第13話 [転換]
*
それからは、勉強に没頭した。できるだけ、余計なことを考えないようにした。店の手伝いも最小限に減らし、とにかく参考書を頭に詰め込んだ。七時から二十二時時まで、一時間集中したら五分休憩をとる。眠くなったら、突っ伏さずに十五分だけ仮眠をとる。食事は片手でできるものを口にし、排せつの時間も単語を覚えたり、とにかく頭の中を受験勉強でいっぱいにした。
その生活に慣れてくると、少しだけ心にも余裕ができた。
『どこに行くの?』
マルマリが訊いてきた。いつもはそんなこと訊かないくせに。
「どこだっていいだろ」
『ほーん。デートか?』
ふんぞり返って生意気な態度で訊いてくる。
「だったらなんだって言うんだよ」
咲坂さんから、話があるから近くのファミレスで待ってるとメッセージがきた。たぶん、告白の返事を聞かせてほしいと言ってくるのだろう。
『あのクラスメイトの子といい感じなんだ?』
「べつに。おまえには関係ないだろ」
『ひどいこと言うな。例の彼女のことはもう諦めたの?』
「言われたんだよ。こないだ彼女に。洋介くんには関係ないって。もう、終わりなんだよ」
『何が終わったの? 始まってもないのに』
「僕が勝手に舞い上がってただけなんだよ。彼女はただ、安全なアテンドがほしかっただけ。それなのに、勘ちがいして告白して……。向こうからしたら、いい迷惑だよね。そんなつもりなかったのに案件だよ」
『何があったんだよ。こないだから変だよ君』
「もういいんだよ。彼女に好きな人がいようが、ストーカーまがいのおじさんがいようが、金を無心する父親がいようが僕には関係ない。彼女に拒否られたら、もうどうしようもないだろ」
猫相手に、感情をむき出しにしている自分が恥ずかしかった。
『ふーん。だから、手ごろでまあまあかわいいクラスメイトの女子とつきあうんだ』
「なんだよ。その言い方」
『だってそうじゃん。こないだまで、盲目の年上の美女にお熱だったのに、フラれたらあっさり乗り換えるんだ。君はもう少し見込みのある男だと思ったのにがっかりだよ』
「猫にがっかりされる覚えはない」
『一途じゃないやつは嫌いだ』
「もう傷口がぱっかーんって割れてるの。何かで応急処置させてよ」
『まだまだだよ。傷ついて傷ついて強くなれ』
「スパルタだな」
『君は、そのまあまあかわいい同級生の女子のことが好きなの?』
「いい子だなとは思う」
『ジブンが聞いてるのは、好きかどうかだよ』
「ありがたいなって思う。僕みたいのを好きでいてくれることに」
『君は嘘をついている。自分自身に嘘をついてはいけない』
「だってはっきりフラれたんだぞ。好きな人がいるって。付き合ってる人はいるけど、倦怠期なのって言われた方がまだましだよ」
『そういう女は、誰にだって言っている。好きな人がいると言った彼女は正しい。でも、君のことを嫌いと言ったわけではない』
「嫌いではないイコール好きにはならない。僕は、安パイの男なんだ。単なるエスコート要因さ」
『相手に好きな人がいたら、諦めなきゃいけない決まりでもあるの?』
「ないよ」
僕は小さく言い返して部屋を出た。ファミレスへ向かう途中、脳内でシミュレーションしていた。未だに答えは決まっていない。もし、正式に付き合ってほしいと言われたら、僕はなんと答えるのだろう。自転車のペダルをこぎながら考えつづけた。
ファミレスの店内は、冷房がきいていて気持ちがよかった。火照った体と脳を落ち着かせてくれる。店員に話しかけられる前に、咲坂さんの座っている席に向かった。窓側の席にいるとメッセージに書いてあった。
僕に気づいた咲坂さんが笑顔で手を振る。
「暑いね」
「うん」
ぎこちなく挨拶をかわす。
「何かたのんだ?」
「うん。ドリンクバーを」
カルピスの入ったグラスが載っていた。
「あ、じゃ僕もそれにしようかな」
呼び出しボタンを押して、注文する。
「じゃ、ちょっと注いでくるね。なんか、いる?」
「ううん。まだ、あるから」
咲坂さんは緊張しているらしく、僕の顔をまともに見ようとしない。
氷を二つ入れたところで、「あっ」と隣の人が声を上げた。
「ん?」
「やっぱり。洋介くんだ」
「あ、こんばんは」
視線を向けると、葉山さんだった。
「もしかして、健司と来てるの?」
「いや、えっと……」
咲坂さんの方をちらりと見る。
「ごめんデートだった?」
「そんなんじゃないですけど」
「ふーん。美波に告げ口しちゃおうかなぁ」
葉山さんはいたずらっぽい口調で僕を見る。
「いや、僕、美波さんにフラれたんで……」
「え、告白したの?」
なんだ、話してないのか。やっぱり、その程度の男だったんだ。
「はい。好きな人がいるってきっぱり言われました」
