶ。
唾を飛ばす勢いの女性を、わたしはひどく冷めた思いで見つめていた。
わたしにとって、魔法とは生きがいそのものだった。
お母さま曰く、わたしはわずか生後一か月で始めて魔法を使ったという。それは魔法と呼んでいいかもわからないそよ風のようなものだった。
けれど、家の中で突然風が吹くわけがない。
お母さまはあわててわたしに果実を握らせ、精霊に対価をささげさせたという。
そんなわけで、物心つく前からわたしは魔法とともにあった。魔法はわたしにとって手足のようなもの、あるいは呼吸をするような、当たり前に行う、行わなければならないもの。
その魔法を禁止されて、はいそうですかとうなずけるほどわたしは物分かりがよくなかった。わたしにとっての魔法は、それほど価値が低いものではなかった。
もし、これが望んだ結婚の末に訪れた現実だったら、わたしの考えは違ったかもしれない。
愛する人と結ばれる代償として魔法の行使を制限されたのなら、仕方がないと諦められたかもしれない。
「わかりました」
そう言いながら、わたしは内心で舌を出す。
わたしは確かに次期王妃なのかもしれない。けれどお飾りの王妃だ。
何しろ、この教育係が語っていた。
『貴女は契約の証を宿していたから仕方なく王子殿下の妃として召し抱えられただけであり、その温情にむせび泣きなさい』と、そう告げていた。
お飾り。
確かにその通りなのだと思う。ちゃんとした妃であれば、あんな形式だけの婚姻にはならない。
式らしい式もなく、ただ誓いを口にして書類に署名をするだけのあれは結婚式ではない。
教育係曰く、王族の結婚式ともなれば国を挙げて行わなければならないのだという。
つまり、先にその義務を放棄したのは王子殿下、あるいは国の方。
だからわたしにはもう、魔法の使用をとどめるだけの心理的な障壁はなかった。
どうしてわたしが、幸福とは程遠い結婚を強制的にさせられてなお、殿下や陛下を慮って魔法を使わずにいられようか。
口やかましい教育係の言葉を聞き流しながら、わたしは頭の中で計画を練る。
今わたしがいる王城は、王都の端に位置している。
王城は文字通り王の城であり、魔物から街を守るための砦であり、緊急時に国民を守るための避難所でもあった。
無骨な王城の外には、木々が鬱蒼と生い茂る森が広がっている。
そこは精霊に見放された土地と呼ばれているらしい。その土地にはびこる魔物という怪物から民を守るために、初代国王はこの場所に国の中枢を作ったという。
魔物――それが何なのか、詳しいことはわかっていない。
魔物は、基本的にそこらにいる動物や植物と同じ姿をしている。ただ、魔物は繁殖せず、気づいたらその数を増やしている。
だから一部の者は、魔物は何らかの外的要因で進化した動物ではないかと語っている。あるいは、何らかの要因によって出生前にあり方がゆがんだ元動物。
けれどいくら研究しても動物が魔物に代わることが証明されず、その仮説が真実だとはいまだにわかっていない。
わかっているのは、魔物とは文字通りの怪物であるということ。
魔物は、目につく動くものすべてに襲い掛かる。
それは同胞であるはずの魔物相手であっても変わらない。
その身に牙を突き立て、全てを食らい、魔物はどんどん異形と化していく。
そうして大型化した魔物は最初の姿とはかけ離れ、おぞましい怪物となってさらに動く者を食らう。
大型化した魔物の討伐は人類にとって急務であり、そのための戦力を整えることが国に求められる最大のものだった。
そんな魔物から人類を守るために交わされたであろう古の契約が、今のわたしの人生を縛っている。
かつて世界にあふれていた魔物から民を守るために、初代国王陛下は精霊と契約し、めぐりめぐって今、わたしの手の甲に契約の証が存在する。
そう考えると、何やら因縁を感じなくもない。
つまり、わたしは魔物を倒すべきだということだ。
精霊がわたしにそう求めているのかもしれない。
きっとそうだ。
そんな風に自分に言い聞かせ、わたしはその日、体調が悪いから休むと側仕えの使用人を退出させた。そうして、与えられた部屋に一人閉じこもった――ふりをした。
「さて、久しぶりの狩りね」
武装は十分。
今日という日のために、城のあちこちから装備品や甘味をちょろまかしてきてある。
真っ白な魔物の皮のローブに黒の革鎧。腰には騎士の統一装備のナイフや剣。
背負う麻袋には解体用のナイフと鉄串、コンパス、ぼろ布、ロープ、水袋、塩や胡椒、精霊用のドライフルーツと氷砂糖。
計画は完璧だった。
城周りの見回りが意外とずさんなことなどもわたしはすでに知っている。
鏡に映る自分の姿を確認してから、わたしは深くフードをかぶって顔を隠す。
ベッドの足に括り付けたロープを伝って、王城三階の窓から脱出した。
誰も、わたしの脱出に気づいた様子はなかった。
城の外壁、出っ張った柱の陰に垂れ下がるロープを隠し、わたしは目の前に広がる荒野を踏みしめ、その先、広大な森へと足を踏み入れた。
自由がそこにあった。
魔法を使うことが許された世界。
窓の外から見えるばかりだったそこは、確かにわたしを迎え入れてくれた。
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