第6話 [不審]
*
捜索用のチラシ五十枚を近所中に配り終えると、正午を過ぎていた。
店に戻ったころには、父さんも岬さんも汗だくでランチ営業の対応に追われていた。
「洋介、これ五番さん」
父さんが顎でしゃくる。今日のランチは、糸島豚のトマト煮込みらしい。甘酸っぱいトマトの香りが店中に広がる。
「りょーかい」
トレーに乗せ、二人分をテーブルに運ぶ。
「お待たせいたしました。こちら、熱くなっておりますのでお気をつけてお召し上がりください」
店内は、そう広くない。カウンター席が三つと、四人掛けのテーブルが二つと二人掛けのテーブルが二つ。いつも、正午を過ぎたころにはあっという間に満席だ。
「すみません。こちらにお名前を書いてお待ちください」
岬さんがウェイトのお客さんの対応に追われていた。
「そうですね。あと、二十分くらいはお待ちいただくかと……。すみません。またのお越しお待ちしております」
せっかく来てくれたお客さんを泣く泣く帰してしまうのは本当に申し訳ない。十一時半から二時までは書き入れ時で、うちみたいな店でもそれなりに客が入る。しかし、これはほんの一瞬で三時を過ぎたころからぱたりと客足が止まる。飲食店とは、労力のわりに儲かる仕事ではない。そんなことは誰だってわかっている。それでもつづけられるのは、その仕事が好きだからだろう。
僕の父さんの場合は、そこに義務感みたいなものもプラスされる。母さんが死ぬ間際に言っていたらしい。「お店、おねがいね」と。
父さんは大学で、法律の勉強をしていた。将来は、立派な弁護士になるのが夢だったという。司法試験にも合格し、しばらくは福岡市内の弁護士事務所で働いていたこともあった。
だけど父さんは母さんと一緒になる方を選んだ。多くの人が口をそろえて「もったいない」と言ったらしい。母さんが死んだあと、店をたたんで弁護士に戻ることを勧められた。その方が金銭的に裕福だし、新しい人生の再出発にはちょうどいい。「洋介くんのためにも」なんて言ってくる人もいたくらいだ。
でも、父さんは一切迷わなかった。母さんとの約束を果たす方を選んだ。だからといって、父さんは僕より母さんを選んだ、なんて卑屈に考えたりはしない。これでよかったと思っている。店の手伝いは楽しいし、何より父さんの腕は一流だ。もっと多くの人に食べてもらいたいし、知ってほしいと思っている。
「ふう。あと少しだね。がんばろ」
岬さんが笑顔で腕をまくる。
「はい。三番さんのお会計お願いします」
岬さんにレジを頼むと、全テーブルのお冷を補充して回った。
二時半を過ぎ、ようやく店が落ち着いた。ここからが、僕の出番である。ウーバーイーツならぬ洋バーイーツは、店の閑散タイムに出動しなければならない。といっても、学校が休みのときくらいしか手伝えないんだけど。
「洋介。これ頼む」
カウンターに紙袋が置かれた。
「場所、どこ?」
父さんから送られてきた住所をタップする。
「昨日、クラブハウスサンド頼んだお客さん。今日は、レンタルオフィスで作業してるからそこに持ってきてって」
「ああ、あのカメラマンか。レンタルオフィスってどういうこと?」
「いいから急げ。気をつけてな。頼んだぞ」
「わかった。じゃ、行ってくる」
僕は店を出て、愛車に跨った。ハンドルに備え付けたスマホホルダーを調整し、出発した。レンタルオフィスが何なのかわからないとぼやく僕に、岬さんが早口で教えてくれた。「ドリンクバーのないネカフェのようなものよ」と。簡易的な作業場なのだろうと想像がつく。だったら、ネカフェでいいじゃないかと思った。ドリンクバーは魅力的だし、料理だってすぐに持ってきてくれる。今ひとつ、レンタルオフィスの利用価値がわからなかった。
筑前(ちくぜん)前原(まえばる)駅の南口にある、テナントビルの一部屋が指定されたレンタルオフィスだった。美容室や保険会社などが入っている。エレベーターに乗り、三階まで上がって奥の部屋のインターホンを鳴らすと、昨日のカメラマンが出てきた。
「あ、どうも」
タオルで噴きだした汗を拭った。
「悪いね。今日も来てもらっちゃって」
スプリングカチューシャとゴールドのリングピアスがきらりと眩しい。色付きのサングラスも嫌味がなく、室内でもおしゃれに余念がない。
「あ、いえいえ。昨日につづきまして、ありがとうございます」
「いや、君ん家のサンドイッチには感動したよ。どうしてもまた食べたくて、こっちに残っちゃった。本当はお昼に食べたかったんだけど、二時すぎないとやってないって言うからさ」
男の口ぶりからすると、この町の人ではないらしい。
「あ、すみません」
「ううん。気にしないで」
「あ、じゃあサインをお願いします」
「オッケオッケ」
男の手をじっと見つめる。
「ハギワラ様、ありがとうございます」
昨日は解読できなかったが、今日はちゃんと読めた。
「あはは。よく間違われるんだよね。ハギワラじゃなくてオギワラ」
「すみません。荻原様」
「あ、良かったらこれ。俺の名刺。店のチラシとか広告とか作るときは相談して」
シンプルな名刺で、肩書はなく、アルファベットで名前だけ書かれていた。
「どうも」お世話になることはないだろうと思いながら、受け取った。
「裏のQRコード読み取ってくれたら、俺のホームページに飛ぶから」
