第9話 [幸福] 


     *


 ようやく会えたのは、初めて会った日からちょうど一か月後。


 彼女はプリーツスカートを翻しながら、映画館のフロアを一人で歩いていた。右手で白状を持ち、かつこつと音を鳴らしながら待合席へ向かう。手探りで椅子と机を確かめると、椅子を引いて腰掛けた。


 僕は、大きく深呼吸をして彼女に近づいていく。声が裏返らないように、何度か咳ばらいをして喉の調子を整える。


「こんばんは、美波さん」


 斜め後ろから声をかけた。緊張で手汗がすごい。


「あ、洋介くん?」


 彼女が振り返る。視線は、やっぱり合わない。


「はいっ」


 名前を呼ばれたことにも、覚えてくれていたことにも、声だけでわかってくれたことにも感動していた。


「来てたんだ」


「はい」


「すごいでしょ?」


「え?」


 唐突に言われて困惑した。


「私ね、耳には自信があるの。ひとことで、洋介くんだってわかった」


 ちょっぴり自慢げな様子がかわいい。美波さんは、笑うと両目の下にえくぼが出る。


「あはっ。やっぱりそうか」


「ん?」


「いや、実は、前に美波さんに無視されたことがあってちょっと凹んでたんです。そのとき、会釈しただけだったから、気づいてもらえなかったんだなって」


「いつ?」


「初めて会った日の翌日です。駅前のビルのエレベーターの前で」


「そうなの? ごめん覚えてない」


「いやいや、全然」


「あそこね、私が働いてるアロママッサージのお店が入ってるの」


「僕は、配達で」


「へえ。配達もしてるんだ。バイクとか?」


「いえ。チャリです」


 なんか、かっこ悪いな。


「そう。今日は何観るの?」


 さすがに、あなたを待ってただけですとは言えない。


「えっとぉ、チケットはこれから買おうかなって。美波さんは何観るんですか?」


「私は、これ」


 スマホの画面を見せてきた。どうやら、邦画のホームドラマらしい。確か、人気俳優と演技初挑戦の歌手がダブル主演と話題になっていたやつだ。


「ああこれ、ちょうど僕も観たかったんですよ。一緒に観てもいいですか?」


「うん。観よ観よ」


「じゃ、僕ちょっと買ってきますね。席、何番ですか?」


「えっとね、K₋13」


「行ってきます」


急いで、チケット発券機で座席表を確認する。「よかった。隣空いてた」すかさず、隣席をゲットすることに成功した。


「買ってきました」


「何か、飲み物とか買う?」


「あ、じゃあ。買おうかな」


 僕が答えると、彼女がすっくと立ちあがった。


 上映時間まではまだ三十分ほどある。二人でフードコーナーに並んだ。美波さんは姿勢がいい。いつもほんのちょっと顎が上向きで、口がちょっと開いている。それでいて、視線は空を見つめているから、ミステリアスな感じがするのだろう。


「もう決まった?」


「ポップコーンとコーラを」


「何味?」


 彼女の顔がすぐ隣にあった。目線はあまり変わらない。僕の身長が170センチちょいなので、美波さんは160センチ台後半といったところだろう。


「えっと……」


「あ、待って。せーので好きなフレーバー言おう。もし、一緒だったら私がおごる」


「いいんですか?」


「ピッタリ同じだったらね」


 塩、キャラメル、北海道バター醤油の三種類と、それをミックスさせたハーフ&ハーフから選ぶと確率はどうなる? 六通りある答えの中から二人が完全一致する確率は36分の1……。


