第14話 [成長]
*
目を覚ましたのは昼すぎだった。久しぶりに寝坊した。
慌てて、机に向かう。遅れた時間を取り戻さなければと参考書を開いたが、頭がズキズキと痛んで何も入ってこなかった。
『ついに、知ってしまったんだね』
マルマリが言う。
「うん。彼女の涙の理由も。それから、好きな人の正体も」
『それで? 君は真実を知って怖気づいたんだ。彼女を振り向かせることはおろか、癒してあげることもできないと』
今日のマルマリはいつもよりいじわるだ。
「だって……」
『だって何? 自分はまだ高校生だからとでも言う気かい?』
「じゃあ、どうしろって言うんだよ。好きな人はもうこの世にいないんだぞ。それでも彼女は思いつづけてるんだぞ。五年も。きっとこれからも思いつづけるんだ。僕の入る余地なんて最初からなかったんだ」
『君はわかっているのにわからないふりをしようとしているだけじゃないの?』
「どういうこと?」
『諸行無常。形あるものはいつか壊れる』
「母さんのことを言ってるの?」
『君は大切な人を失くす痛みを知っている。知っているのに、そこから目を背けつづけてきた。君の父さんがそうしたように』
「ちがう。父さんは耐えたんだ。僕に泣き顔ひとつ見せずにね。立派だと思わない?」
『それは立派とは言わないよ』
「じゃ、なんだよ」
『君に、どんなに辛くても泣いてはいけないと強い刷り込みを与えた。そして、それが正しいことだと君は思い込んだ。死んだ人を密かに思いつづける硬派な男を、周りはかっこいいと思っただろうね。素敵な人だと、立派だと褒め称えただろうね』
「何が言いたいんだよ」
『それが本当の父さんの姿だと思うかい? 君が見ていないだけで父さんだって人知れず泣いていたとはどうして考えないの? 君の前だけでは泣かないように歯を食いしばって耐えてきたとは思わない?』
「父さんが? 泣く?」
そんなわけない。父さんが泣くはずがない。
『彼女も今のままではつらいはずさ。いつかは、立ち直って前を向いて歩いていかなければいけない。ずっと、死んだ恋人を思いつづけるなんてバカげてるよ』
「おまえに何がわかるんだよ。猫のくせに」
『人の気持ちはいつか変わる。だけど、それは決して悪いことばかりじゃない。みんな、幸せになるために選択してるだけなんだよ』
「うるさい」
僕は、部屋を飛び出して、階段を駆け下りると店に入った。
母さんの名前がついた店。じいちゃんが託した大事な店。父さんと母さんの思い出がつまった店。父さんが必死に守りつづけた店。
僕は、何を期待しているのだろう。父さんに、おまえはまちがってないと肯定してほしかったのかな。
息を切らしながら、突っ立っていた。
「あ、洋介くん」
「岬さん、どうしたの? 今日、定休日だよね」
岬さんは浴衣姿で、いつもより色っぽい雰囲気だった。
「うん、ちょっとね」
恥ずかしそうに、かんざしに手をやる。
「洋介。父さんたち、これから夏祭りに行くんだ。お前も行くか?」
僕は違和感を覚えて、首を振った。
「いや、僕は勉強があるから」
「そっか。がんばれよ」
父さんは、ほっとした顔で言った。
「行ってらっしゃい」
しばらく動けなくて、その場に立ち尽くしていた。
気づくと、足元にはマルマリがいた。
「そういうことなのか?」
僕はつぶやくようにして訊ねる。
『今まで気づかなかったの?』
「そうかなと思うことはあったけど、そのたびに打ち消してきたから」
時給が安いという理由で辞めていく人が多い中、岬さんだけは残りつづけた。最初は単純に、この店が好きだからだと思っていた。だけど、岬さんが好きなのは父さんだったんだ。
『どこまでもガキだね、君は』
「父親のそういうのは見たくないよ」
『わかるけどさ、みんな幸せになりたいんだよ』
「じゃ、母さんは? 死んだ人はどうなるんだよ」
『どうもならないよ。だけど、死んだ人を忘れるわけじゃない。大事なことに変わりはないさ』
「そんなの悲しすぎるよ」
『もっと大人になれよ。父さんが母さんを嫌いになったわけじゃないんだ』
「でも……」
大人になりきれない僕は、駄々っ子みたいに意地を張った。
『行かないの? 夏祭り』
「行かないよ」
父さんと岬さんがイチャついてる姿なんて見たくない。
『りんご飴食べたいなぁ』
マルマリが甘えた声を出す。
「ダメだよ。猫なんだから」
