第16話 [受容] 


     *


 何事もなかったように新学期が始まった。


咲坂さんは、ボブだった髪を後ろで縛り、小さな結び目を作っていた。


あからさまに無視とかされるのかな、と少し警戒していたけど杞憂に終わった。それどころか、積極的に僕たちに話しかけてくれた。勉強についてだったり、ちょっと下世話な週刊誌ネタだったり、先生にまつわる噂だったり、ネタはつきなかった。僕は知らなかった出来事に驚いたり感心したりしながら、日々いろんなことが起きているんだなと思った。彼女はさりげない気遣いができる子で、僕とクラスメイトをうまく繋いでくれた。


おかげで、ケンケン以外のクラスメイトとも関わりを持つことができた。どこから友達と呼んでいいかわからないけど、たぶん彼女らは友達と呼んでいいだろう。


 季節は十月を迎え、僕は十八歳になった。


 みんなが模試と演習問題に悶え苦しむ中、ひとりセンチメンタルな気分に浸っていたのは、この美しい海のせいかもしれない。何気ない日常も、好きな人と一緒ならちがった景色に見えるから不思議だ。


「海で泳ぐのは、もう無理かな」


僕のとっておきの場所――芥屋にあるプライベートビーチ――へ美波さんと来ていた。


「今から、泳ぎます?」


半ば冗談で言ってみる。


「水着忘れちゃった」


本気なのかわからない調子で美波さんは答えた。まだ、夏の香りを残した海に、サンダル履きの足を浸しながらゆっくりと歩く。僕は、いつものように腕を貸して、特等席で彼女の横顔を見つめていた。


「今年できなかったことは、来年のお楽しみってことで」


「来年か……」


 小さくつぶやいた彼女の表情が少しだけ曇った。


彼女のやりたいことリストは、完全に消化できていなかった。


「あ、すいません。目が見えないときに体験したかったんでしたね」

「ううん。洋介くんのおかげで、いろんなところ行けたし、いろんなこと体験できた。ありがとう」


「手術の日程って、もう決まってるんですか?」


「ううん。これからよ」


 なぜだろう。彼女は、全く嬉しそうではない。


――難しい手術なんですか? 


――失敗する可能性はあるんですか?


――やっぱり、手術は怖いですか?


本当に訊きたいことは喉元で引っかかる。


「何か、見たいものはありますか?」


 慎重に言葉を選ぶ。


「自分の顔かな。だって、もうずいぶん見てないんだもの」


 女性らしい答えだなと思って微笑ましかった。十七歳で失明してから五年も自分の顔を見ていないなんてどんな感覚なんだろう。やっぱり、いろんな不安があるのかな。


「僕、美波さんに見せたいものがあるんですよ」


「何?」


「マジックです」


「どういうの?」


「コインの瞬間移動です」


「ああ。テレビでやってるの見たことあるよ」


「僕の唯一の特技なんで、是非見てほしいんです」


「今、やってみてよ」


「え、今? いいけど……」


 見えない彼女に、このマジックをどう披露しようと思案する。


 通常であれば、自分の手の甲を使うが、それだと何も伝わらないので彼女の手を使ってやってみた。


「美波さんの手の甲にコインを載せます。僕がこすりつけると……」


パチン、と指を鳴らすと彼女はぴくっと肩を震わせた。


「ほら消えちゃった」


「え? それって、隠しただけでしょ」


 美波さんは、くすくすと笑う。


「じゃ、今どこにコインがあるかわかります?」


「わかんない」


「ここですよ」


 彼女のバッグからコインは出てくる。


「ズルい。だって、私見えないんだもん」


「じゃ、目が見えるようになったら種を見破ってくださいよ」


「まかして。絶対に見破るから」


「はい。それまで、お楽しみってことで」


 彼女の手術に対しての恐怖心が少しでも和らげばいいと思った。何か、希望になるものがあれば、前向きになれるはずだから。


「あっ」


 突風が吹いて、彼女のかぶっていた帽子が飛ばされてしまった。瞬間的に思いっきり腕を伸ばしたけど、キャッチすることができなかった。


「ちょっと待っててくださいね。取ってきますから」


 美波さんの腕をゆっくりほどこうとしたら、「行かないで」と止められてしまった。


「でも、帽子が……」


「いいの。このままで」


 美波さんの腕に力が入った。不安そうな表情で空(くう)を見つめる。波に揺れながらすこしずつ遠ざかっていく帽子を見ながら、未来へと思いを馳せる。僕たちは、来年もこの場所へ来られるだろうか。


