亀の甲より年の功

増田朋美

亀の甲より年の功

寒い日だった。本当に寒い日で隣の県では大雪が降ったなどとも噂されているが、幸い静岡県では風花が舞った程度で、何も起こらなかった。それは恵まれている県であるといえるのかもしれない。だけど、天災が少ないということは自動的に人災も多くなると言うわけで、いろんなトラブルが多くなるというものだった。

「本当にありがとうございました。あたしと一緒に、自立支援の更新に行ってくれるなんて。」

と、諸星正美さんはブッチャーにお礼を言った。

「いいえ、こういうときは、知っている人に頼むのがいいってことです。もちろん、募集するのもありだとは思いますが、全然知らない人にこういう事を頼むというのは、俺はちょっと、困ると思います。」

ブッチャーは諸星正美さんにそういった。

「そうですか?あたしは何も抵抗はないんですけどね。知らない人であっても、まず初めに私は車の運転ができませんから、ああして、インターネットで市役所まで送ってくれる人を探さないと。そのためには、インターネットで誰かお手伝いさんを募っても、いい時代なんじゃないかと思いましたけどね。」

「いやいや、正美さん。一人でできるといっても、こういうときは知らない人に頼むのはやめたほうがいいですよ。やっぱりね、自立支援の申込みとか、そういうものは、やっぱり、デリケートなことですから、家族とか、そういう人に頼まなくちゃ。やたら、インターネットでどうのというのは、見えない顔ですからね、それをどうされるかも分からないし。」

「ブッチャーさんは、何でも保守的なのね。まあそうなのかもしれないな。お礼をしたいから、ちょっと、喫茶店にでもよってくれませんか?」

ブッチャーがそう言うと、諸星正美さんは、そういった。

「本当は、インターネットで募集した人に、お礼としてお金を渡すつもりだったんだけど、ブッチャーさんだったから、そんな事されても困るでしょ。それなら、お茶でも飲んでもらおうと思ったの。」

正美さんそう言うので、ブッチャーは、本当に用意周到だったんだなとつぶやいたが、正美さんが行きましょというので、それについていくことにした。

「じゃあカフェはこっちの方角だわ。行きましょ。」

正美さんはブッチャーを今までの方角とは別の方角へ案内した。

「あれ、そっちの方向に店がありましたっけ?」

ブッチャーがそう言うと、

「ええありますよ。アパホテルが近くにあったわ。そこにカフェがあるじゃない。そこへ行くのよ。」

と正美さんは答える。ええ!あんな高級な店にとブッチャーがいいかけたとき、正美さんは、急に足を止めた。

「ねえ、あの女の人、何をしているのかな?」

ブッチャーが見てみると、歩道橋の上に女の人がいた。確かに、歩道橋で女性が一人、止まっているのはおかしな話だ。

「そうだねえ、たしかに、今日は曇で富士山も出ていないし、写真撮影をしているわけでもなさそうだ、、、。」

とブッチャーがそう考えていると、

「私、ちょっと見てくる!」

正美さんは急いで歩道橋に登った。ブッチャーも急いで追いかけた。

「待ってください!せめて、自殺をしようというのであれば、私達に、話をしてからにしてください!」

正美さんはそう歩道橋の女性に声をかけた。ブッチャーもその女性がただ歩道橋に立っているだけではなくて、別の理由があるんだと言うことは、すぐにわかった。自分の姉を見ているからそれがよく分かるのだ。姉が自殺を図ろうとしたときの顔とよく似ている。そしてそれは、諸星正美さんもわかってしまうのだろう。

「どうして、私が楽になろうとするのを邪魔するんですか!」

女性は正美さんたちに言ったが、

「だって、自殺をするのは、」

正美さんが言うと、

「それは神の教えに反するからとでもいいたいの?そんな教え、信用しないわよ。だって神様は私が一番欲しかったものを私の手から取っていってしまったわ。その神様になんで従わなくちゃいけないのかしら!」

女性はすぐに言った。

「ええ、でも自殺を肯定するのは、どんな教えにもありません。それに俺たち、ここであなたが自殺をするのを見てしまったら、自殺幇助の罪で訴えられてしまうこともあります。だから、それはやめてください。」

「そうよ。それに、誰かに話してみたら、解決できるかもしれないじゃないの。誰かに相談することは悪いことじゃないわ。それに三人寄れば文殊の知恵とも言うわ。それに同じ経験をしている人に会って、気持ちが和らぐこともあるかもしれない。」