『イカ焼きでもいいよ』
「ダーメ」
『ちぇっ』
マルマリは、生意気な態度でぷいっと顔をそらす。
『雰囲気だけでも味わいたいな』
「猫のくせに」
『ねえ、行こうよ』
「……」
マルマリのしつこさに負けて、のろのろと店の前を歩きだす。商店街は歩行者天国になっていて、子供連れの家族やお年寄りがうちわを片手に、祭り会場へ向かっていた。ふいに、目を閉じたまま、白線の上を歩いてみたくなった。すぐに、怖くなって目を開けた。人の声や気配が近づいてくるだけで、前に進めなくなる。彼女の見てる世界はどんなだろうと想像した。
『どうしたの?』
「べつに」
『これって、夏祭りに向かってんだよね?』
「ただの散歩だよ」
『ふーん』
マルマリは、とことこと僕の真横をついてくる。こうして、二人で歩くのは初めてだったなと思いにふけっていると、後方から僕を呼ぶ声がした。
「よーう、洋ちゃん」
振り返ると、ケンケンだった。
「あっ……」
ケンケンの少し後ろに、浴衣姿の春口さんと咲坂さんがいた。どういう流れでこの三人で夏祭りに行こうとなったのだろう。もしかしたら、昨日僕が断ったせいかもしれない。
「安藤くんもお祭りに行くの?」
春口さんが訊いてきた。その後ろで、気まずそうに咲坂さんがうつむいていた。
「あ、いや。猫の散歩してただけ」
変ないいわけをする。昨日僕は、どういう理由で咲坂さんの誘いを断ったのかまるで覚えていない。ただなんとなく、察してねという空気を作って帰ってきてしまったような気がする。咲坂さんは、美波さんの存在を知らないので、どう解釈したかはわからないけど。
「洋ちゃん、猫は散歩しなくていいんだよ」
ケンケンは空気を変えようと、陽気に突っ込んだ。Tシャツにハーフパンツとビーチサンダル。僕と全く同じアイテムなのに、ケンケンが着るとモデルみたいにかっこよくなるのはなぜだろう。
「あ、この子が噂の凶暴な猫ちゃん?」
咲坂さんがしゃがみこんでマルマリの頭を撫でようとした。
『……』
マルマリは、何か言いたげに僕を睨んでくる。
「かわいい。おとなしいじゃない」
「いや、まあ……」
凶暴な猫だなんて嘘をついてごめん、と心の中で謝ってみる。きっと、通じているはずだ。
「じゃ、ぼちぼち行きますか?」
ケンケンがゆっくり歩き出す。そのあとを春口さんが追う。編み込んだ髪を撫でながら、アスファルトの上をカランコロンと下駄を鳴らす。
ああ、と僕はその健気な背中を見て嘆いた。鈍感な僕が見てもわかりやすい構図だった。矢印の方向がみんなバラバラで、片道切符状態になっている。恋って、なんでこんなにうまくいかないんだろう。自分の好きな人が自分のことを好きになってくれるなんて、夢みたいな話なんだなと思った。
「行こう、安藤くん」
咲坂さんが立ち上がってぎこちなくほほ笑んだ。
「うん」
言われるがまま、歩き出した。気まずい。気まずくて、いつも以上に会話が思いつかない。
「名前、なんて言うの?」
「マルマリ」
「へえ。かわいい」
マルマリは、何も言わず僕たちの真横をとことことついてくる。
屋台が並んでいる通りまできたところで、ケンケンが立ち止まった。
「祥子姉ちゃん?」
「ああ、あんたも来てたんだ」
「あ、その人って……」
ケンケンが言葉を切った。
「うん。美波」
美波さんはいつもみたいに、葉山さんの腕をつかんで空を見つめていた。
「こんばんは」
ケンケンが言うと、美波さんは会釈をした。それに倣うように、春口さんも会釈する。
「私のいとこと、彼女?」
葉山さんがケンケンと春口さんを紹介する。
「いや、みんなクラスメイトだよ」
ケンケンが僕たちの方に視線をやる。
「ああ、洋介くんも」
葉山さんが僕に気づいて、眉をひそめた。隣にいた咲坂さんが会釈する。なんだか、変なメンツが一堂に集ってしまった。脳内で相関図を作ると、複雑でややこしかった。
「じゃ、またね。私たち、あっちで花火見るから」
葉山さんが状況を察して、その場を離れようとする。
「あ、うん。バイバイ」
ケンケンが何か言いたげに、僕を一瞬だけ見た。
「……」
僕は、ひとことも声を発することができなかった。美波さんがこの状況をどれくらい理解できただろうか。後で、葉山さんに聞くのかな。僕の隣に、浴衣を着た女の子がいたって。
それを彼女はどう思うのかな。
