第17話 [絶望] 


     *


 学校から帰宅し、勉強していると下から父さんの声が聞こえた。


「何? どうしたの?」


「マルマリの飼い主だって人が今来てるんだけど」


 悪い冗談だと思った。だって、マルマリはもう僕たちの家族の一員になっていたから。それに、マルマリは捨てられたんじゃなかったのか。


「何かのまちがいなんじゃない?」


「とりあえず、マルマリ連れて降りてこいよ」


 その時点では、何かのまちがいだと思っていた。ポスターを貼ってから約五か月。今まで一度もそういった連絡はなかった。


「おまえって捨てられたんだよな?」


『……みゃあ』


「え? おまえ、急にどうした? おいっ」


『……』


 マルマリが急にしゃべらなくなってしまった。


「嘘だろ? 僕のことからかってるんだよな?」


『……』


 マルマリは、僕の足元を八の字にくるりと回って体をこすりつけてきた。まるで、ただの猫みたいに。


「洋介っ。まだか?」


 父さんが呼びにきた。


「いや、なんか、マルマリの様子が変なんだよ」


「どうした?」


「こいつ、急にしゃべらなく……」


 そこまで言って言葉を切った。父さんに説明しても、信じてくれないだろう。


「おいで、マルマリ」


 父さんが抱き上げる。マルマリはくるりと体をたたんで父さんの腕にきれいにおさまると、みゃっと小さく鳴いた。


「ん? どこもおかしくないじゃないか」


「いや、でも……」


「洋介。とりあえず、降りてきなさい」


 僕は、父さんの後ろをとぼとぼとついていく。父さんに抱かれたマルマリは、僕の顔を少しも見ようとしなかった。


 裏口から店に入っていく。僕もそのあとにつづいた。                 


「おまたせしてすみませんね」


「おお、レオン」


 カウンター席の横にいた車椅子の男性がマルマリを見て言った。五十代ぐらいのおじさんで、首元にスカーフなんか巻いちゃって、小綺麗な身なりをしている。僕は、その男性の顔をじっと見つめて思い出した。


「あんた、こないだのっ」


 美波さんに車で付きまとっていたおじさんだったのだ。


「洋介っ」


 父さんが僕をにらんだ。


「いやぁ、ずっと探してたんですよ。ポスターを見たときは驚きました。もう、見つからないんじゃないかって諦めてたんです。保護していただいて本当にありがとうございます」


 おじさんの口調はとても人が好さそうで、一瞬見まちがいかと疑った。だけど、駐車場に停まっていたワゴンを見て確信した。やっぱり、あのときのおじさんだ。きっと、猫をかぶっているのだろう。猫だけに。ああ、ややこしい。


「あの、本当におじさんの猫なんですか?」


 詰め寄るようにして訊く。


「洋介くん。さっきからどうしたの? 失礼よ」


 岬さんが僕をたしなめた。


「だって、いきなり来て、うちの猫です返してくださいなんて言われても、信じられないじゃないか」


「証拠ならありますよ。ほら」


 おじさんは自分のスマホを出して、一緒に写った写真を何枚も見せてくれた。


「これがマルマリだって証拠はどこにもないですよね? だた、似てる猫かもしれないし」


「これ見てよ。レオンの右耳、くるって丸まってるのわかる?」


 おじさんは、確かな証拠を突き出してきた。僕は、写真とマルマリを見比べて落胆した。


「すいません。息子もかなり可愛がってたんでね。急で驚いてるんですよ」


 父さんは、苦笑しながらマルマリをおじさんに渡す。


「ああ、良かった。レオン」


 マルマリは、おじさんの膝の上に乗ると優雅に目を細めた。よりにもよって、なんで名前が『レオン』なんだよ。


「ちがうっ。僕は信じない」


「洋介、仕方ないだろっ」


「だって……」マルマリはそいつに捨てられたと言ってたんだから。


「大事にしてたんですけど、玄関が空いた隙にうちを出て行ってしまったんです。すぐに追いかけたんですけど、見つからなくて。このとおり、体がちょっと不自由なもんで」


 おじさんは、優しそうな笑みを浮かべて言う。


「良かったな、見つかって」


 三木さんがコーヒーを啜りながらおじさんを見た。


「あんた、誰かに似てるな。どっかで会ったことあったっけ?」


 場の空気を読んでるのか読んでないのかわからない口調で訊ねる。


「……」


 おじさんは、迷惑そうに肩をすくめた。


「嫌だ。僕は、絶対にマルマリを渡したくない」


「洋介っ。いいかげんにしなさい」


「だって、おじさん車椅子なんでしょ? また、逃げたらどうするの? マルマリは、自分の意志で逃げたかもしれないよ。ちゃんと世話してたんですか? ちゃんと可愛がってたんですか?」


