雨の日の遭遇

黒本聖南

◆◆◆

 宙に散らばる報告書、目の前の友人は憤怒の顔、ぼんやりそれらを眺めていれば、左頬に拳をぶちこまれる。

 覚えはあった。

 いつかこうなるとは思っていた。……いや嘘だ。罵られるだけかと思っていた。友人は誰かを殴るような男じゃない。それなのに、殴らせてしまった。

 静かに友人は問い掛けてくる。いつからなのかと。

 いつからか、いつからだろう。動きの鈍い脳みそを回して記憶を探る。数え切れないほどに、僕は友人の妻と二人きりで会ってきた。

 始まり、始まり……あれだろうか。

 いつかの雨の日、取引先との商談を終えての帰り道、その近くにあった自然公園に足を運んだ。雨に濡れる緑がひどく魅力的に目に映ったからだろうか。雨音と砂利混じりの足音しか拾わない耳、すれ違う人々の顔は傘に隠れている。

 この日はもう家に帰るだけで、時折足を止めて、葉から滴る雫を、広大な池を眺める余裕があり、その際に池の傍で、ダンボールの箱を持って立ち尽くす女の姿が視界に入った。

 ダンボールも服も雨で色濃くなり、濡れた髪からはとめどなく雫が垂れている。予定があれば見なかったことにして通り過ぎていたが、この後に予定はない。偽善だろうと見てみぬ振りはできないと、少し迷ってから近付いて声を掛ければ、いくらか間をおいてから倫道りんどうさん? と返事が来て驚いた。だが、自分に向けられたその顔を見て納得する、女は友人の妻だった。

 友人の家にはよく招かれており、彼女と顔を合わせる機会は何度もあった。僕や時には他の客を彼女は一人でもてなしてくれていた。料理が上手く、友人とよく似た穏やかな女性だ。

 その彼女が、ダンボールを持って、雨に濡れながら立ち尽くしている。何があったんですと訊けば、彼女は雨に濡れた顔を笑みの形に歪めた。


「数日前からずっと、気になっていたんです。枯れ木の傍に放置されていたこのダンボール。誰にも見向きもされずに、ずっと。……雨が降ったら寒いだろうな、その前に見つかるといいな、それとももう私が飼うべきなのかなって」


 彼女が持つダンボールの中には、小さな猫と思しき生き物が三体横たわっていた。


「お昼から雨が降るって言うから、私、いてもたってもいられなくなって、主人に猫を飼いたいって留守電残してからここに来たんです。……遅かったみたいです」


 手に力を込めたのか、ダンボールが歪む。生き物の鳴き声は聞こえない。


「もっと早く、決めるんだった」


 しゃがみこんでしまった彼女は、もうそれ以上何も話さなくなり、今さら放ってもおけないからと、ひとまず公園の管理人に連絡した。死骸をどうにかしなくてはいけない。

 管理人が来るまでの間、これ以上彼女達が濡れないようにと、傘を傾けた。震える声で言われた礼の言葉には、何も返事をしなかった。

 やってきた管理人は面倒そうな態度を隠しもせず、濡れた彼女をどこか引いた目で見てから、ダンボールを受け取り足早に去っていく。身軽になった彼女はいつまでも管理人の背を見送り、動こうとしない。

 傘で守られているはずなのに、彼女の顔はどんどん濡れていく。


「……帰りましょう、風邪を引いたらいけない」


 友人の妻と相合傘をすることになるとは、思いもしなかった。友人に見つかったら怒られるだろうかと思ったが、彼女を送り届けた家に友人はいなかった。まだ仕事中だったらしい。


「今日は色々と、ありがとうございます」

「いえいえそんな。早く身体を温めてください、それでは」


 その日はそれで終わった。今後二人で会うこともないだろうと思っていたけれど、数日後、猫を飼い始めたから見に来てほしいと友人に言われて彼らの家に行くことになった。猫を飼う。公園の件もあり、彼女のことが気に掛かった。