ブッチャーと正美さんが、相次いでそう言うと、

「ええ。でも私は、もう取り返しのつかないことをしてしまったの。だからもう生きている資格なんて無いのよ。だから、もう楽になりたいの。ここで生きていたって、何もいいことなんか無いじゃない。一度、道を踏み外してしまった女性に、生活して行く資格なんて無いのよ!」

と彼女は泣き叫ぶように言った。

「そうかも知れないけど、でも、一度でいいですから、話してみませんか。俺たちは、あなたのような人を沢山見てきたので、簡単に励ましたりしません。それに、俺たちは、あなたの仲間になれる人が大勢いる場所も知ってます。どうですか、ここで自殺を図るよりも、俺たちの仲間にあって、話してみるほうが、楽になれると思いませんか?」

ブッチャーは優しく言った。

「そうよ。あたしも、ここにいるブッチャーさんも、決して悪い人じゃないわ。だから、お願い、今ここで飛び降りてしまうのはやめて。」

正美さんもそう言ったので、女性は、もうだめかと諦めてしまうような顔をした。

「カフェに行くのはやめて製鉄所に行きましょうか。」

ブッチャーが小さい声でいうと、正美さんは、スマートフォンを出して、すぐにタクシー会社に電話した。市役所の前にいるというと、タクシーはすぐ来てくれた。正美さんがワゴンタイプのタクシーを頼んだので、乗り降りはそう難しくなかった。三人はそれに乗り込んで製鉄所に向かった。

「ところで、あなたのお名前は?」

走るタクシーの中、正美さんがそうきくと、

「鈴木です。鈴木紀恵といいます。」

と、彼女は答えた。鈴木紀恵。なんか聞いたことある名前である。

「それで、お仕事はなにかしているんですか?」

ブッチャーが聞くと、

「はい。芸能人だったんですが、昨年芸能界は引退しました。そのまま芸能界に戻るわけにも行かないので、今はそのままで。」

と鈴木紀恵さんは答える。

「ああやっぱりね。どっかで見たことある顔だと思ったんだよな。俺、姉がテレビを嫌いなので、テレビはほとんど見ませんが、それでも、ポスターとか、そういうところで、あなたの顔を何度か拝見したことがあります。確か、薬物禁止のポスターなどにも出てたような。違いましたっけ?」

ブッチャーが改めて聞くと、

「ええ、そういう事をしていた時期もありましたが、今は、何もしなくなってしまいました。そうなるはずだったんです。だけど、あんな事にあってからは、もう自分の進む道もなくなっちゃって。」

と紀恵さんは答えた。

「お客さん、富士かぐやの湯にもう少しで着きますが、この先どこへ行ったらいいんですかね?」

タクシーの運転手がそういった。ブッチャーは急いで、製鉄所への道のりを教えると、数分で製鉄所の前に到着した。製鉄所と言っても鉄を作るところではない。そうではなくて、居場所のない女性たちに、勉強や仕事をする場所を提供している福祉施設だとブッチャーが説明すると、

「そんな施設があったとは知りませんでした。静岡は田舎ですし、そんな施設は東京に行かないとだめなのではないかと思っていたわ。」

と、鈴木紀恵さんはそう答えるのであった。その、日本旅館風の建物の前でタクシーは止まった。正美さんが、鈴木紀恵さんにタクシーから降りるように促し、三人はタクシーから降りて、急いで製鉄所の中に入った。

その時、製鉄所では、ちょうど、柳沢先生が来ていて、小さなすり鉢の中で、漢方薬を調合していた。それは唐辛子みたいに真っ赤なもので、ちょっと使っているところを見ると危ないようにも見えるのであるが、杉ちゃんたちは気にしなかった。柳沢先生は、杉ちゃんから受け取った水のみに、その薬を入れて、水で溶かした。

「そうです、それを。」

「わかったよ。」

と、杉ちゃんがそれを受け取り、水穂さんに水のみを渡して、中身を飲むように言った。水穂さんは、それを受け取って、咳き込みながらそれを飲み込んだ。それと同時に、諸星正美さんと、ブッチャーが、ちょっと失礼しますと言って、製鉄所の中に入ってきた。

「こんにちは、水穂さんいますか?実は、芸能人の鈴木紀恵さんと言う方が来ていて、ひどく思い詰めた様子だったので、連れてきたのよ。ちょっと、話を聞いてあげられないかしら?水穂さんは、聞くのすごいうまいじゃない。だからお願いしたいのよ。」