「自信ないな」


「じゃ、行くよ。せーの」


「北海道バター醤油とキャラメルのハーフ&ハーフ」


 二人の声がそろった。僕は、ガッツボーズを取りながら、心の中で叫んでいた。


 ――マルマリ。これは、間違いなく運命だよ。


「すごぉい」


 美波さんが歓喜の声を上げる。


「いや、まさか一致するなんて」


「ねっ。私も絶対合わないと思った」


 たかがポップコーンのフレーバーの好みが一致しただけでこんなに嬉しいとは。


「北海道バター醤油とキャラメルのハーフ&ハーフを二つとコーラを二つお願いします」


 注文をして、美波さんが財布をバッグから取り出した。


「ありがとうございまーす」


「ふふん」彼女の頬がきゅっと持ち上がる。


「あ、僕持ちますよ」トレーを抱え、フロアを見回した。


 開場ランプが点いたのを美波さんに知らせた。つづけて、放送で呼びかけがある。


「ねえ、腕つかんでいい?」


 美波さんが言う。


「あ、どうぞ」


「ありがとう」


白状はワンタッチでハンドサイズに縮んだ。バッグに仕舞うと、いよいよ僕の出番となる。ドキドキしていることを悟られないように、平静を装った。


 美波さんの細い指の感触を肘に感じた。僕の着ていたシャツをそっと握る。もっと、がっつり腕を組んでもらってもかまわないけど。僕は右手に全神経を集中させた。バランスをくずしかけて手に持ったトレイからポップコーンが落ちる。


「おっとっと。じゃ、中入りますよ」


 ゆっくり慎重に歩きすぎたのか、「普通に歩いて大丈夫だよ」と笑われた。


「じゃ、もっとしっかりつかまってください」


「じゃ、お言葉にあまえて」


シャツをつかんでいた手を僕の腕にからませた。


「……」


 喜びをかみしめて歩き出す。


美波さんは、僕のイメージしていた女性とはずいぶん違った。勝手におとなしいタイプの人だと思っていたが真逆だった。朗らかでよく笑うし、よく喋る。気さくでとても素敵だ。


 それでいて、僕と好みがあうし、笑顔がかわいいし、それにとってもいい匂いがする。


 席に着くと、美波さんの手がほどかれた。悲しい。できれば、もっとこのままでお願いしたい。


「音だけで、楽しめるんですか?」


 囁くように訊いた。


「これをつけるの」


 彼女はイヤホンとスマホを取り出した。


「今の映画はほとんど音声ガイドがついててね、誰と誰がどこでどんなふうに喋ってるとか、猫が一匹通り過ぎたとか丁寧にナレーションが入るから、見えなくても楽しめるのよ」


 イヤホンをはめながら、「スマホに専用アプリがあってね、それで聴けるのよ」と言い添えた。


「なるほど」


 理解したふりをしたけれど、同時に色んな疑問がわいた。いつから見えないのかとか、どのくらい見えないのかとか、僕にできることはあるのかとか。


 はっきり言って、映画どころではなかった。スクリーンを観ている美波さんの横顔をずっと見ていた。ちょっとつまらないシーンがつづくと、毛先を指でいじりだす。音が大きくなるとびくっと肩を動かしたり、シリアスなシーンでは眉を顰めて、掛け合いのシーンでは大笑いしたりしていた。


 エンドロールが流れると、心臓がバクバクした。もしかしたら、また泣いちゃうのかなって。だけど、そんな心配は杞憂に終わった。ますます、あのときなんで泣いていたのか気になった。だけど、どう切り出せばいいかはわからない。


「あー。おもしろかった。ね?」


 彼女の腕が僕の腕をつかんだ。


「はい」


 僕は大満足でうなずきながら歩き出す。


「うそっ。だって、洋介くんずっと私の顔見てたでしょ?」


「え、なんで……」


「気配でわかるよ」


「す、すいません」


 恥ずかしくて、体が火照る。


「いいのいいの。人にじろじろ見られるのは慣れっこだから」


「いや、僕はそういうつもりで見てたわけじゃなくて」


「ん? じゃあ、どういうつもりで見てたの?」


「あ、いや、えっと。その……。好奇の目で見てたとかでは決してなく」


「ふふふ。わかってるよ」


 美波さんは、僕がしどろもどろになるのを楽しんでいるみたいだった。


「私、バスと電車で帰るけど、洋介くんは?」


「僕もです」


 咄嗟に嘘をついた。自転車はまた明日とりにくればいい。もっと、一緒にいたいと思った。


「迷惑でなければ、この腕、いつ使ってもらって大丈夫なんで」


「あ、ごめん。私、ずっと握ってたね」


 彼女の手がほどかれる。


「全然お気になさらず。僕なんかでよければ、どこでもお供しますので」


「どこでも?」


「はい。いつでもどこでもです」


「そっか。ありがと。みんな、優しいよね。白状持って歩いてると、みんながよけてくれるの。モーゼのの十戒みたいな感じ? 電車とかバスとかも絶対席譲ってくれるしね。申し訳ない気持ちになるんだ。そんなことしなくていいよぉって。でもね、誰かと腕を組んで歩くときはあんまり気づかれないの。普通に見えるのかな。だから、このまま帰ってもいい?」