だんだん、人が増えてきた。固まって行動しないと、そのうち誰かがはぐれてしまいそうだ。
「なんか、買う?」
ケンケンがみんなに訊く。
「私、喉乾いた。かき氷食べたいな」
「いいねいいね。行こう」
僕は、みんなの後ろをとぼとぼとついていく。複数で歩きながら喋るのはけっこう難しい。
「安藤くん、何味?」
「コーラ」
手際よくケンケンが注文してくれて、春口さんがみんなから三百円ずつ徴収する。咲坂さんは、ウェットティッシュでみんなのフォロー。なかなかの連携プレイ。僕は、いまひとつ楽しみ方がわからず、みんなについていくのがやっとだった。
「あ、ステージでカラオケ大会やってるみたい」
「飛び込みもOKだって」
咲坂さんと春口さんが指さす。
「洋ちゃん、歌って来いよ」
ケンケンが煽る。
「いやいいよ。恥ずかしいってば」
「こういうときは、歌うのが一番だって」
ケンケンの言う「こういうとき」の定義がいまいちよくわからない。
「はーい。歌いまーす」
ケンケンが僕の腕を強引にステージのある方まで引っ張っていく。「飛び入り参加希望です」ケンケンが手を上げる。「こっちです。こっち」と僕の方を指さす。係の人にステージ裏に連れていかれ、早口で手順を説明された。何がなんだかわからないまま、背中を押され、ステージ中央に立っていた。
「じゃ、お名前とご年齢を。あと意気込みをどうぞ」
司会進行役の人がマイクを向けてきた。ライトが当たってまぶしい。
「えっと、安藤洋介、高校三年生です。がんばります」
もうわけがわからず、自分ではない誰かがしゃべっているみたいな感覚だった。変に体が
高揚して足元がふわふわと浮いている感じ。
「それでは歌っていただきましょう。バックナンバーで『水平線』」
イントロがかかってすぐに目を閉じた。あまりの観客の多さを目の当たりにして怖くなったからだ。何度も歌った曲だから、歌詞は見なくても歌える。自分の思いと歌詞がリンクする。この曲は失恋ソングではないけれど、なぜか今の心境と重なった。
歌い終わって目を開けると、拍手が僕に向けられていた。嬉しいというより、やっぱり恥ずかしいという思いが強かった。
優勝は、めちゃくちゃ拳をきかせて石川さゆりの『天城越え』を歌ったおばちゃんだった。僕は『がんばったDe賞』をとり、副賞としてカラオケボックスの無料券をもらった。
ステージ裏の階段を下りていくと、ぱちぱちと手を鳴らす音が聞こえた。
「安藤くんおつかれ」
咲坂さんが拍手で迎えてくれた。彼女の足元には、マルマリがいる。君は、これからどうするんだ? と言いたげな表情で見つめられた。
「ありがと。また、みんなで行こうね」
無料券をヒラヒラさせながらはにかんだ。
「あれ? 二人は?」
ケンケンと春口さんの姿が見あたらない。
「どっか行っちゃった」
「探そうか」
人込みをかき分けるように歩き出す。さっきの高揚感がまだ残っていて、歩くスピードが増した。
「待って」
咲坂さんが僕の手首をつかんだ。そっと、その手をふりほどく。たぶん、正解は咲坂さんの手をつなぐことだ。わかっているけどできなかった。
「……」
こういうときは、どうすればいいんだろう。さっさと帰った方がいいのかな。とりあえず、きょろきょろと辺りを見回して何事もなかったように歩き出す。
視線の先に、春口さんとケンケンがいた。おーい、と上げた手をそのまま下ろした。二人は、人通りの少ない木陰で向き合い、シリアスな表情を決め込んでいる。
「ごめん」
ケンケンがつぶやいた。はっきりとは聞こえないけど、そういう雰囲気だった。
「好きな人でもいるの?」
「いや、いない」
「じゃ、どうして?」
僕は、勝手に読唇術で二人の会話を予想した。ここは、助けに入るべきだろうか。それとも、そっと見守った方がいいのだろうか。
気まずそうに立ち尽くす二人。そろそろ、声をかけたがいいかと一歩踏み出したとき、背中で、花火の音がどーんと響いた。それは、僕の胸を打つように響いた。
はっとみんなが空を見上げる。
だけど僕は、頭上を見上げることができなかった。
美波さんと一緒に見たかったから。
一緒に見ると約束したから。
どうして僕は、今彼女と一緒にいないんだろう。
*
翌日、物音がして目を覚ました。
どうやら、父さんは朝帰りをしたらしい。僕と目を合わせるのを嫌がって、「おはよ」とそのまま洗面所へ歩いていく。
