第11話 [自棄] 


     *


 


 失恋で学校を休むなんて、自分に酔っているイタいやつがすることだと思っていた。まさか、自分がそうなってしまうなんて数か月前の僕には想像もできなかっただろう。


「よう、洋ちゃん」


心配したケンケンがお見舞いに来てくれた。


「ああ、ごめん。わざわざ」


「いやぁ、さすがに三日連続は重症だなと思って」


「来週には行けると思うから」


「どうしたの? 風邪?」


「ううん」


 言葉を濁していると、マルマリが部屋に入ってきた。


「ああ、こいつか。喋れる猫って前に言ってた。おら、喋ってみろよ」


 ケンケンがマルマリの頭を優しく撫でた。


『……』


 マルマリは、嫌がるでも喜ぶでもなくただ目を細めるだけで何も発さない。


「なんだ、喋らないじゃん」


「喋るんだって」


 ベッドから起き上がりながら言う。


「おいで、マルマリ」


 声をかけたのに、マルマリは僕の顔を見ずに部屋から出て行った。


「冷たいな。あはは」


 ケンケンが愉快そうに笑う。


「プリン持ってきたんだけど、食べる?」


「ありがとう」


 ケンケンはレジ袋をテーブルの上に置いた。コンビニで買ってきてくれたと思ったら、インスタとかでよく見かける話題のプリンだったので驚いた。


「これって、あれでしょ? 塩かけて食べるやつ」


「そうそう。花塩プリン。食べたことある?」


「ないよ。まさか、わざわざ買ってきてくれたの?」


 花塩プリンを買うには、芥屋のほうまでいかないといけない。


「もちろんだよって言いたいとこだけど、家の冷蔵庫にあったから勝手に持ってきた」


「え? いいの?」


「たぶん、母ちゃんがお客さんからもらったものだと思う。大丈夫大丈夫。うちは、早いもの勝ちっていうルールだから」


「いいのかな」


「気にしないで。こういうときに食べるからいいんじゃないか」


「どういうとき?」


「失恋でもしたとき」


「え、なんで?」


 ズバリと言い当てられて驚いた。今まで、そんな話は一度もしたことがないのに。


「まあ、とりあえずプリン食べようぜ」


 瓶をかちゃんと鳴らして、「かんぱーい」のポーズをとる。


「いただきます」


付属の塩をぱらりとかけて、一気にスプーンですくって食べた。「潮の粒」がカリッと食感よく、ほんのり香ばしい軽めのカラメルソースも相性抜群でうまかった。


「洋ちゃんの家に来たのなんていつぶりかな」


「小六以来だと思うよ」


「そっか、そんな経つのか」


 ケンケンはしみじみと思い出を噛みしめながら、部屋をきょろきょろと見回した。


「でさ、なんでケンケンはその……僕の……欠席の理由がそれだと思ったわけ?」


 ぼそぼそとつぶやきながら、話を巻き戻す。


「ほら、前にうちの母ちゃんが働いてる店のクーポン渡したの覚えてる?」


「うん」


「美波さんだっけ? 目が見えない女の人。うちの母ちゃんの店の従業員なんだよ」


「あ、へえ。そうだったんだ」


言いながら、頭を整理する。どこでどうつながったら、僕が美波さんに失恋したことになるんだろう。まさか、美波さんが言いふらしてるのだろうか。高校生をたぶらかすのってちょろい、みたいな……。


