第20話 [真実] 


     *


「行くぞ。マルマリ」


 右足に思いっきり力を込めてペダルを踏んだ。


『ねえ、どうするつもり? 何か考えがあるの?』


 マルマリは、籠の中から訊いてくる。


「勝負だよ。勝負。クライマックスはこれからだ」


『はあ? 何、おじさんと決闘でもやるつもり?』


「まあ、そんなとこかな」


『あの人、車椅子だけど、上半身の筋肉めちゃくちゃすごいよ。尋常じゃないくらい毎日鍛えてるから』


「べつに、殴り合いをするって言ってないだろ」


『じゃ、何するつもりだよ』


「まあ、日本人が本当に困ったときにやることと言ったらアレしかないだろ」


『アレってなに?』


『いいから、黙って付いてこい』


 へとへとになりながらも、自転車を走らせた。おじさんの家に着いたころには、夜になっていた。


 インターホンを鳴らす。


「僕です。美波さん、見つかりました」


「入って」


 リビングに通され、マルマリを床におろすと、僕は床にひれ伏した。


「お願いします。彼女を自由にしてください。どうか、結婚のことは考え直してください。おじさんの介護なら僕がします。どうかどうか許してください」


おでこを床にこすりつけ、土下座のポーズで懇願した。


「頭をあげなさい」


「いえ、おじさんがいいと言うまでここから離れません」


 謝り倒す以外、他には何もなかった。僕ができることなんてたかがしれている。彼女のために自分が犠牲になればいいと考えた。もう、完全に力技。というか、ここからはおじさんの良心に訴えかけてやろうという作戦だ。おじさんが根負けしてくれるのが一番の理想である。


「……」


 ふう、というため息が後頭部にかかるのを感じた。


 そのすぐあと、しゃんしゃんと車椅子が動く音がした。すると、次の瞬間目の前にシルバーの杓文字のようなものが見えた。ひっと悲鳴を上げて、それが何か察した。ゴルフクラブだ。まさか、これで僕を殴る気だろうか。


「顔、上げて」


 ゆっくりと、状態を起こしおじさんの顔を見た。


「そこに、座りなさい」


 ゴルフクラブでソファを差す。


「はい」


 マルマリと並んで座った。


「君は、五年前の事故の記事やネットの書き込みは見たことある?」


「ありません」


「ニュースに取り上げられるとね、たとえ事件じゃなくてもいろんなことを調べ上げて、あることないことを書き込むやつらがいるんだ。住所や学校名、友達との写真、家族構成。それは被害者も加害者も関係なく晒される。誹謗中傷だけじゃない。知らない人に自分の個人情報を晒される恐怖、君にわかるかい? 想像したことある?」


「……」


 予想外の言葉が投げられ、ただ首を振った。歩行者を巻き込んだ事故とはいえ、運転手が酒を飲んでいたとか特別なルール違反をおかしたわけでもないのに、ネットの書き込みがされるほど大きな事故だったのだろうか。


「単独事故だったら、まだよかったかもしれない。私を巻き込んでしまったのがよくなかった。君くらいの年齢だったら知らないだろうけど、私はそこそこ名の知れたプロゴルファーだったんだよ。そのせいで、思わぬ注目を集めることになってしまった。事故の後遺症で歩くことも自分で用を足すこともできなくなってしまった。もちろん、プロゴルファーは廃業さ」


「はあ……」


 以前、三木さんがおじさんを見て、誰かに似てるなと言ったのはそういうことだったのか。


「彼女は、自分のせいだと謝罪してきたよ。そんなこと黙ってれば、彼ひとりのせいにして被害者として生きられただろうに。正直な性格が仇となるなんて、学校では教えてくれないからね」


おじさんは、短くため息をついてつづけた。


「運の悪いことに、どこかの記者がそのことを嗅ぎつけた。そして、記事にした。龍ヶ崎敏郎(としろう)の伝説を奪った事故として取り上げられてしまった。余計なことをするやつがいるもんだ。たった十七歳の女の子が日本中から袋叩きに合うんだよ。そりゃ、精神もおかしくなっちゃうよね。彼女、どうなったと思う?」


「まさか……」


「自ら命を絶とうとしたんだ。あのときの彼女は見ていられなかった。できることなら救ってあげたいと思った。その役目は私にしかできないと思ったからね」


「それで彼女と結婚を?」


「言っとくけど、脅したわけじゃないよ。罪の意識とか、感謝の気持ちとか色々あって決めたんだろう」


「そんな……」


 とんでもない切り札を叩きつけられて、僕は何も言い返せなくなった。負けたとかそういうことではなくて、彼女のことを思うと胸が苦しかった。


「不憫でしかたがなかった。助けてあげたかったんだ。せめて、目が見えるようになればと私は考えた。だけど彼女は、頑なに手術をこばんだ。自分で自分を戒めるためだと言ってね。そして、私のためになんでもすると言ったんだ。『じゃ、ここで裸になってみろ』と言ったら躊躇なく彼女は服を脱ぎだしたよ」