そういう正美さんだったが、水穂さんは、もう疲れてしまったようで布団に寝たままであった。

「今さっき、薬を飲んだばかりなんで、話すことなら僕が聞く。」

水のみ片付けながら、杉ちゃんが言った。正美さんとブッチャーは残念だなと言う顔をしたが、鈴木紀恵さんは、この人が誰なのかわかってしまったらしい。

「あ、あら!右城さんじゃないですか?私、芸能界に入る前は音楽学校に行こうと思ってたから、右城さんの演奏会はよく聞きに行きましたわ。まだ演奏活動しているかと思っていたのに、なんでここにいるんですか?」

「まあねえちょっと理由があって寝たままで失礼するよ。それで、お前さんの話したいことって何だよ?」

杉ちゃんの言い方は、まるでヤクザの親分だ。だからちょっと、女性にはきつすぎるかもしれない。鈴木紀恵さんもそれはびっくりしたようである。

「実は彼女、歩道橋から飛び降りようとしていたんだ。なんだか重大なことをしてしまったらしいので、もう芸能界には戻れないとか言っていた。それではあまりに可哀想なので連れてきた。どこにも相談するところがなかったんだろう。それなら俺たちが話を聞いてあげようと思ってね。」

ブッチャーがそう説明すると、

「はあ、なるほどねえ。最近の若い方は心が優しいというか、感じるところは鋭いのに、それを何処かへ生かそうとしないで、自分を消すことの方に持っていってしまうんだ。それをしないで、誰かのためになにかしてあげるように持っていくことはできないものですか。僕らの若い頃よりもずっと今の女性は優しいですよ。」

薬箱を片付けていた柳沢先生がそういったので、鈴木紀恵さんは、ごめんなさいというと、

「謝らなくていいから、お前さんが悩んでいることを話してみろや。」

と、杉ちゃんが言ったので、紀恵さんは話し始めた。

「実は私、結婚を機に、芸能界を引退したんです。主婦になって、今の主人と子供を作るつもりでした。それなのに、いくら頑張ってもできなくて、やっとできたと思ったんですが、それも死んでしまいました。だからもう結婚していても何も意味がないと言われてしまって。それで途方に暮れていて、あそこの歩道橋に行ったんです。」

「つまり、流産したんですか?」

ブッチャーが思わずそう言うと、

「いえ、そうじゃないんです。早期剥離というものでした。病院にいったときはもう手遅れだったんです。それで私は助かったんですけど、赤ちゃんは助かりませんでした。一応、和尚様には供養して抱きましたが、私そういう事をやっただけでは、どうしても自分の中で受け入れられなかったんです。何度も、忘れて次へいこうと思いました。でも、思えば思うほど、そこから抜け出せなくなっていった。私がなにかしようとするたびに、死んでしまった赤ちゃんのことが思い出されて、できなくなってしまうんです。それを、私は能力がない女性だと周りの人は見ますし。それでは、もう死ぬしか無いと思って。それで。だめだってことはわかってるんです。だけど、どうしてもそれだけでは、解決できないんですよ。でもそれができなくちゃいけないことも頭ではわかっているつもりなんですが、、、。でもだめですよね。どうしても、そこから抜け出せられない。次のステップに行くことができない。だから私は、もうだめな人間なのかな。女優をしていても結局私は、変わることができませんでした。」

紀恵さんはちょっと涙を見せながら言った。

「そうですか。そうやって成文化できるのであれば大丈夫ですよ。何について悩んでいるか分からないで辛い思いをしている人もいますからね。悩んでいる理由がはっきりわかっているのであれば、それをどう対処するのかを考えましょう。」

柳沢先生がそう言うと、

「そうだねえ。でも、何でもぱっぱと解決してしまうことができたら、お前さんも辛い思いをしないでも済むだろう。それは大変だったな。お前さんだって、きっと気をつけて生活していたんじゃなかったのか。それでも早期剥離とかそういうものは起こっちゃうからな。」

杉ちゃんがでかい声で言った。

「ええ、でも、今思えば、私は内申子供ができるということを、軽く見ちゃったというか甘く見ちゃったのかもしれません。もしかしたら、それが私への罰だったんではないかと思ってしまうんです。」

紀恵さんは、申し訳無さそうに言った。

「まあそうだけど、事実はただあるだけだと考えよう。それに甲乙も善悪もつけない。それに、人間にできることは、事実に対し、どうするかを考えるだけだ。それを忘れるなよ。」

杉ちゃんが腕組みをしていった。紀恵さんは、悲しそうな顔つきでわっと涙を流してしまった。

「いいんです。泣いたって。あたしたちもできないことで随分泣きました。それしかできないことがあるって言うことは、私も知ってますから。だから、私達は、思いっきり泣いてもいいって言ってやることではないでしょうか。」