「美波、好きな人がいるって言ったの?」
目を丸くして訊いてくる。
「はい」
「ちょっと、こっち来て」
葉山さんは、僕をトイレの前に誘導した。
「どこまで、美波から聞いてるの?」
葉山さんが言わんとすることがよくわからなかった。
「一年前から今の店で働いてることと、好きな人がいるってことと、これから目の手術するってことと、みんなに迷惑かけたから恩返ししたいっていうことを聞きました」
「それだけ?」
「はい」
「美波、まだ彼のことを好きだって言いつづけてるのね」
「どういうことですか?」
「美波、高三の五月に交通事故に遭ったのよ。当時付き合ってた大学生の彼氏とバイクに二人乗りしてて。好きな人っていうのは、たぶん彼のことだと思う」
「その彼は?」
「亡くなったわ。即死だった」
「……」
「五年も前のことなのよ。たった数か月付き合っただけの人よ。もういいんじゃないって思わない?」
「それぐらい好きだったってことなんじゃないですか?」
僕は、彼女を擁護するみたいに言い返した。
「ほらね。みんなそう言うの。だから、いつまで経っても美波は前に進めない。周りがね、許してくれないの。いつまでも死んだ恋人を思っている健気な女って方が美しいから。でも、不幸だと思わない? あの子まだ二十二歳なのよ」
僕は、そのとき父さんの顔が浮かんだ。父さんは、今も母さんだけを愛している。それを不幸だなんて思わないし、むしろ素敵だと思う。葉山さんは、それを周りのせいだと言った。
「洋介くんのことは、少し期待してたの。美波、嬉しそうに話すんだもん。目が見えるまでにしたいこと、だっけ。やっと、昔の美波に戻ってきたと安心してたとこなのに」
「あの、ひとつ訊いていいですか?」
僕の中ではなんとなく答えが出ていたけど、確かめたかった。
「何?」
「美波さんは、どうして映画館で泣いてたんでしょうか?」
「ハンカチを渡した日ね」
「はい」
「交通事故に遭った日。つまり、彼の命日だったからよ。二人はね、映画館へ向かう途中に事故にあったの。美波が準備に遅れちゃって、彼がいつもより急いだんだって。だから、未だに自分のこと責めてるのよ」
「それで、泣いてたんですね」
「うん。あの子が映画館に行くのは戒めのためよ。ずいぶん回復して、やっと純粋に楽しめるまでになった。立ち直るまでにすごく時間がかかったのよ。だけど、あの日はダメだった。偶然にも、リバイバル作品が上映されてたんだって」
「ホラー映画の?」
「そう。あの日も、同じ映画を観る予定だった」
ようやくわかった。彼女が泣いていた理由が。だけど、全くスッキリしなかった。
「ねえ、洋介くん。お願い。あの子を呪縛から解いてあげて。あの子を自由にしてあげて」
「そんなこと、僕にできま……」
言い返そうとしたところで、「安藤くん」と声がした。振り向くと、咲坂さんがいた。
「どうしたの?」
心配そうに訊ねてくる。
「あ、えっと、ケンケンの従妹の葉山さん」
「どうも」
二人は挨拶を交わす。
「邪魔してごめんね。またね、洋介くん」
葉山さんはバツが悪そうにトイレへ入っていった。
「何、話してたの?」
咲坂さんが眉をへの字にして僕を見上げる。不安と攻撃に満ちた目で。
「あ、グラス置きっぱなしだった」
僕は、彼女の質問を無視してドリンクバーへ戻った。溶けた氷が入ったグラスの中へ、そのままコーラを注ぐ。
「捨ててから、新しいのをもう一回注いだら?」
「うん」
再び席へ戻ったけれど、僕はずっと上の空だった。葉山さんの言っていた言葉を思い出す。呪縛ってなんだ? 自由ってなんだ? 僕にできることはあるのか?
「あのね、安藤くん。聞いてる?」
咲坂さんが語気を強めた。
「あ、ごめん。なんだったっけ?」
「もういい」
彼女は諦めたようにため息をつくと、窓の外を見つめた。
「ねえ、明日一緒に夏祭りに行かない?」
「ああ、うん」
「行けるの?」
「あ、いやぁ」
「どっち?」
「ごめん」
僕は、ひたすら謝った。気を持たせて中途半端な優しさを見せたことを反省した。咲坂さんは、「またね」と手を振って帰って行った。情けない自分が嫌になった。
その日、僕は一睡もできなかった。
葉山さんから聞いたことをひたすら反芻して、涙の理由なんか知らなければよかったと思った。
気持ちよさそうに眠るマルマリの横で、涙の流し方を思い出そうとしていた。
だけど、夜が明けても僕の目からは一滴も涙は出なかった。こんなに苦しいのに、どうして出ないんだろう。諦めたころ、ようやく睡魔が襲ってきた。
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