「そこに、祥子さんって人も働いててさ」


「ああ、知ってる。葉山さんだっけ」


「そう。俺の従妹の姉ちゃんなんだよ。二人で、この店に食べに来たことあるんだろ?」


「うん」


「で、店の息子が高校三年生だから、俺に知ってるかって訊いてきたってわけ」


「なるほど」


 数学の証明問題でも解くみたいな感じでケンケンが説明する。


「洋ちゃんが美波さんに映画館でハンカチ貸して、それで返しにきたのがきっかけだったとかなんとか」


「その先は?」


「いや、とくには」


「それだけの情報で、なんで僕が失恋したと思ったわけ?」


「なんとなくだよ。顔つきというか、雰囲気というか、洋ちゃん最近変わったよな」


「うそ。そんなことないよ」


 思わず、自分の顔に手をやった。


「ふはは。やっぱ、そうなんだ」ケンケンが嬉しそうに手をたたく。


「俺の癖みたいなもんだから気にしないで。勝手な妄想で物語作っちゃうのが趣味というか得意でね」


「ケンケンって、なんでもできるんだね」


「それは大げさだよ。俺にだって不得意なものはある」


「何?」


「レンアイ」


 まさかと思って、一瞬変換が遅れた。


「うそだ。ケンケンは、昔からモテモテでハーレムで選び放題パラダイスの人生だったじゃないか」


小学生のころからケンケンはモテた。足は速いし、ドッチボールも強い。水泳の息継ぎだってスマートだし、習字も工作も得意だ。そのうえ、頭も良くてハキハキと物怖じせず意見が言える。おまけにサッカーもできて顔もかわいくて、根っからの陽キャ。


 ケンケンが私立の中学に行くとわかったときの女子の落胆ぶりはすごかった。僕は、中学受験の失敗を糧に高校受験に挑んだ。その結果、見事ケンケンと同じ高校に入学できたというわけだ。


「いやあ、照れるなぁ」


 後頭部を大げさにかいてわかりやすいリアクションをとる。受け入れたうえで、おどけて見せるあたりがケンケンらしい。


「それは、いっぱいいすぎて選びきれないとかそういう悩み?」


「ちがう。そんなふうになれたらどんなにいいか」


 珍しく、ケンケンが暗い顔をした。


「気持ち悪いこと今から言うけど、大丈夫?」


「うん」


 少し、身構えた。


「たぶん、俺は不能なんだと思う。女の人の裸とか見てもなんとも思わないんだ。それどころか、好きとかそういう感情も抱いたことない」


「……」


 びっくりしすぎて、声が出なかった。


「ひいた? ひくよな」


 ケンケンが僕の顔色をうかがう。


「ううん。びっくりしただけ」


「まあ、そういう感じなわけだよ」


 ケンケンは、プリンをかきこむ。


「一度もないの?」


 恐る恐る訊いた。


「うん。だからといって、男の人が好きとかそういうのでもない。誰に対しても抱いたことないんだ。これって、病気なのかな」


 今度は明るく言った。


「……」


 僕は、何も言えなくなった。そして、自分の行動がはずかしくなった。


「ごめん。失恋してる人の前で話すことじゃなかったな。悪い」


「ううん。こっちこそ、なんかごめん」


「なんで、洋ちゃんが謝るの。俺はさ、知識でしか好きという感情を理解することができないんだ。だから羨ましいよ、洋ちゃんが」


「そんな、僕なんて……」


「変に気を使わないでいいから。特に焦ったりとか悩んだりしてるわけじゃないんだ。それに、人間が嫌いってわけでもない。洋ちゃんのことはもちろん好きだし、家族だって、友達だって好きだよ。猫も犬も金魚も亀も。たぶん、嫌いなものの方が少ない。だけど、俺のことを好きだと言ってくれる人には毎回申し訳ない気持ちになる。目の前で泣かれたりすると、一緒に泣きたい気持ちになる。ごめんねって……」


