月にだって、教えてあげない
八星 こはく
私だけの、秘密ですから
明日、最愛の主人と共に、私はこの屋敷を出て行く。
彼女は、会ったこともない男と結婚するのだ。
「ジゼル、もう支度は終わったわ。貴女も、明日に備えてゆっくり休んで」
私を見て、主人が穏やかに微笑む。けれどその笑みはいつも通りのものではない。
生まれ育った家を出て行くというのに、主人の荷物はとても少ない。中流階級の平民でも、きっともっと多くの荷物を持っていくだろう。
薄桃色の髪に、濃いピンク色の瞳。
誰よりも可愛らしい顔立ちをしたこの人は、幼い時から格上の家に嫁ぐためだけに育てられてきた。
ベル・フォン・ルグラン。それが主人の名だ。
ルグラン子爵家の次女である。
ルグラン家は貴族とは名ばかりの貧乏な家で、使用人も私の家族だけだ。
そんなルグラン家にとって、ベル様は希望の星だった。
彼女の美貌を使って格上の家に嫁がせる。
上手くいけば金銭的な援助も得られるだろうし、ベル様が子を産めば、ルグラン家と婚家との縁は深くなる。
吐き気がする。
当主様も奥様も、ベル様を人間として見ていない。
家を繁栄させるための道具としか思っていないのだ。
「そんな顔をしないで、ジゼル」
ベル様が、そっと私の手を握った。
細い指は、わずかに震えている。
「旦那様はいい人かもしれないわ。持参金も持たないわたくしを受け入れてくれるだけじゃなくて、支度金までくれたんだから」
「……だと、いいのですが」
持参金がないことを伝えると、ベル様の婚約者であるデュボア伯爵は支度金としてお金をくれた。
しかし最悪なことにその大半は当主様に没収され、ベル様は新しいドレスを一着買うことしかできなかった。
「それになにより、伯爵様は、貴女を連れていくことを許してくれたわ。
お父様もお母様も。……それだけで十分よ」
そんなの、使用人を一人減らしたいだけでしょう。
そう言ってやりたい気持ちもある。けれど口にしたところで、主人を困らせてしまうだけだ。
ベル様と同い年の私は、小さい頃からベル様付きの侍女として働いてきた。
ベル様がいなくなれば、私もいらないというだけのことだろう。
「デュボア家は立派な家よ。貴女もきっとたっぷりお給料をもらえるわ」
お金なんていらない。私は、貴女といられたら、それだけでいいのに。
「ここより、ずっといい暮らしができるのよ」
でもその代わりに、貴女は好きでもない男に抱かれるのでしょう。
そしていつかは、その男の子を孕むのでしょう?
考えただけで吐き気がする。けれど私には、どうすることもできない。
彼女を連れ去って、どこか遠くへ逃げられたらいいのに。
何度そう願っただろう。でも、そんなもの、ただの夢だ。
女二人で駆け落ちしたって、幸せな生活なんてできない。
身体を売って生きていくくらいしか、生きる術はないだろう。
だからきっとこれが、一番いい。
本当に伯爵様がいい人で、ベル様を大切にしてくれるかもしれない。
そうすればいつか、ベル様も伯爵様を愛するようになるかもしれない。
「わたくしはもう寝るわ。おやすみなさい、ジゼル」
そう言うと、ベル様は私の肩を強く押した。
出て行け、ということだろう。
「はい。おやすみなさいませ、ベル様」
◇
部屋を出て、扉の前に立つ。
動かずにじっとしていると、中からベル様の泣き声が聞こえてきた。
どうして私は、泣いているベル様を抱き締めてあげられないのだろう。
私が男に生まれていたら……私が、裕福な家に生まれていたら!
そうしたら、彼女を泣かせることなんてなかった。
小さい頃から、ずっとベル様が大好きだった。
どんなに辛いことがあっても、ベル様はいつも私に笑顔を見せてくれた。
わずかな食事しか与えられない時でさえ、私にこっそりパンを分けてくれるような人なのだ。
瞳から涙があふれそうになって、必死に我慢する。
私には、泣く権利なんてないのだから。
◇
しばらくすると、泣き声が聞こえなくなった。
そっと扉を開き、中を確認する。
どうやら、泣き疲れて眠ってしまったらしい。
音を立てないように部屋へ入り、そっと扉を閉める。
ベッドに横たわったベル様の瞼は腫れていた。
ベル様は、どんな気持ちで泣いていたんだろう。
見ず知らずの男に嫁ぐのは、どんな気分なんだろう。
家のために結婚するのは、貴族なら当たり前のことだ。
でも私は貧しい平民の娘だから、納得なんてできない。
「ベル様……」
そっと、彼女の頬に触れる。絹のように滑らかな肌に触れるだけで、心臓が高鳴った。
彼女に気持ちを伝えたことはない。そんなことをしても、きっと彼女を苦しめるだけだ。
私たちはどうせ、結ばれることがないのだから。
ああ、どうか、伯爵様がいい人でありますように。
いつかベル様が、彼を好きになりますように。
本当は、彼女に私以外を愛してほしくない。
けれどそれ以上に、彼女には幸せになってほしい。
貴女が私以外を愛しても、私は生涯、貴女だけを愛し続けます。
心の中でそっと呟く。
そして、彼女の唇を指でなぞった。
明日、彼女の唇に、伯爵様は触れるのだろうか。
唇だけじゃない。彼女の全てに、旦那である伯爵様は触れることができる。
嫉妬で気が狂いそうだ。
「ベル様、愛しています」
そっと囁いて、彼女の唇に自分の唇を重ねる。
勝手にこんなことをしてごめんなさい。
でも、貴女の初めてのキスを、どうしても他人に譲りたくなかった。
このことは、私の生涯の秘密だ。
ベル様にだって教えない。
ねえ、伯爵様。
この先貴方がどれほどベル様に触れようと、どれほどベル様に愛されようと、最初に口づけをしたのは私です。
ちっぽけで、しょうもない意地だ。
でも、それくらい許してほしい。
「おやすみなさい、ベル様」
頭を撫でて、部屋を出る。廊下の窓から何気なく夜空を見上げたが、月は見えなかった。
月にだって、教えてあげない 八星 こはく @kohaku__08
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