第四話
魚屋の手伝いを始め、接客の仕事も板に付き始めた時には、町で暮らし始めて三ヶ月が過ぎていた。
その頃にはもう、私の民への侮蔑はなくなっていた。彼らと対等な生活にも馴れ、城を眺めても、あそこで過ごしていたことは遠い昔のように感じた。
町は年に一度の祭りを控えていた。露店を出す商店はいつもの商売に加えて、その準備で忙しくしていた。魚屋の大将と女将も、出すメニューを毎日閉店後に試作していた。この日は昼間から試作をしていて、私と少年が代わりに店番をしていた。
そこへ買い物に来た花屋の女店主が、露店の為に花の絵が入った看板を作りたいが困っているという話を聞いた。
「旦那さんは描いてくれないの? 」
「うちはみんな絵心がないのよ。誰かに頼みたくても、周りも
「それなら、私が描こうか?」
「本当に?」
「絵はよく描いてるから得意だ」
「兄ちゃん描けるんだ。なら、描いてもらいなよ!」
「いいのかしら。お店の手伝いもあるんじゃないの?」
「大丈夫だ。手伝いの合間にできる」
「じゃあ、お願いしようかしら」
そういう訳で、看板の制作を引き受けた。
絵は昔から趣味で描いていたが、町に来てからは全く描いていなかった。しかし、引き受けた以上は責任を持とうと、制作を始めた。
看板用の板を用意し、筆やペンキは塗装屋に借りた。ペンキで色を塗るのは初めてだったが、花屋のリクエストを聞きながら一日で完成させた。
「できたが、これでいいか?」
「まあ、とても上手! 目を引く素敵な看板になったわ。ありがとう!」
白や赤の花の絵で彩られた看板を見て、女店主は笑顔で喜んでくれた。
この時私は、感謝されるという初めてではない状況に戸惑った。身体が、と言うより、心がくすぐられるような。
そして、何か感じたことのないものが沁み入っていくような感覚だった。
(こんな笑顔で『ありがとう』なんて、初めて言われた……何だろう、これは。今まで感じたことがない)
翌日になると、私が描いた花屋の看板が町中で評判になった。いつも通りに描いただけなのだが、そんなに噂になるほどだったかと私は首を傾げた。
その評判を聞いた大将は、私にあることを提案してきた。
「私も露店を?」
「こんだけ評判になる絵を描けるってことは、それだけの才能があるってことだろ。売り物として描けば、ほしいってやつもいるかもしれないぞ」
「父ちゃんいいこと言うじゃん! 兄ちゃん、描いてみなよ。オレも兄ちゃんの絵、売れると思う。それに、いつまでも居座ってもらっちゃ困るしね」
「追い出したいだけなのか」
「冗談に決まってるだろ。でもさ、やってみなよ。仕事にできるかもしれないじゃん!」
「仕事……」
少年の言う通り、いつまでも魚屋で居候する訳にもいかないし、受け入れた自分の身体でできることを知っておかなければならない。
しかし本当に商売になるのかと、その言葉は信じていなかった。信じていなかったが、やってみないことはないと、私は露店用に絵を描くことを決めた。
紙や絵の具など画材は多少持っていたが、それだけでは足りなかったので、町に来た時から全く使っていなかった金と、魚屋でもらった僅かな給料で画材を買い揃えた。
祭りまでそんなに日はなかったから、手伝いの合間や寝る前などの時間で、当日までに描けるだけ描いた。
そして、祭り当日がやってきた。
商店街や広場に色とりどりのランタンが吊るされ、様々な露店が並び、町の人々で賑わった。広場では器用に楽器を演奏したり歌ったり、きれいな衣装を纏う女性たちが踊っていた。まるで、民たちのエネルギーが開放されているようだった。
私はというと、商店街の片隅で広げた布に二十枚の絵を置いて、一人で売り始めた。
(描いてはみたが、私の絵なんか本当に売れるのか?)