 一気に喋ると、僕の方を見て不安そうに微笑んだ。何か言わなきゃと思った。


「ケンケンは最高だよ。僕が知りうるヒト科の中でトップクラスに最高だ」


「ありがとう。はーあ。よかったぁ。初めて人に話したんだ、このこと」


 ケンケンが天井を見上げて安堵する。


「こっちこそ、ケンケンの初めてを僕にくれてありがとう」


「変な言い方するなぁ」


「あはは」


 僕たちは、二人して大笑いした。それを、マルマリがドアの隙間からじーっと見ていた。


 ケンケンが帰ったあと、マルマリがつぶやいた。


『いいやつだな』


「でしょ?」


 僕は、自分が褒められたみたいに嬉しかった。


     *


 失恋の痛みは、そう簡単には癒えなかった。涙が出ない分、体内で熱がこもってしばらく


調子を崩した。


そうこうしていると、夏休みに突入した。僕の通っている高校は進学校なので、夏休みなんてあってないようなものだ。平日は毎日補講がある。ほとんどの生徒は、土日も塾へ通う。暴力的な時間勉強しないと、国立大学や関東関西の有名私立大には受からない。『夏を制したものだけが受験を制する!』なんて本気でみんな口にしだす。先生たちは、必死になって僕たち生徒を煽りまくる。『一週間で百時間』という常軌を逸した勉強時間でさえ、ここにいる全員が当然だと思っているから怖い。


 みんながハードモードに切り替わったころ、ケンケンだけはちがっていた。


「これから、俺と一緒にカラオケに行く人?」


 ケンケンは、地頭がいい上に勉強が苦にならないタイプで、中学のうちに大学受験に必要な知識は全て頭に叩き込んだらしい。中学生特有の煩悩がない分、勉強に集中できたという。あとは、本番まで健康でいることができれば九大は余裕だと言っていた。先生からは、東大や京大に興味がないかと訊かれていたが、どちらも受ける気はないらしい。


 僕も、この流れで行けば大学生になるのだろう。もちろん、第一志望はケンケンと同じだけど、今から本気を出して間に合うかは自分次第だ。


「えー。どうする?」


 ケンケンの席に近い女子たちが、それぞれ顔を見合わせている。誰かが行こうと言うのを待っている感じだ。


「息抜きは必要だろ? スカッとしようよ。そして、また勉強すればいいじゃん」


 ケンケンが言うからそれらしく聞こえるけど、他のやつが言ったら単なる現実逃避のイタイやつになってしまう。もちろん、僕はクラスメイトをカラオケに誘うなんてできないし、今まで一度たりとも行ったことがない。家族で行ったこともないし、友達に誘われたこともない。


「じゃ、あたしちょっとだけ行こうかな」


 応援団とかを率先してやるタイプの春口はるぐちさんが言った。その声に続くように、二人の女子が「あたしも」と同調した。うちの学校の女子は、低い位置で髪を一つに縛ったスタイルが多く、制服を着崩す人もいないから、女子の差違はあまり感じない。言い方は悪いけれど、区別がつかないのだ。誰それがかわいいとか美人だとか、そういう類の話を僕は誰ともしたことがない。


「じゃ、また明日」


 僕が教室を出ようとしたら、肩をがっつりとつかまれた。


「洋ちゃんも行くんだよ」


「え、でも僕、カラオケ行ったことないし」


「はあ? マジで?」


「一回も?」


「誰とも?」


 なぜか、みんなが不思議そうに訊いてくる。僕は、そのたびに首をこくっと盾に振る。そんなにおかしなことを言っている自覚はなかった。今まで行ってみたいと思ったこともないし、行かなかったからといって困ったこともない。生きていくうえで何の支障もなかった。


「カラオケって、みんなどんなときに行くの?」


 率直な疑問をぶつけてみた。


「こういうときだよ。行くぞ」


 ケンケンは僕の首を腕でロックすると、強引に引っ張って歩き出した。


「ちょちょちょ、苦しいって」


「洋ちゃんってさ、音楽とか聴かないの?」


「聴くよ」


「どんなの?」


「よく聴いてるのは、映画のサントラとか。歌詞がない方が勉強するときには集中できるんだよね」


「ボカロとかアニソンとかJポップは?」


「ラジオで流れてくるのを聴くぐらいかな」


「じゃ、カラオケに行って、何歌うんだ?」


「僕は、聴く専門でいいよ」


 ケンケンに連れられて、人生初のカラオケに足を踏み入れた僕が一番驚いたことは、メニューの抱負さだった。どう考えても、うちの店より品数が多い。ドリンクだけでも二十種類以上はある。