「もちろんです」


「カノジョとかに見つかったりしない?」


「そんなのいないから全然大丈夫です」


「そっか。じゃ、お願いします」


 美波さんは、僕の腕に手を絡ませた。転ばないように、かつ自然に見えるようにエスコートしなければ。改札を抜け、階段を上り、ホームへ向かう。


 僕たちは、電車の中でいろんな話をした。最初に話したのは好きな映画について。


「一番って難しいですよね。なんだろう」


「私はね、『レオン』かな」


 はにかみながら、毛先を指でいじる。


「え?」


「どうしたの? 変?」


「いや、こないだ『レオン』が一番好きだって言ってたやつがいたから」


「へえ。気が合うな、その人」


いや、猫なんだけど。


「そいつ、『レオン』が理想の男だって言ってました」


「私もよ」


「やっぱ、命がけで守ってくれるところがいいんですか?」


「うん。だって、あまり現実にはいないでしょ」


「確かに」


「あの映画、最初に観たときと二回目観たときじゃ、全然印象が違ったんだよね。最初に観たのは中学生のときだったから、ジャン・レノのよさが全くわからなくて。ただ、マチルダがかわいいなぁって。髪型とかファッションとか真似したりして」


「え、美波さん、ショートカットだったんですか?」


「うん。美容室にナタリーの写真持っていってこれにしてくださいって」


「ええ。想像つかないな」


「昔はけっこうかわいかったんだから」


 ちょっと膨れたような表情が幼くて、一瞬少女の彼女が垣間見えた気がした。昔はかわいかった、と過去形で言うということは、後天的に視力を失ったということだろう。話しぶりからして、初めて『レオン』を観たときは、目が見えていたと考えられる。


「あ、そういや、僕たちが初めて会った日、金曜ロードショーで『レオン』やってたみたいですね」


「うそぉ? その日の金曜ロードショーは『バックトゥザフューチャー』だったと思うけど」


 あれぇ? ちがったっけぇと美波さんが笑う。笑うと、少しだけ体の密着度が増す。ドキドキして体が火照るのを押さえるのに必死だった。


「美波さんも、地元は糸島ですか?」


「ううん。高校までは福岡市内に住んでたの」


「僕は、生まれも育ちも糸島です」


「いいところよね。見えないけど、わかるの」


 少しの沈黙がきて、がたんごとんと電車の音を全身で感じた。


「じゃ、高校卒業してからずっと糸島に?」


「そう」


「じゃ、どこかですれ違ってたかもしれないですね」


「それは、どうかな。私、ずっと引きこもってたから。今の仕事を始めたのは一年くらい前かな。祥子が働いてるお店に紹介してもらって、私に合わせた施術メニューとかも考えてくれたりして、なんとかね。周りに色々迷惑かけちゃったから、今は恩返ししてるとこ」


「……」


 なんと言ってあげるのが正解かわからなくて言葉につまった。


「ごめんね。変な話しちゃって」


「いや、全然」


「なんでも訊いて。なんでも答えるから」


「じゃあ――」


 僕は、細心の注意を払って質問をした。訊きにくいことは、少し遠回しな言い方をしながら。好きな音楽について。好きな食べ物について。猫派か犬派か(猫派だった。マルマリ喜べ)。小さいころのこと。最近の日本についてetc……。


兄弟はおらず、付き合ってる人もいない。好きなタイプは笑いのツボが合う人。休みの日は、パン屋さんを巡るのが楽しみだと話してくれた。


僕たちは、今日でずいぶん仲良くなった。今までのすれちがいがうそみたいにぐっと近くなった。


 だけど、肝心なことは訊けなかった。


 涙の理由は、いつになったら訊いていいのかな。 デリカシーのないやつだと嫌われるのが怖い。


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