「ああ、ちゃんと可愛がってたよ。君が思っている以上にね」


 おじさんは、動揺ひとつ見せず、余裕たっぷりに言った。その場にいた誰もが信じこむくらいには。


「ひとつ訊いていいですか?」


「ん? なにかな」


「なんで、名前をレオンにしたんですか?」


「元は、野良猫だったんだよ。うちの前をいっつもうろうろしててね。気づいたら、棲み付いてた。初めて家の中に招き入れたとき、これを咥えてたんだ」


おじさんは、スマホの画像を見せてきた。マルマリの首には、ベロア素材の紐にシルバーアクセサリーがついた首輪が巻かれていた


「それなら今も……。あれ?」


 マルマリの首には何もついていない。いつからだろう。今朝、学校に行くときはついていたような気がする。でも、明確には思い出せなかった。


「知ってる? 映画の『レオン』で、マチルダが首に巻いてた太陽のチョーカー。これはそのレプリカなんだ。オスだから、マチルダよりもレオンがいいかなと思ってさ」


 おじさんは、いかにも自分がこの猫の本当の飼い主であることを並べ立てた。言い返したくても何も言えない。


「そういえば、今夜、金曜ロードショーで『レオン』が放送されるんだって」


 岬さんが言った。きっと、場の空気を和まそうとしてくれたんだろうけど、僕はどうしても受け入れられなかった。


「え? 何? どういうこと?」


 頭がパニックになりそうだった。五月に放送されていたはずだが、本当はちがったと言うことだろうか。そういえば、美波さんも言っていた。


 確かに僕はマルマリから直接聞いた。あの日、金曜ロードショーで『レオン』を見たと。いったい、何のためにそんな嘘をついたんだろう? まさか、この日が来ることを予想していたのか? そのためのフラグ?


 あーだこーだと思考を巡らせる。


「とにかく、ありがとうございました。これ、つまらないものですけど、良かったら召し上がって下さい」


 おじさんは、とらやの羊羹の入った紙袋を父さんに手渡した。中には、『お礼』と書かれた封筒も入っていたらしい。それがいくらだったのかまでは聞かなかった。


 おじさんは、最後まで僕のことを思い出さなかった。あの場で、この人は僕の好きな人のストーカーですと騒いでいたら、何か変わっていただろうか。


「行っちゃったね。しょうがないよ。元気出して」


 岬さんが優しく肩を叩いてくれたが、とうてい受け入れられるものではなかった。なんでマルマリは、急に喋れなくなったんだろう。どうしてすんなり、おじさんに抱かれてしまったのだろう。マルマリは、僕の大事な相棒なのに。


『本当の家なんてないよ。だって、ジブンは野良だからね。正式には、捨てられて野良になった。ひどい飼い主でね、家出してきてやったんだ。たぶん、いなくなってせいせいしてると思うよ』


 あれは、嘘だったのか? 


それとも、僕は今まで幻でも見ていたのだろうか。


     *


 気づいたら、美波さんの家の前に来ていた。辺りはすっかり夜で、頬に当たる風が冷たくて心地よかった。


 インターホンを鳴らすと、「どちらさまですか?」と声が聞こえた。


「僕です」と答えると、玄関のドアが開いた。


「どうしたの?」


「飼っていた猫がいなくなりました」


「え?」


「元の飼い主が見つかったんです」


「そう」


 美波さんは、声のトーンを落とした。こんなことになるなら、美波さんにもマルマリを紹介しておくんだったと後悔した。夏祭りの日、ニアミスはしたけれど、触れ合ってはいない。


「入って」


 躊躇なく部屋に招こうとしてくれたことは嬉しかったけど、こないだの出来事が頭をかすめた。器用にいろんなことを受け入れる自信がなかった。


「少し、歩きませんか? 涼しくて、気持ちいいですよ」


「ちょっと待って」


 彼女は上着を一枚羽織り、玄関を出た。


 いつものように、僕は彼女の騎士になる。歩幅も速度も彼女に合わせて、「あなたは最高の騎士よ」なんて言われたら嬉しい。僕だけの特権で彼女の近くにいることができたら。今は、この距離感がちょうどいい。