「へぇ。なんでもあるんだね。これ、頼んでみたいな。世界一高いポテトタワー。あと、真っ青なラーメンってやつも気になるな。これ、あれでしょう。バタフライなんとかで色つけてある……」 


「洋ちゃん。カラオケの流儀を教えるから、ちょっと黙ろうか」


 ケンケンは、僕を椅子に座らせるとカラオケでのマナーをひとつひとつ教えてくれた。歌は順番を守ること、ドリンクは飲み放題だけどフードはむやみに頼んではいけないこと、人が歌ってるときはちゃんと聴いてあげることなど……。


 とりあえず、コーラを頼んでみんなの歌を聴くことにした。ケンケンに教えられた通り、できるだけ歌う人が気持ちよくなれるよう、みんなに合わせて手拍子や掛け声をがんばった。合いの手を入れるのはけっこう難しい。


歌の順番は僕が最後にしてもらった。なかなか曲が決まらないので、一周目は見送ってもらった。男子はケンケンと帰宅部の多田ただくんと僕の三人。女子はリーダーの原口さんと放送委員で一緒になったことがある咲坂さきさかさんと、席が斜め前のもりさんの三人。


「なんだか、合コンみたいだね」と多田くんがふざけて言ったけど、女子は三人ともケンケンしか見ていなかった。みんな、歌のうまい下手はあまり気にしていないらしく、多少音がはずれようが、高音が出てなかろうが指摘するものはいなかった。たとえ、知らない曲だったとしても、それなりに盛り上がっている雰囲気にほっとした。


 多田くんは、マイクの持ち方が個性的で、Woh~とかAh~とかもちゃんと入れて歌ったりしていて、こなれた感があった。ケンケンは、ノリノリでみんなが盛り上がる曲調のものを元気に歌い上げていた。春口さんと咲坂さんは、今流行りの曲を振りつきで歌って、森さんは渋めの歌謡曲を情感たっぷりに歌い上げた。


 僕の出番がもうすぐやってくる。とりあえず何かを入れなくては、と思ったけれど焦って中学の時の合唱コンクールで歌ったバックナンバーの『水平線』を入力した。慣れない機械操作に多少てこずったけど、なんとか自分の番までに間に合った。さすがに、サントラを鼻歌で歌ったら、みんな引くだろう。そもそも、サントラはあの機械の中に入っているのかどうかわからない。


「それでは、洋ちゃん。初のカラオケいってみよう」


 ケンケンの煽りで一気に緊張が増す。マイクを持つ手が震えた。呼吸を整えて、第一声を吐いた。最初こそ、声が不安定でピッチがずれたけれど、なんとか無事に歌い終えることができた。


「安藤くん、そりゃないわぁ」


 多田くんが言った。への字になった眉が僕を責めている。


「え……」僕は何かルール違反を犯したのか?