「え……」


「安心しなさい。もちろん何もしていない。だから、その気持ちを利用しようと思った。自分のために手術をすることを拒否するのなら、私(、)の(、)ため(、、)という名目ならばするのではないかと考えた。だましたんだよ、彼女のことを」


「それじゃ……」


「悪いね。ラスボスが勧善懲悪の方が倒し甲斐があったかもしれないが、私に結婚の意思はない。目の手術が無事に終わってほっとしてるよ」


 柔和な笑みを浮かべて言った。


「ええ。なんだよそれ」


 僕は、力が抜けたように間抜けな声を出した。


「君、彼女の夢が何か知ってる?」


「いえ。聞いたことないです」


「イラストレーターになるのが夢だったんだってさ」


「へえ」


 そのとき、五年前から更新が停まっているSNSを思い出した。彼女が投稿していたたくさんのイラストに思いを馳せる。


「ごめんね。手術が無事に終わるまでは、この計画を誰にも話せなかったんだ」


「でも、あなたは被害者ですよね? どうしてそこまで親切になれるんですか?」


「彼女も被害者なんだよ。それに、人の夢はできるだけ応援したいと思ってる」


 おじさんは、笑みを浮かべた。今まで穿った見方をしていて気づかなかったけど、この人はとても優しい目をしている。


「おじさんは、これからどうするんですか? 誰が介護するんですか?」


「あはは。この通り、お金には困っていない。ヘルパーさんもいるし、マネージャーもいる。なんせ、私は伝説の男だからね。あ、それで君にひとつお願いがあるんだ」


 おじさんは、ゴルフクラブを僕の目の前に突き出した。


「なんですか?」


「私は、これからもう一度自分の夢に挑戦することにした。車椅子ゴルフで一番になるというね。もう、アメリカに行く計画も進んでいる。だからさ、レオンのこと頼んでもいいかな?」


「えっ。いいんですか?」


「連れていくつもりだったけど、君にとてもなついてるみたいだから」


 マルマリの方を見た。僕に寄り添うようにして、眠っている。本当は、僕たちの会話を全部聞いているくせに。


「ありがとうございます。ありがとうございます」


 僕は、マルマリを抱いておじさんの家をあとにした。


     *


 拍子抜けというか、まるで嘘みたいな怒涛の展開に脳が追い付いていなかった。


「これは、奇跡なのか? いや、ちがうな。ただ、僕らはおじさんの計画にうまいこと乗せられていたってことだもんな」


 ぶつぶつと自転車をこぎながらつぶやいた。


『終わったー』


 マルマリが突然大声で叫んだ。


「あーびっくりした。なんだよ急に」


 思わず、自転車を停めた。


『いやぁ、長かった。今日まで本当に長かった。君もおつかれだったね』


 マルマリは、スッキリとした表情で叫んだ。僕はその軽さがちょっと理解できなくて、今まで起きたことを整理する。マルマリは、おじさんが自分の彼女と結婚しようとしてることを知り、それを阻止するために僕の元へやってきたんじゃなかったのか。


「まさか……。知ってたのか? おじさんが結婚する気なんてないことを。いや、まさか……。だったら、べつに放っておけばいいことだもんな。わざわざ、僕と出会わせる必要なんてないもんな」


 心の声が全部漏れてしまっていた。


「ちょっと、確認していい?」


『何でも訊いて』


 ぴくり、と髭を動かす。


「マルマリは、僕を暴走させて、結婚を破断にすることが目的だったの? それとも、おじさんの計画を知ってて僕のところにやってきたの?」


『どっちも正解だね』


「どういうこと? 知ってたなら、わざわざ僕のところに来る理由はないよね?」


『いい質問ですね』


 マルマリは池上なんとかさんの物まねをした。


『彼女が目の手術を無事に終えて、本当は結婚するつもりなんてなかったんだよ。これは狂言だったんだとおじさんが伝えたところで、美波はそれを素直に受け入れられないと思ったんだ。誰かのために自分が犠牲になることで彼女は生きる意味を見いだそうとしてたからね』


