第15話 [挑戦] 



     *


 翌日、僕は久しぶりに映画館へ向かった。


 葉山さんから連絡があったのだ。


「これは、私のひとりごとだけど。美波、今日の仕事終わりに映画に行くんだって」


 葉山さんは、僕に期待していると言っていた。美波さんの呪縛を解いてほしいと。僕にそんなことができるだろうか。


 映画館の入り口で彼女を待つ。八時半から上映される映画は、年上女性に恋焦がれる優男の話だという。さっき、待合室で予告が流れていた。


 かつこつと白状の小気味いい音が聞こえて視線を上げる。どうやら、僕の耳も彼女に馴染んできたらしい。


「美波さん」


 彼女は、はっと驚いた顔をして立ち止まった。


「洋介くん?」


「ビンゴ」


 ふわっと彼女はほほ笑んだ。


「葉山さんに聞いたんだ」


「ふふふ。祥子のおせっかい」


 嫌がってるそぶりがなくてほっとした。


「こないだは、ごめんね」


「何のことですか?」


「あ、ううん。なんでもない」


 美波さんはすぐに話を打ち切った。「洋介くんには関係ない」と言ったことに対して謝ってきたのか、僕をふったことについて謝ってきたのかわからなかった。


 どちらにしても、掘り返したくない話なので、それ以上訊くのを止めた。


「じゃ、行きましょうか。僕の腕につかまってください」


 気まずくならないように、努めて明るくふるまった。


「ありがとう」


 彼女の手が僕の腕にからみつく。久しぶりの感覚に、顔が綻ぶのがわかった。平静を装いながら、エスコート役に徹する。


だけど……。


「ぬふっ」


 あ、心の声が漏れ出ちゃった。


「なーに、今の声」


「あまりにもうれしくて」


「え?」


「美波さんにこうして会えたことですよ」


「どうしたの? 素直すぎてびっくりしちゃう」


「素直でいようって決めたんです。自分の気持ちに正直でいようって。だから、美波さんが誰を好きでもいいんです」


「なんだか、モテてる気分」


「モテてるでしょ」


「へへへ。照れますね」


 なんだか心地いい会話だった。テンポがいい。


「洋介くんの声っていいよね」


 唐突に褒められて、戸惑った。


「急にどうしたんですか?」


「夏祭りのステージ、私聴いてたんだよ」


「うわっ。恥ずかしい」


「すごく良かった。話すときの声と全然ちがうからびっくりしたけど」


「ちがいますか?」


「うん。歌ってるときの声はね、艶っぽいの」


「そんなの、初めて言われましたよ」


「あ、もしかして照れてる?」


「はい」


 顔が火照るのが自分でわかった。


「喋ってる声もいいのよ。とくに、囁きボイスがね。こう、お腹の奥に響く感じで」


「お腹?」


「そう。この辺がね、じーんって」


 彼女が左手で下腹部を押さえた。


「じゃ、ポップコーンとドリンクでも買いに行きますか」


 わざと、耳元で囁いてみた。


「くすぐったいな」


「ええ。ダメでした?」


「ううん。良しとしとこ」


「なんすか、それ」


「早く行こう」


 美波さんが僕の腕を引っ張って歩き出す。この関係だって決して悪くない。だって、彼女は死んだ彼以外を好きにならないんだから。ある意味、安全だ。僕は、このポジションさえ死守できればそれでいい。そんなふうに考えていた。


 いつものように、北海道バター醤油とキャラメルのハーフ&ハーフを注文する。


「あー、この匂いたまんないね」


「うん。絶妙ですよね、映画館のポップコーンって。味も温度も食感も」


「そうそう、バランスがいいの」


 美波さんは、目の下にえくぼを作って笑う。それが、とってもかわいい。


「あ、入場ランプ点きましたよ。入りましょう」


 スマートにエスコートする。


「ちゃんと、スクリーン観なきゃダメだからね」


「ははは。だって、好きな人がどんな顔で映画観てるか気になるじゃないですか」


「あ、じゃあ、鑑賞代いただこうかな」


「ええ。お金取るんですか?」


「もちろんよ。お高いのよ」


「じゃ、チラ見で我慢します」


「ダーメ。チラ見も禁止」


 予告が流れている間、僕たちはいつになくはしゃいでいた。後方に座っていた、カップルから咳払いされるほどには目障りだったらしい。でも、僕はその時間が最高に幸せだった。


 本編が始まるころには、ポップコーンはなくなっていた。アメリカンラブコメの主人公は、最後の最後にヒロインからとんでもない告白をされる。自分は人間ではないと。


 まさかの、ファンタジー展開に驚いた。


「どうでした?」


「うん。まあまあかな」


「ですよねー。最後のあのオチはちょっとずるくないですか?」


「そう。全然気づかなかった。洋介くんは、伏線に気づいた?」


「うーん。言われてみればっていう程度ですね。ちょっと弱いかな」


「やっぱり、そうなんだぁ」


 僕たちは、あーだこーだと感想を言いながら駅までの道を歩いていた。


 生ぬるい夜の風が僕たちの間をすり抜けていく。美波さんは興奮すると、腕に力が入る。


「あ、ごめん。痛かったでしょ」


「ううん。全然平気です」


もう少し強く握ってくれたら、胸が当たりそうだ。


「なんか、お腹すいたね」


「ラーメンでも食べて帰ろうか?」


「いいですね」


 その時、ものすごいスピードでバイクが通り過ぎていった。きーっという激しい音が鳴り、信号で急ブレーキを踏んだ。荒々しい運転。次の瞬間、僕の腕に感覚がなくなった。ちがう。美波さんが腰を抜かしていたのだ。


「大丈夫ですか?」


「はあはあはあ……」


 美波さんの呼吸が荒くなる。きっと、五年前の事故を思い出したんだろう。僕は、どうしていいかわからずに、一緒にしゃがみこんだ。


「大丈夫ですよ。落ち着いて。ゆっくり息を吸って、吐いて」


 彼女の背中を優しくさすってあげる。


「はっはっはっはっはっ……」


 呼吸はおさまるどころか早くなる。


「大丈夫、大丈夫だから」


 何もできない自分が歯がゆかった。


「僕がついてるから。心配しないで」


 彼女の肩甲骨に手を回して、抱きしめるような体勢をとった。


「ごめ……」


 涙声で彼女が謝ってくる。それは、僕に対してなのか、亡くなった恋人に対してなのかわからなかった。


「喋らなくていいから。ゆっくりでいいから。大丈夫大丈夫……」


 まるで、自分に暗示をかけるみたいに唱えつづけた。


どのくらいそうしていただろう。少しずつ彼女の呼吸が落ち着いてきた。


「立てますか?」


「うん」


「ありがとう」


 彼女が見上げる。


「ううん。いいんです」


 彼女をそっと抱きしめた。お互いの心臓の音が優しく伝わってくるみたいだった。


 そうして、僕たちの夏は過ぎて行った。

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