 彼女の目が見えるようになったら、僕たちの関係も変わってしまうのかな。


 ごろろん、と雷鳴が響いた。


「あ、通り雨がくる。行きましょう」


 さっきまで晴れていたのに、空が黒い雲で覆われた。


「うん」


「気を付けてっ」


 美波さんの肩を抱いて、走り出した。あっという間に空は暗くなり、叩きつけるような雨が降り出した。道路からずいぶん入り組んだ道を歩いてきたせいで、バス停まではかなり遠い。砂を踏みしめ、来た道を辿る。


「大丈夫ですか?」


「うん」


時折、どーんと雷が落ちた音がする。そのたびに、美波さんは体をびくつかせ、僕の腕を力強くにぎった。


「もうちょっとです。しっかりつかまってください」


「うん」


ようやく、県道まで出てみたものの、雨宿りできそうな店も建物も見当たらない。


ズボンの裾は砂まみれで、全身に雨を浴びたせいで下着までずぶ濡れだった。どうにか、バス停まで歩いたけれど、次のバスが来るまで三十分以上ある。タクシーも通っていないし、コンビニもない。


「困りましたね」


「こんなにびしょびしょになったの久しぶり」


 美波さんは、前髪を左右に分けながら苦笑していた。


「バス、待ちますか?」


「どうしよっ。スマホ、大丈夫かな」


「ヤバいっ。これ、バッグに入れといてもらっていいですか?」


 自分のスマホを美波さんに手渡す。


「うん」


 雨はまだ止みそうにない。どんどん激しさを増していく。


「これ、良かったら」


 僕は、自分のシャツを脱いで美波さんの頭にかけてやった。


「ありがとう」


 美波さんの顔がすぐ近くにあってドキドキした。


「寒くないですか?」


 彼女の唇が徐々に色を失っていく。


「大丈夫だよ」


 周辺を歩きまわって、雨宿りできそうな建物を探した。五分ほど歩いただろうか。


「あ、っ……」


 とあるものが視界の端に見えた。


「どうしたの?」


 僕は彼女に伝えるか否か逡巡した。男女が二人きりになれるホのつく場所だ。


「休憩所を見つけたと言いますか、なんと言いますか……」


 直接口にできないもどかしさ。いやらしい意味は一切ありませんと言ったところで信用してもらえるだろうか。


「もしかして、ラブホテル?」


「は、はい」


「海沿いには定番だもんね。しょうがないよ、雨宿りしにいこう」


 美波さんはさらりと言う。あまりにもさらりとしすぎていて、本当に僕のことを警戒していないのがわかった。つまり、男として意識してもらえないことを意味する。


 緊張と高陽で心臓が早鐘を打つ。それをごまかすように速足で歩いた。


――落ち着け。


 心の声が聞こえないように、平静を装うのに必死だった。


 自動ドアを抜け、中に入っていく。一応、どういうシステムなのかは知識としてあるが、スマートに対応できる自信はなかった。


 一階のフロント横に写真付きのパネルが設置してあった。希望の部屋を選ぶタイプらしい。


「どの部屋にします?」


 平然と言ってみたが、自分のミスにすぐ気づいた。美波さんにはどの部屋がいいかなんて判断がつかない。


「一番安い部屋でいいんじゃない?」


 僕の心情とは裏腹に、彼女の声は落ち着いていた。行ったことあるのかな? なんて思考がよぎる。


「そうですね」


 ボタンを押すと、写真のライトが消えた。エレベーターで五階まで上がった。エレベーターは狭いし、廊下は暗いし、部屋はお世辞にも綺麗とは言えなかった。


「シャワー浴びますよね?」


「うん」


「お先にどうぞ」


「……」


 彼女が困惑した表情で黙った。なんだこの展開は。どうすればいいんだ。


「ごめん。お風呂場まで連れて行ってくれないかな?」


「え? ああ、はい」


「初めてのところだと、使い勝手がわからないから」


「ですよね」


 返事をしながら、僕はどこまでサポートしなければいけないんだろうと妄想が膨らむ。


「中まで、いいかな? シャワーの位置とかシャンプーの位置とか教えて」


「はい。滑らないように気を付けてくださいね」


「うん。ありがと」


 浴室は、タイル張りになっていた。ひととおり説明すると、彼女は「出てもらえる?」と苦笑した。


「あっ、すみません」


 僕は、速やかに退散する。濡れた状態のままベッドにもソファにも座ることができず、彼女がお風呂場から出てくるまでつったって待っていた。スマホでラブホテルの過ごし方を検索しようとしたが、生憎圏外だったため諦めた。