正美さんがそう言うと、

「それでも自殺はだめだぞ。悩みを感じるのと自分の命を絶ってしまうのはまた別問題だからね。」

と、杉ちゃんが言った。

「そうなのね。私は、必要がなければ自殺してもいいのではないかと思いましたけど、それでも行けないんでしょうか?」

と、紀恵さんがいうと、

「まあ、、、そうだね。行けないとか、そういうことは、あるかもしれないけどね。でも確かに、お前さんの立場から言うとどんな宗教も役に立たないと思われるような心境だろう。だけど、僕たちから見たら、そういうことはしてはいけないっていうかねえ、自殺を幇助するということは、罪になっちゃうんだよ。それは、日本の法律で決められているんでねえ。それに、自殺を許してしまうってことはねえ、やっぱりいい印象は持てないよね。」

杉ちゃんはでかい声で言った。

「僕も、ミャンマーに行ったときに、そういう現場に遭遇しましたよ。道路でロヒンギャの男性が倒れていたので、病院に連れて行こうとしましたが、どこの病院でも受け入れてもらえず、結局、その人はなくなりました。それでご遺体を家族に引き渡したとき、余計なことをするなと言われて、怒鳴られました。ですが、医療関係者として、病院に連れて行くことはしないと行けないと思いましたので、それは、間違ってはいないと思いますけどね。」

柳沢先生がそうしみじみといった。

「だから人が困っているときに助けられて、助けを受けられるというのもまた幸せなことなんだと思いますよ。そういうふうに余計なことをするなと怒鳴らなければならない民族もいるわけですからねえ。それは、水穂さんだってそうなんじゃありませんか。あの銘仙の着物が動かない証拠ですよ。」

みんなは眠っている水穂さんを見た。たしかに、紫色の銘仙の着物を着ている。今は眠るしかできないのだろう。静かに眠っている。

「そうなんだね。余計な事をするなって言われなくてもいいような幸せを、感じて居られたら、幸せだよな。例えば、なくなった子供さんをどうしても忘れられないで悩んでいるんだったら、そうだな、それを専門にしているカウンセリングの事務所に行くとか、そういう事もできるだろう。日本は、資源小国だし、天災も多いが、資格に弱い人が多いから、そういう資格を持ってるやつはいっぱいいるんだよ。だから、解決方法だって、そこら辺に転がっているのかもしれないよね。」

杉ちゃんに言われて、鈴木紀恵さんは、

「そうなのね。」

と小さい声で言った。

「まあ、答えは意外とすぐ近くにあるってのは、柳沢先生の言うとおりだと思いますよ。インターネットでも、相談を受け付けているウェブサイトはいっぱいあるじゃありませんが。それなら、それを利用すればいいだけの話し。俺はそう思ってます。俺の姉ちゃんだって、随分援助者を見つけられないで苦労しましたが、俺は今であればいろんな援助者にたどり着けるのではないかと思うんですよ。それでいいんじゃないかと思います。」

ブッチャーは彼女の話を聞いて、そう言ってあげた。姉も同じことで悩んでいるのだろう。だから、そう言ってあげる。変なふうに貶したり起こったりしない。それは、精神を病んでいる人には大事なことだと思う。

「そういうことなら、大変なのかもしれないけれど、前向きに進んでみてください。もし迷うようなことはありましたら、俺たちもいますし、ここでも相談を受け付けていますから、遠慮なく言っていいんですよ。そういうところですからね。ここは。」

「ええ、ありがとう。あたしも、前向きにならなくちゃ行けないけれど、今はどうしたらいいのか、なんだか涙をこぼして泣くだけしかできないのです。」

そういう鈴木紀恵さんに、

「大丈夫です。少なくとも、法の下に平等ということは保証されていますから。」

と、柳沢先生は、そう言ってくれた。

「最後はやっぱり、亀の甲より年の功だな。年寄は、そういう事言ってくれなくちゃ。若い奴らが悩んだり、苦しんだりしてるとき、そうやって、手を出してくれるのが年寄りの理想ってもんだ。そういうことができるって、みんな幸せだねえ。ははははは。」

そう杉ちゃんが馬鹿笑いをしてくれたおかげで、みんな少々気が楽になってくれたようだ。水穂さんだけが、それに加われないで、静かに眠っていたのであるが、

「眠っている事ができるのはこいつも幸せなんだよ。」

杉ちゃんはそういった。


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亀の甲より年の功 増田朋美 @masubuchi4996

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