ふたりきりのセッション
三奈木真沙緒
ほぼ会話もない10分間の幸福
スタジオに着いたのは、約束よりも30分も前だった。でも受付の人は高確率で、ドアを開けてくれる。ここは、メンバーのひとりが懇意にしているところだ。オレたちの予約すぐ前が空いていれば、多少早く使い始めても大目に見てくれる。
照明と電源を入れ、持参したベースをつないで、音出しと調整を始める。バイト先から直行してきた。一旦アパートに帰ると今度は遅刻してしまう、というオレの事情は、バンドの仲間もこのスタジオの人も知っている。
ベースを鳴らしながら指をほぐしているうちに、ドアが大きく開いた。
「あれ、今日も早ーい」
柔らかく透明感ある声と、太陽のような笑顔が、中に降り注ぐ。おう、とオレは返事した。この子がボーカルだ。顔立ちそのものは少々きつそうだが、笑顔はあたたかい。そしてたいがい笑顔でいるから、よく見ないときつそうな顔立ちだとわからない。客観的に、きれいな女性だと思う。長くのばしたストレートの黒髪と、白い肌との対比が美しい。彼女がこのくらいの時間に来るのは、バイトと電車の都合という、オレと大差ない理由であることも、みんな知っている。
一応デビューしたとはいえ、全国区にはまだまだ程遠いバンド。けれども、彼女は間違いなく、この歌声で売れると思う。話す声そのままで歌う。境目というものがなく、おしゃべりの延長で歌いだせる。基礎がしっかりしているし、透き通るような声質はプリズムのようだ。オレたちが手を抜かずしっかり活動していれば、少なくとも彼女には、年内にも大手から声がかかるような気がする。
彼女は声出しをひととおりすませると、伴奏なしで歌い始めた。そく、と軽い鳥肌が駆け抜ける。いつ聞いても――明るい陽光とダイナミックな風を思い起こす。そして、声質から受けるイメージをくつがえすほどの声量がある。
こんなときいつも、オレは無意識にベースを合わせて弾き始める。今日も勝手に体が動いていた。彼女はちらっとオレを見ると、さらに気分が乗ってきたのか、気持ちよさそうに歌い続ける。オレはベースをその声に沿わせる。ただひたすら、曲の世界に没頭する。ときおり目線を合わせながら。1曲目を歌い終わると、彼女はにこっと笑う。そして合図もなく、いきなり2曲目を歌い始める。オレもまた、遅れまいとベースで追いかける。
バンドを結成するときに、ギタリストが連れてきたのがこの女性だった。試しに歌ってもらったとき、全員が圧倒されて言葉を失った。ギターだけが「そうだろ?」とうなずいていた。こうしてメンバーは決まった。決まった当初から、彼女とギターはいい雰囲気だった。みんな陽気にふたりをはやし立てた。ドラムも、キーボードも。だからベースのオレもそうした。そうするしかなかった。ああやっぱりそうなのかと、謎の喪失感が胸を通り過ぎる音を聞きながら。
2曲目を歌い終わる頃に、ドアがまた大きく開けられた。
「おおっ、早いなあ、お前ら」
金髪の男が、ギターケースを振り振り踏み込んできた。もうひとり、やたら長身のドラムが「うっす」とか言いながら続く。彼女は少し違う笑顔になって、ギターに駆け寄った。キーボードは遅れるって、あいつまたかよ、なんて話をしながら、オレはベースの弦を微調整する。
――ほとんど会話すらない、10分間ほどの、ふたりだけのセッション。
真剣な練習だ。ちょっと早めに来た顔ぶれで、合わせをしていただけだ。途中でメンバーに踏み込まれても、うろたえることは何もない。実際オレたちはただただ無心で曲の中に入り込んでいたのだから。
けど。
オレにとってこの10分間がどれだけ幸せな時間か、誰にも明かすつもりはない。
ふたりきりのセッション 三奈木真沙緒 @mtblue
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