「生きる意味?」


『そう。だから、君の存在が必要だった。美波のことを本気で大事に思ってくれる誰かを探していた。同時に、美波自身が大事に思える人』


「わからないな。自分の好きな人が他の男を好きになるなんてふつう考えたくないだろ。どんなつもりで、僕に今までアドバイスしてたの?」


『ずっと彼女のことを見守ってた。ジブンのことを思いつづけてくれる姿は健気で愛おしくてすぐにでも近くに行って抱きしめてあげたかったよ。でも、好きという感情はいつしか狂気に変わる。ジブンの存在がいつまでも彼女の中で大きなしこりとなって残りつづけると思うと苦しくなった。こんなこと言うとひどいやつと思われるかもしれないけど、まだ若かったんだ二人とも。高校生と大学生だよ。あの事故がなければふつうに喧嘩してどっちかが浮気してよくある別れを経験してお互い別々の人を好きになっていたかもしれない。だけど、その未来さえジブンは奪ってしまったんだ。彼女は一生、この呪縛から逃げられないんじゃないかってね』


「嫌じゃないの? 彼女が僕のことを好きになっても」


『あれあれ? いつのまにそんなことになってるの? 美波は、君のこと好きだなんて言ったっけ?』


「いや、言ってはないけど……」


『ごめんごめん。またイジワルしちゃった。嫌じゃないと言えば嘘になる。でも、君ならいいと思ったんだ』


「なんで?」


『だって、君はいいやつだから』


「それだけの理由?」


『十分でしょう』


 あははっと猫らしくない笑い方で笑った。


「じゃあ、あとひとつ」


 マルマリの目をじっと見つめた。


『どうぞ』


「僕たちの物語に奇跡は起きたの?」


『ん? なんのこと』


マルマリが首をかしげる。

「とぼけんなよ。マルマリが言うセオリーていうやつによると、物語の中には必ず一回奇跡が起きるんだろ? でも、僕たちの物語にそんなものはなかった。悩んで葛藤して選択してまた悩んでの繰り返しだった」


『奇跡はずっと起きてたじゃない!』

「どゆこと?」

『こうして、ジブンと君が会話できてることさ。これを奇跡と呼ばずになんと言う?』


「あはは。これが奇跡か。確かにそうだね。やっぱ最高の相棒だよ」


 僕は、思いっきりマルマリの頭を撫でてやった。


『ねえ、知ってる? ユミトという名前の意味』


「知るわけないじゃん」


『トルコ語で〝希望〟という意味なんだって』


「へえ」


『君が彼女の希望になってほしい』


「そりゃ大役だなぁ」


 少しふざけて言ってみた。そうでもしないと、この空間が消えてしまいそうで怖かった。背中に熱いものを感じた。何かが迫ってくるような感覚。


『あるのは、愛おしいという思いだけさ』


 マルマリがつぶやく。


「愛おしい、か。なんだか、きれいな言葉だね。僕にはもったいないよ」


『ううん。君は愛おしいという感情をすでに知っているはず』


「それは、好きって気持ちとはちがうの?」


『さて、ここで問題です』


マルマリは、クイズを出題する効果音を付けて言った。


『〝いと〟とはどういう意味でしょうか?』


「糸島のいと? 紡ぐとか結び付けるとかって意味じゃないの?」


『では、古文では?』


「たいへんとかとってもって意味だよね」


『では、〝おしい〟はどういう意味?』


「大切なものを失いたくない、とかそんな感じかな」


『つまり、イトオシイというのは〝とっても大切なものを失いたくない〟という感情なんだよ』


 マルマリは得意気な顔をしていた。


「ふへへ。そっか。大切なものか。マルマリのおかげで本当に大切なものが何かわかった気がするよ」


『じゃ、それを大事にするんだよ』


「僕には、大切なものがたくさんありすぎる。それは、とても幸せなことなんだね」


『じゃあ、頼んだよ』


「なんだよ。そんな別れ際みたいな言い方して」


『さあ、お別れのときだよ』


「嫌だ。このままがいい。マルマリはずっと僕の相棒でいてくれなきゃ」


『終わったんだよ』


 マルマリの目が光った。


「ねえ、終わりってことはマルマリが消えちゃうってこと?」


『いいかい。右手を出して。コインマジックの要領さ。パチンと一回スナップするんだ』


「そしたらどうなるの?」


『早くしないと、次のバトンが渡せない』


「バトンって何?」


『大切な思いをこの世に残した誰かだよ。ジブンたちは、猫の姿を借りて滞在している。ほら、言うとおりにして』


 マルマリの目がちかちかと光を失くしていく。


「いやだ」「だめだ」と僕は子供みたいに駄々をこねた。


『洋介、ありがとう。君に出会えて本当によかった』


「ありがとう」


 パチン。


 指を鳴らした。瞬間、目の前が白い光に包まれた。

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