「洋ちゃん。初めてなんて、本当は嘘なんだろ?」


 ケンケンが「もう、このやろう」と言いながら、僕の首をロックしてくる。


「え、初めてだよ」


「めっちゃ、うまかったんだけど」


 春口さんがつぶやいた。咲坂さんと森さんが顔を見合わせて、「ねえ」と同調。


「ありがとう」


 思いがけず褒められて顔が熱くなった。


「安藤くん、練習してきたでしょ? じゃなかったら、そんなに歌えるはずないって」


多田くんは信じられないと言った感じでさらに責めてくる。


「いや、中学のときに、合唱コンクールで歌った曲なんだよ……」


 言い訳に聞こえたかな。でも、本当のことだけど。僕のせいで変な空気にさせてしまって申し訳ない。画面に点数が出る。95点。テストの点数ならかなりの高得点だ。


「もーう、洋ちゃん。とんでもない武器持ってるんだね。俺が女子だったら、完全に惚れてたね。キュンとしちゃった」


 ケンケンが冗談っぽく絡んで場を和ましてくれたおかげで、多田くんもそれ以上攻撃的なことは言ってこなかった。


 二曲目以降は、うろ覚えの曲を選択したからか、大した点数を出すことはなかった。こうして、僕の初体験は終わった。


 会計を済ませてトイレで用を足した。隣の女子トイレから春口さんと咲坂さんもちょうど出てきて、目があったけれど何も言わず二人は僕の前を歩いていく。


「んもー。壊れてるならちゃんと直しとけよ」


 原口さんがちょっと乱暴な口ぶりで文句を言う。


「ほら、ハンカチ貸すから」


 咲坂さんが春口さんにハンカチを手渡すのが見えた。どうやら、女子トイレのハンドドライヤーが壊れていたらしい。


「あー、おなかすいたぁ」


 春口さんは、咲坂さんのハンカチを断ると手をパタパタさせて歩いていく。


「へへっ」


 咲坂さんが振り返って、僕を見てはにかんだ。


「……」


 どう反応していいかわからず、一生懸命笑顔を作った。僕は、自分のハンカチを急いでポケットにしまった。


「安藤くんって、ハンカチ持ち歩く派なんだ」


「え、あ……」


 いきなり指摘されて挙動不審になってしまう。


「珍しくない? 男子でハンカチ持ってる人なんて」


「そうかな」


 僕は小さいころからの癖でいつも持ち歩いてる。右手にハンカチ、左手にティッシュ。母さんにいつも言われていた。


 帰りしな、なぜか男女ペアで帰ることになった。誰が言い出しっぺかはわからないけど、僕を抜かした五人でコソコソ話し合っているのは見えた。


「行こう。安藤くん」


 咲坂さんが鞄をぶらぶらさせながら言ってきた。


「あ、うん」


 僕は、自転車を押しながら咲坂さんの少し後ろを歩きだす。女子と二人きりでこんなふうに帰路につくなんて初めてのことだった。なんだか今日は、初体験づくしで心臓がずっと落ち着かない。帰る方向が一緒だからという理由で、彼女を駅まで送ることになった。ふた駅先の加布里駅が咲坂さんの降りる駅らしい。あとの四人がどのペアになって帰ったのかは知らない。


「去年、放送委員で一緒だったよね?」


「うん」


「覚えてる?」


「うん」


 しばし沈黙。僕は無言で自転車を押す。


「けっこう、楽しかったよね」


「うん」


「今日のカラオケのことだよ?」


「ああ、うん」


 帰ったら、また勉強かと思うと気が重かった。息抜きなんてするもんじゃない。楽しかったぶん、そのあとがしんどい。


「安藤くんの家って、カフェやってるんでしょ?」


「うん」


「いいなぁ。あたし、スイーツとかけっこう好きだから今度いってみようかな」


「うん」


 僕は上の空だった。美波さんと一緒のときは、自分から話題をふったり質問をすることに必死になれたのに。咲坂さんとの会話は、すーっと耳のへりを流れていくみたいに過ぎていく。


「安藤くんって、彼女とかいるの?」


「へ?」


 イレギュラーな質問が飛んできて、思わず足が止まった。


「あたしね、二年のときから安藤くんのこと気になってたんだ」


「……」


 気になってたというのは、どういう種類の? 訊けない。おまえの態度や存在が目障りなんだよと言われたらどうしよう。


「こんな時期に何言ってるのって思われるかもしれないけど、言わないと後悔するかなと思って。もし、付き合ってる人とかいなかったら、あたしと付き合ってくれませんか?」


 あまりに唐突すぎて、ただ驚いた。三年になってから言葉を交わした記憶もないし、挨拶をする間柄でもないし、ただのクラスメイトで今日初めてカラオケに来ただけなのに、付き合ってと言われても困る。