 友人の家に行けば、彼女は暗い顔をしていた。何か声を掛けようとすれば、首を横に振って制止し──こっそりと、連絡先の書かれたメモを渡してきた。

 破るべきだったんだ、友情を選ぶべきだった。

 それでも、友人の言葉が気になって、彼女に問うてみたくなった。


「──家内がね、急に猫を飼いたいと言い出したんだ。猫、猫か、どうしようかと返事に迷っていたら、数時間後にはやっぱりいいと言われてね。遠慮してしまったんだろう。家内はそういう所がある。だから飼うことにしたんだよ、あまり何かをねだることのない彼女の頼み、聞いてやらなくて何が亭主か」

「──うちの子は、とても可愛いです。可愛いけれど、可愛がるたびに、あの子達を思い出します。何もしてやれなかった。あの子達には、何もしてやれなかったのに……」


 落ち着いてください奥さん、なんて、最初は僕の家の最寄駅にある喫茶店に呼び寄せて、茶を飲みながら慰めるだけだった。僕はあの日彼女と共にいたのだ、どれだけ悲しんでいるのか友人よりも察することができる。

 彼女の気の済むまで話を聞き、せめてあの子達の分まで、飼い猫を可愛がったらいいと何度も言い聞かせて別れる。それで終わり。だが呼び出しは続いた。

 友人の件でも思うことがあったようで、話を聞いてほしいと涙ながらに電話で頼んできた。一回目の呼び出しも後から考えればまずかったのに、二回目ともなると及び腰になる。せめて電話での相談では駄目かと言えば泣き喚かれた。彼女には頼れる人間がいないのだと。

 過呼吸まで起こし始めたから仕方なく会いにいけば、話し相手として適任だと本格的に思われたのだろう、以後も呼び出され、泣き喚かれた。

 ──友人は優しいが、それが時に彼女を傷付ける結果になることが何度もあったのだと。聞けば聞くほどに、彼女にいくらか同情するようになり、友人への印象が変わっていく。

 友人の妻と二人きりで会う罪悪感が少なくなってきた頃に、彼女は魔が差したのだろうか、今日はここでお話しましょうと、連れてこられたのはホテルだった。


「人目を気にせず、話したいの」


 言いながら、彼女は腕を組んできた。久し振りの女の柔らかさと温もり、その主が友人の妻という事実に、僕もつい魔が差しそうになったが、鼻に届いた洗剤の香りが、そんな気持ちを押し留める。友人と同じ匂い。当然だ、家族なのだから。

 友人と過ごした日々が、秒速で脳裏を駆け巡る。


「……そうですね、ここのホテルの喫茶店、外から見る限り、あまり客が入ってないようですし」

「……ええ」


 どことなく不機嫌そうな彼女は、中に入るまで、僕と腕を組み続けていた。彼女とはこれっきりにしよう。──そう思った三日後、転勤が決まった。気軽に会えるような距離ではない。終わりの時だ。

 開口一番、これからは誰が私の話を聞いてくれるのと泣かれたが、そもそも友人の妻、他人だ、どうすることもできない。

 何も言わずにいたら頬を平手打ちされ、彼女は帰ってしまった。それっきり会っていない。

 丸まりながら去っていく背中を頭の片隅に寄せて、引き継ぎなりなんなり、やるべきことをやりながら日々は溶けていく。そうして引っ越しの準備がだいたい済んだ頃に友人が部屋に来て、僕らの不貞を探った報告書が宙を舞い、僕は友人に殴られた。

 黙り込んだ僕を殺さんばかりに睨み付け、絶対に許さないと言い残し、友人は出ていく。

 いや、元友人だ。

 僕らの友情は終わったのだ。


 あの雨の日に、彼女と遭遇していなければ、僕らはこんな結末を迎えることはなかったんだろうか。

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