背中を押されて描いたものの、売れる自信はそんなになかった。
他人から見れば上手いのかもしれないが、所詮は趣味だ。もしも私が元国王だと皆が気付けば、瞬く間に売り切れるだろうが、私の素性が知られていないのなら、一枚も売れないという最悪の可能性があった。だからさほど期待もせず、スケッチをしながら黙って座っていた。
そうして時間を潰し、露店をやっていることを忘れかけた頃、杖を突いた一人の老人が私の前で足を止めた。
「……ほう。いい絵だ。お前さんが描いたのか?」
「ああ、そうだ。買うなら言い値でいいぞ」
「ふむ。それなら、これをくれ」
老人は目の前に置いてあった青い鳥の絵を指差し、銀貨を三枚置いてそれを持って帰った。
「あ……ありがとう」
(売れた……)
私は絵と交換された銀貨三枚を拾い、まじまじと見つめた。
小さいサイズのものだったが、売れた。売れない可能性のあった自分の絵に価値を付けられ、偽物の銀貨ではないかと疑った。
そのまま呆けていると、今度は若い夫婦がやって来た。
「見て。素敵な絵だわ」
「本当だ。この城が描かれた風景の絵なんて特に素敵だ。貴方が描いたんですか?」
「そうだ」
「ねえ。これ買って行きましょ。私、気に入ったわ」
「そうだね。いくらですか?」
「言い値で構わない」
「じゃあ、これで」
夫婦は少しサイズが大きめの風景画を気に入り、銀貨五枚で買っていった。仲睦まじく、とても嬉しそうだった。
そのあとも、呼び込みをせずとも時々人が立ち止まり、一枚ずつ買っていった。中には花屋の看板の話を聞いて、私を評判の絵描きだと思って買いに来た者もいた。
私の前から、一枚ずつ絵がなくなっていく。その現象があまり現実味がなく、途中まで夢ではないかと思っていた。
そんな夢心地から覚めかけた頃、私の前に意外な人物が現れた。
「お前は」
「こ、これはこれは……お久し振りでございます」
服装が地味で一瞬気付かなかったが、その者は、かつて私の臣下を務めていた男だった。私たちは互いに驚き、気まずさで視線を外した。
「まさかこんな場所で、こんなかたちで再会するとは思いませんでした」
「それはこっちも同じだ。お前も祭りに来るんだな」
「ええ、息抜きに。それよりも、貴方が何故ここに?」
「見ての通りだ」
「絵の露店ですか。確かに、絵はお得意でしたからね」
その者が現れて、急に自分の心に
次第に夢と現実が混同していく感覚を覚えると、私は次のようなことを口にした。
「……私は城に戻れないんだよな」
「そうです」
「元々、両腕があってもか」
「しきたりですので」
「先王は隠居したままなのだろう? 隣国との国交はどうなっているんだ」
「何とかやっておりますので、お気になさらず」
「未だに国王不在では、まともに国交もできないだろう。考え直して、私をもう一度……」
話をしている途中、近くから赤ん坊の鳴き喚く声が聞こえてきた。私はそれで我に返った。
「今のは気にしないでくれ。今の私に、お前に命令する権限はない」
そこへ、八百屋の店主が顔馴染みを連れてやって来た。
「おっ。ここか! 兄ちゃんの噂を聞き付けて来てやったぞ!」
「では。私はこれで」
彼らが来ると、その者は何も買わずに去って行った。
はつらつとした知り合いと話し始めると、心の靄は消え、私は現実に戻った。
その後も、道行く人が時々足を止め、私の絵を褒めては買って行った。
「どれもいい絵で迷うな」
「言い値だなんて申し訳ない。僅かばかりの気持ちを乗せておくよ」
「祭りの露店でこんな絵が買えるなんて!」
「こんな素敵な絵に出会えてよかった。ありがとう!」
順調に絵は売れ続け、私は何度か夢の中に押し戻されかけた。
やがて、祭りが終わる前に布の上はまっさらになった。私が描いた二十枚の絵が、全て売れたのだ。
両親の露店を手伝っていた少年がやって来ると、その状態を見て驚いた。
「兄ちゃん凄いね! 全部売れたんだ!」
「ああ。私も驚いた」
「でも、どうしたの。全然嬉しそうじゃないよ」
「いや。嬉しいは嬉しいんだ。ただ、こんなにたくさんの笑顔を一気に見たことがなかったから」
私の心は受け取ったことのない量の喜びでいっぱいで、何とも言えない嬉しさが溢れ返りそうになっていて、逆に感情を押し込めてようとしていた。それは、失った左腕が指先まで甦りそうなほどの感動で、身体中に広がっていた。
(出店を勧められて、自分の描きたいものを描いて、いざ売るとなると心配だったが、こんなに手応えがあるとは思わなかった。こんなに喜びの感情で満たされるなんて思わなかった……もしもこれが、仕事にできるなら……)
この祭りでの露店をきっかけに、私はこれまで一切見ようとしていなかった自分の未来を思い描くようになった。自分が描いた絵で、もっと多くの人に感動してもらいたいと。
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