父さんは、いつものように慌ただしく店の仕込みを始めた。
そんな何事もなかったかのような顔で、母さんの大事な店に入らないで。幼い僕が泣いている。
「父さん、岬さんと結婚するの?」
「なんだよ急に」
「急じゃないんでしょ? いつから付き合ってるの?」
「また今度話すよ」
「ねえ、ひとつだけ教えて」
「何だ?」
父さんが振り向いた。
「母さんのことは、今どう思ってるの?」
「変わらないよ」
「どういうこと? 二人とも好きってこと?」
「そういうことじゃない」
「ちゃんと説明してよ」
「ごめん。言葉ではうまく言いあらわせない。だけど、どっちかを選ぶとかそういう単純なことじゃないんだ」
「わかってるよ。でも、やっぱり父さんには貫いてほしかったよ」
「店の準備あるから」
父さんは、身支度をして家を出て行った。
僕は、何を期待していたんだろう。いつまでも母さんを思いつづけてほしかったのかな。少なくとも僕は、それを美しいと感じるほどには子供だった。一方で、美波さんの心のうちを知りたいとも思った。雪解けのように、いつか他の人を好きになったりするのかなって。
『おはよ』
マルマリが起きてきた。
「あ、おはよう」
『昨日は、ついにご対面しちゃったね。まさか、ダブルヒロインが顔をそろえちゃうなんてね』
「美波さんは、気づいてなかったと思うよ」
『目が見えなくてよかったってほっとした?』
「そんなこと思ってないよ」
『フラれてすぐ、他の女の子と夏祭りデートするような軽いやつって思われなくてよかったって?』
「だから、そんなこと思ってないって」
僕の心を見透かすようなオッドアイが憎らしい。
『ごめんごめん。ちょっとイジワルしたくなっただけさ』
「おまえはいつだってそうじゃないか」
『失礼だな。ちゃんと、空気読んでるつもりなんだけど』
「知ってるよ」
『でも、君が悩む気持ちは理解できたよ』
「はあ?」
『だって、二人ともかわいかったじゃないか。ドーリーな感じの彼女も、アンニュイな感じの彼女も』
「猫のくせに品定めなんて百年早いんだよ」
『おっと、元気出てきたじゃん』
「からかうなよ。人並みに、悩んでるんだから。自分のふがいなさを」
『君。なんだか、大人っぽい表情するようになったね』
「どこがだよ」
『流れとしては悪くないと思うよ』
「なんの?」
『君の成長物語としても、恋物語としても。物語には障害はつきものさ』
「映画を観るみたいな感覚で言うなよ。こっちは必死なんだから」
『いいねぇ。そうこなくちゃ』
マルマリは、あくまでもストーリーテラーとして僕の物語を見守りたいらしい。
「僕の恋物語は、まだこれから好転する可能性はあるのかな」
『弱気だねぇ』
「そりゃね。僕には勝ち目はないよ」
『君はさ、父さんと岬さんのことを知って、本当のところどう思った? まだ、裏切られたような気持ちでいるの?』
「たぶん、僕は父さんに勝手な理想を押し付けてたんだと思う。それが美しい物語と信じて疑わなかった」
『わかるよ、君の気持ちは。でも、いざ自分が当事者になってみるとどうだい? 岬さんの気持ちがわからないかい?』
「つまり、美波さんを思う僕の気持ちと、父さんを好きになった岬さんの気持ちが同じだと言いたいんだね」
『そう』
「切ないね。死んだ人から気持ちを奪うことなんてできないし、忘れさせることもできない。自分だけを愛してなんて一生口に出すこともできない。それでも好きだから、二番でいいから隣にいさせてくださいって? ああ、つらいね」
岬さんの心情を想像すると、僕の気持ちと重なった。
『父さんだって、葛藤したと思うよ』
「うん。それでも岬さんの気持ちに答えようとしたんだ」
『例の彼女だっていつかは別の人を好きになる。それが、君かもしれないってことさ』
「ふられたんだよ、僕は」
『いい映画の法則って知ってる?』
「なんだよ急に」
『いいから答えて』
「人の心を動かす作品」
『ちがうよ。いい映画っていうのは、必ず二転三転するんだ。観客をあきさせないようにね』
「大どんでん返し?」
『そう。まだ、君の勝算はある』
マルマリはにやりと笑った。
まさか、本当に二転三転するとは思ってもいなかったけど。
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