「ここ、水圧ちょっと弱めだった」


 美波さんが濡れた髪をタオルで拭きながら出てきた。もちろん、体はバスタオル一枚で隠している。白くて華奢な鎖骨が髪の隙間からちらちらと見える。


「洋服、ハンガーに干しましょうか?」


「ううん。自分でできるから大丈夫だよ。シャワー浴びてきたら?」


「はい」


 服を脱ぎ、浴室でシャワーを浴びる。念のため、隅々まで洗った。このあと、僕のするべきことはなんだろう? バスタオルを巻いて脱衣所を出ると、美波さんがコーヒーを淹れて待っていた。


「あったまるよ」


「ありがとうございます」


 ソファに腰掛けた。正面の鏡に二人の姿が映る。僕は上半身裸で、美波さんはバスタオル一枚。この気まずい状況に、誰か名前をつけてくれ。


 しばらく、沈黙がつづいた。


 空調の音がよく聞こえるほどには、僕たちの会話ははずまなかった。


 美波さんが淹れてくれたインスタントコーヒーは苦くて、最後まで飲み切ることができなかった。コーヒーなんて飲まなくても、僕の体はずっと火照っていたけど。


「こういうところ、初めてきた」


「ひぇ?」あまりにも驚いて、声が裏返った。


「洋介くんは?」


「僕も初めてですよ」


「彼氏がいたのにって思った?」


「はい」


「大事にしてくれてたのかな。私がまだ高校生だったから。いつでも受け入れる心構えはあったんだけどね」


 美波さんは、濡れた毛先をいつもみたいに指先でいじる。


「……」


 どう返していいかわからない。何もするなよ、という牽制だったら心配ご無用です。だから、死んだ彼氏の話なんて僕にしないで。


「初めてできた彼氏だったの」


 つまり、それは……。そういうことか、と勝手に正解を導きだす。何の暴露大会が始まったんだろう。彼女は、僕の動揺なんてお構いなしに話しつづける。


「同じ高校の二つ上の先輩で、私ずっと憧れてたの。陸上部の長距離選手で、ちょっと地味な感じが硬派に見えてよかったんだよね。彼が卒業するときに告白しようと思ったけどできなくて、高二の秋に行った大学のオープンキャンパスで再会して、それから連絡先交換して、デートの三回目に向こうから告白してくれたの。付き合おうって言われて、私すごく舞い上がっちゃって、もうそれから四六時中連絡取り合ってなきゃ無理ってくらい好きで。たぶん、私ちょっと重めな女なの。でも彼は、文句言わず付き合ってくれて、私のめんどくさいワガママも全部聞いてくれるとっても優しい人だった」


 彼女は一気に喋ると、コーヒーをずずっと啜った。


「何が言いたいかと言うと、とにかくケチのつけどころがない恋愛をしてたの。でも、彼は二十歳という若さで死んでしまった。私がいけないの。いつも、時間には余裕を持って行動しろって言われてたのに。あの日……。私が急がせてしまったのよ。彼は、私のせいで死んじゃった。彼の夢も未来も奪っちゃった」


 美波さんは、始めて会った日のように、体を震わせて泣いていた。僕は今、何をすべきなんだろう? 慰めてあげるのが正解なのか、ただ話を聞いて共感してあげるのが正解なのか、そんなやつ忘れさせてやるよと言ってあげるのが正解なのかわからない。


「僕にできることはありますか?」


 沈黙が怖くて口にしたけど、さらに長い沈黙がつづいた。


「洋介くん、私のこと好きになってくれてありがとう。すごく、うれしかった。今も、その気持ち変わってない?」


「もちろんです」


 答えると、美波さんは僕の顔を両手で包むようにして、自分の唇を押し付けてきた。少しずれて端のほうに触れただけだけど、それは紛れもなくファーストキスだった。彼女の涙が僕の頬を濡らした。


 美波さんの腕が僕の背中に回された。彼女の柔らかい肌を直に感じた。


 ――これはいったいどういう状況?