「えっと……」


 どう断っていいかわからなかった。美波さんみたいに、きっぱり言った方が相手のためになるのだろうか。ふられたけど好きな人はいる、という答えで咲坂さんは納得してくれるだろうか。恋人はいないと聞いていたのに、後から好きな人がいると言われるよりは親切かもしれない。


「あ、ごめんね。いきなりすぎて困るよね。考えてもらっていいから。今すぐじゃなくていいから」


 咲坂さんは顔を真っ赤にしてうつむきながら言った。


「うん」


 それ以外に何も言えなかった。なんだか、その一生懸命な姿が自分と重なってなんともいえない気持ちになった。初めての感覚だ。相手の痛みが伝染して自分も胸が締め付けられるような感じ。


「ねえ、LINE交換しない?」


 咲坂さんがスマホを取り出したので、僕も自転車を停めてスマホを出した。


「送ってくれてありがとう。また、明日ね」


 咲坂さんは、手を振りながら笑顔で帰っていく。


 頭がぼーっとしていた。さっき言われたことをもう一度反芻する。僕の聞きちがいや勘ちがいではないことを確かめるための作業だ。


 だんだん頭がさえて冷静さを取り戻してくると、咲坂さんの言動には矛盾があることに気づいた。付き合ってほしいとは言われたけど、好きとは言われていない。後悔したくないからとか、こんな時期だけどというのはどういう意味だろう。ひとり悶々と考えて、答えが出ないまま家に着いた。


 マルマリが『おそーい。お腹すいたー』と不貞腐れている。冷蔵庫からタッパーを取り出し、刻んだパクチーをカリカリの上に載せてやった。むしゃむしゃぺちぇぺちゃ。今日も美味しそうによく食べる。


「あのさ、付き合ってる人がいないなら付き合ってほしいってどういう意味?」


『告白されたの?』


 あっという間に平らげたマルマリが僕を見上げる。口の周りをペロリと舐めた。


「いや、前から気になってたって言われただけ」


『誰に?』


「咲坂さんというクラスメイト」


『かわいいの?』


「まあまあなんじゃない」


 適当に答える。咲坂さんの容姿について考えたことがない。


『へえ。モテるんじゃん』


「いや、こないだ美波さんにふられたばっかりなのに」


『言えばよかったじゃないか。好きな人がいるって』


「でも、ふられたけどって? それって、相手に期待させちゃうよね」


『余計なことは言わなくていいんだよ。シンプルに好きな人がいるって言えば』


「まあ、そうだけど」


『まさか、君、その女子に揺れてるの?』


「初めてなんだよ、こういうの」


『まあ、男子高校生なんてヤレれば誰でもいいもんね』


「なんてこと言うんだよ。猫のくせに。てか、猫に言われたくないよ」


『その子は、君のどこに魅力を感じてくれたわけ?』


「さあ。誰でもよかったのかも。たまたま一緒に帰ったのが僕だったからっていうだけでさ」


『前から気になってたって言われたんだろ?』


「でも、好きって言われたわけじゃないからね」


『そここだわるね。付き合ってくださいイコール好きってことがなぜわからんかね』


「わかってるよ。それくらい。でも、なんて言うのかな。人から行為を抱かれるってこういう感じなんだね。全然気にしたことない相手なのに、気になるもんなんだね」


『それってやっぱり、その子のことが気になりだしたってこと?』


「あ、いや。それもあるけど、美波さんも僕のこと気になってくれたのかなって」


『なんだよ。もう答え出てるじゃん』


「うん。でも、ないよね。そんなこと」


 言いながら、自分が誠実じゃないことを知って落胆していた。咲坂さんに付き合ってと言われて、一瞬ためらった。すぐに、好きな人がいると言えなかった自分の心の弱さが許せなかった。美波さんが僕のことを気にするわけがない。きっと最初から眼中になかったんだ。僕が高校生だから気軽に誘えたんだ。安パイの男だから。そう考えると、彼女の言動の辻褄が合う。

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