「信じないかもしれないですけど、喋る猫だったんですよ」


 笹山公園周辺をゆっくりと歩きながら、ぽつりと漏らした。


「ええ? ほんとに? うふふ」


 くっきりとエクボが現れた。


「やっぱり、誰も信じてくれない」


「ううん。どんなこと喋るの? 教えて」


「おはようとか、おやすみとか、そういうレベルじゃないですよ。マルマリって言うんですけど、そいつ映画が好きだったんですよ。偉そうに、映画理論とか語っちゃって。たぶん、僕が映画好きって知って話を合わせてくれたのかな」


「なにその猫おもしろい」


「でしょ? いっちょまえに、恋愛のアドバイスとかしてくるんですよ。運命がどうのこうのとか言って」


「あ! ほら、あれかな?『猫の恩返し』みたいな感じ」


「それもありましたね。忘れてた」


「洋介くん、猫を助けたことでもあるの?」


「ないですよ。ただ、近所の子供に頼まれて保護しただけです。でも、本当に相棒みたいなやつで、ちょっと生意気なところはあったけど、おもしろくて優しくてかわいくて最高だったんです。急にいなくなっちゃったから、どうしていいかわからなくて。無理なのはわかるんですけど、取り返す方法をひとりで悶々と考えたりして……」


 僕は未練たっぷりに語った。


「そっか。でも、それだけ大事に思ってくれて、その猫ちゃんも幸せね」


「その猫の飼い主なんですけど、前に美波さんを車でつけてたおじさんいたでしょ。あの人だったんです。猫の名前がレオンって言うらしくて、偶然にしてはよくできすぎてるというか。美波さんは、あのおじさんとどういう関係なんですか?」


「え……」


 美波さんの顔が急に青ざめるのがわかった。


「知りあいなんですか? それとも、ただのストーカー?」


「知らないっ」


 美波さんは首をふって小さく言い捨てた。もう、それ以上何も言うなという拒絶した表情で。


「でも……」


 何か理由があるのなら教えてほしい。


「あのね、洋介くん。私ね……」


 美波さんが何か言いかけた。そのとき、後方からクラクションが鳴った。振り返ると、おじさんの車が僕たちの右側に停まった。すーっと、左側の窓が開けられる。


「こんばんは。あれ? 君はさっきの」


 どうやら、おじさんが僕に気づいたらしい。


「そうか。前に会ったことあったのか。偶然が重なるね。これも縁かな」


 おじさんの言い方は優しかったけれど、僕はそれを素直に受け入れられるほど冷静ではなかった。


「ねえ、美波さんどういうことなんですか?」


 声を荒らげて訊いた。


「ごめん。洋介くん」


 美波さんが両手で顔を覆う。


「なんで、謝るんですか? いったい、このおじさんは誰なんですか?」


「……」


 彼女は、それ以上説明するつもりはないらしい。僕は、何がなんだかわからず立ち尽くす。


「美波ちゃん送っていくよ。乗って」


 おじさんは馴れ馴れしい口調で美波さんを誘う。口ぶりからして、親子ではなさそうだ。


「何言ってんだよ」


僕は身を乗り出して、おじさんの胸倉をつかんだ。おじさんの車は、特殊な車両で車いすごと運転できる作りになっていた。後部座席には、マルマリが入った猫用の籠がある。マルマリは眠っているのか、ぴくりとも動かない。


「さよなら」


 手が振りほどかれた。美波さんは、車のボディを手探りで確かめ、助手席へ回った。まるで操り人形にでもなったように、おじさんの車に乗り込んでいく。


「待って。なんで行っちゃうの?」


 閉まりかけた窓に向かって叫んだ。


「君は、彼女を幸せにできるのかい?」


 おじさんがパワーウインドウを途中で止めた。


なんで、おじさんがそんなことを訊くの?


いったい何者なの?


「……」


 言い返せなかった。


「じゃあね」


おじさんは、勝ち誇ったような顔で窓を閉め切ると、車を走らせた。


情けない僕は、ただそこに立ち尽くすしかできなかった。


脳内で『ドナドナ』が流れ、ふらふらと歩きだす。そこから、どうやって帰ったのかは覚えていない。


気づいたらベッドの上で、僕は必死におまじないの言葉を思い出そうとしていた。


マルマリは、こうなることを予知していたのだろうか? 


「アグラ、ネオ? アグラ、オマ、ティー……」


 何度も舌先で転がしてみたが、うろ覚えだったため唱えることができなかった。


美波さんが言った「さよなら」の意味を考える。まるで、最後の別れのようなひとこと。


二人で行った海岸沿いのラブホテルでのことが鮮明に思い出された。あのときの彼女のぬくもりが懐かしい。儀式のようなキスと抱擁。彼女もまた、こうなることを予測していたのだろうか。彼女の思いに素直に答えていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。


ふがいない自分がただただ悔しい。

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