 脳と心が一致しない、不思議な感覚に襲われた。妙に頭だけが冴えていて、冷静だった。


「すみません。好きすぎて、どうしようもないです」


 彼女の手をそっとふりほどいた。


 十分だと思った。僕の気持ちを受け取ろうとしてくれただけでよかった。


 それから僕たちは、もう一度だけキスをして部屋を出た。


   


     *


 夜帰宅すると、マルマリは僕の顔をじーっと見て、何か言いたげにしっぽを空に向かってのばした。


「ただいま」


『凛々しい顔つきをしてるね』


「どういう顔をしていいかわからないだけさ」


『ふーん。意味深だね。どうだったの? 彼女との海デートは』


「男女が二人きりになれる場所に行ってきたよ」


『それは、ホのつく三文字のところかい?』


「そう」


『君にしては大胆だね』


「僕から誘ったわけじゃない。流れってやつだよ」


『まあいいさ。で、どうだったの?』


「下品な訊き方しないでよ。あくまでも、そういう目的で行ったわけじゃないんだ」


『じゃ、何しに行ったんだよ』


「雨宿り」


『まあ、付き合ってもいない男女がそこへ行くには、理由が必要だからね。でも、何もなかったわけじゃないんだろ?』


 マルマリのオッドアイが僕を責める。


「キスをしたよ」


『へえ。やるじゃないか。それから先は?』


「できなかったよ」


『どうして?』


「彼氏の話をされたんだ。思い出話。ケチのつけどころがない恋愛をしてたってのろけられちゃったよ」


『それで、萎えちゃったの?』


「いや、彼女は必死に僕の気持ちに答えようとしてくれてた。それだけで、十分だと思ったんだ」


『わからないな。なんでそのままやっちゃわなかったんだよ』


「なんていうか、儀式っぽかったんだよ」


『どういうこと?』


「何かを断ち切ろうとしてるような、終わらせようとしてるような悲しみが伝わってきて、今これを受け入れたら、全部が消えてしまいそうな気がしたんだ。僕を好きなわけじゃなくて、僕を好きになろうとしてるみたいな」


 帰りの道すがら、冷静になって考えると、そういうことなんじゃないかと思った。彼女には、好きすぎてどうしようもないと伝えたけど、僕の心の中はもっと複雑に入り乱れていた。


『もし彼女が、彼氏との思い出話なんかせずに、君のことが好きだって言ってきたら何か変わってたかな?』


「たぶんね」


『でもさ、君と抱き合うことで彼女が変われるのなら、それはそれで受け入れてあげるのが優しさだったんじゃない? そうでもしないと、彼女はいつまでも昔の彼を忘れられない』


「……」


 絶句した。マルマリに指摘されて、僕は自分の判断はまちがっていたのかもしれないと不安になった。


『いいね。葛藤してる君もなかなか素敵だよ』


 ふざけた口調でマルマリが言う。


「からかわないでくれよ」


『これまで君は、〝運命〟と〝葛藤〟と〝偶然〟のチケットを使った』


「チケットって何のことだよ」


『ジブンが考える、いい映画の法則(セオリー)ってやつさ』


「また出たよ。マルマリの映画理論」


『いいかい? よく聞いて。いい映画には、必ず奇跡が一回だけ起こる。それ以上起こしてはならないし、逆に何も起きないと観客は感動しない』


「もう、いいってば」


 投げやりにつぶやく。


『君と彼女の物語には、まだ奇跡は起きていない。だろ?』


「うん」


『奇跡の前には必ずピンチがくる。だけど、それはチャンスだと思って』


「ピンチをチャンスに?」


『そう。クライマックスはこれからだよ』


 マルマリは、得意げに言う。


「ちなみに、そのチケットはあとどれくらい残ってるの?」


『〝試練〟と〝苦悩〟と〝対決〟のチケットが待ってるよ』


「えー、嫌だよそんなの」


『いいかい? クライマックスは、主人公のV字回復が好ましい。どん底に落ちてからが勝負だよ。主人公は全てを失い、途方にくれる』


「そのあとは、どうすればいいんだよ。ハッピーエンドじゃなきゃ困るんですけど」


『全てを失ったときは、おまじないでも唱えるといい』


「あはは。なんだよそれ。適当だなぁ」


 思わず、大きな笑い声が出てしまった。


『リピートアフターミー。アグラオネマカーティシー』


「あぐら?」


『アグラオネマカーティシーだよ』


「アグラ、オネマ、カーティ、シー?」


『そう。覚えといてね』


「もし、僕が全てを失ったときは、おまえが慰めてくれるんじゃないのかよ」


『そのとき、ジブンがそばにいたらね』


「やめろよ、そんな意味深なフラグ立てないでくれよ」


 僕は、まるで信じていなかった。マルマリの言う、セオリーというやつも、冗談みたいなフラグも、謎のおまじないも。

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