「はあ」
一方的に押し付けられたけど、悪い気はしなかった。
「じゃ、ありがと。味わって食べるわ」
「どうも、ありがとうございます。また、宜しくお願いします」
深々と頭を下げ、踵を返した。
エレベーターに乗り、一階へ降りるとレジ袋を提げた若い女性が二人立っていた。「あっ」と思わず声が漏れる。昨夜、映画館で泣いていた女性だったのだ。このビルのどこかが、彼女の職場なのかもしれない。一瞥をくれると、すぐに隣にいる女性と話を再開させた。腕を絡ませたりして、楽しそうに。
すれ違いざま、軽く会釈した。すると、ふたりの女性も軽く会釈をし、そのままエレベーターに乗り込んだ。まるで、たった今すれ違った赤の他人のような態度に驚いた。
え、なんで? 僕が欲しかった反応ではなかった。思わず振り向く。しかし、エレベーターはすでに締まっていた。「昨日はどうも」とか「あ、また会いましたね」とか「ハンカチ、返しに行きますね」とか、いくつかのパターンを考えてみたが、彼女のとった行動はどれもちがった。もしかして無視された? この至近距離で気づかないはずがないだろう。
なんだかモヤモヤした。いや、傷ついた。中学の教室の風景が頭をよぎった。無視されたときの感覚は未だに残っている。昨日まで仲の良かったクラスメイトが突然、僕をいないものとして振舞うようになるのは恐怖でしかない。
でも、彼女はクラスメイトではない。たった一度会っただけの人だ。単に、僕の顔を忘れただけなのだろうと思うようにした。
重い足取りで店に戻った。
「おかえり。次、これ頼んでいいか? 笹山公園の近くにさ――」
父さんの声が耳に入ってこない。
「洋介、聞いてる?」
「あ、うん」
「で、そこに寄ったあと、また別のところに行ってきてほしいんだけど、大丈夫か?」
父さんが伝票を片手に説明する。どうやら、二件のオーダーが入ってるらしい。
「うん」
「ごめん、洋介くん。帰りにドラッグストアに寄ってきてほしいんだけど――」
岬さんが買い物リストを見せてくる。
「うん。わかった。行ってきます」
僕は、やるべきことを淡々とこなしていく。でも、頭の中は彼女のことでいっぱいだった。
*
『やっぱり、それは恋じゃない?』
マルマリが言う。口からパクチーの匂いを放ちながら。
「なんでそうなるの。僕は、彼女に無視されたことが気になるって言っただけだろ」
つい、苛立った口調で反論した。
『そういう作戦だったりして。君を翻弄するための』
マルマリは茶化すように舌をぺろっと出した。
「何の目的だよ。それに、彼女はそんなタイプには見えない」
『へえ。たった二回会っただけなのに、ずいぶん彼女のことを理解した口ぶりだねぇ』
「いや、そういうわけじゃないんだけど、なんとなくだよ。悪い人には見えないんだよ彼女」
『なんとなく、ねえ。もっとこう、客観的な事実がほしいな。君がそう感じた理由を知りたい』
「ふつうはさ、泣いてる姿を人に見られる行為は嫌だと思うんだ。たぶんだけど……」
客観的な事実ではなく、憶測で話していることに気づいて言葉が詰まった。泣き方すら忘れてしまった僕に、泣いている人の気持ちを想像するなんておこがましい。
『いいからつづけて』マルマリは優しくその先を促す。
「うん。涙というのは、心が動いたときに出るものだと認識している。僕は幼いころに、それを力技で止めてしまったせいで、泣くことができなくなってしまった」
『何か、きっかけがあったんだね』
「うん。母さんが亡くなったとき、父さんは涙ひとつ見せずに歯をくいしばって耐えぬいた。僕はそれを見て、その行為が正しいことなんだと思った」
『君もそうしなくちゃいけないと刷り込まれたわけだ』
「うん」
『それで?』
「多かれ少なかれ涙というのはあまり人前で見せるものじゃないんだよ。恥じらいのようなものがあると思うんだ。人によっては放っといてほしいと言うかもしれない。でも彼女は、戸惑いこそしたけれどお礼を言って受け取った。僕の前で頬にハンカチを当てた。気持ち悪いなとか嫌だなって思ったら、知らない人のハンカチなんて使わない。それに、洗って返すとも言ってくれた。いい人だなって思ったんだ。感じのいい人だなって。だから余計に、無視をされた意味がわからない」
『ふむふむ。多少なりとも、君の印象は悪くうつってないと』
「たぶん」
『それにしても、なんで彼女は泣いてたんだろう? まずはそこだよ』
マルマリは、僕の心を落ち着かせつつ、物事を整理し話を進めてくれる。
「うーん。うまく言えないけど、彼女の涙は映画の内容とは違うところにあるんじゃないかって思うんだ」
『つまり彼女は、一目も憚らず泣くほどの理由があったと、そう言いたいんだね』
「うん」
『たとえば? どんな理由が考えられる?』
「さあ」
見当もつかなかった。
『待ち合わせに彼氏が来なかったとか?』
「そのくらいで、泣くかな?」
『たしかに。何か他に、その映画について情報ないの?』
「確か、公開初日だった気がする。他の国ではどうか知らないけど」
あまり、作品の詳細を調べてから観るのは好きじゃない。できるだけ、先入観を持たずに観たいから。
『じゃ、その映画の関係者なんじゃない? 例えば、翻訳担当をしたとか』
「うーん。でも、感動して泣いてるという感じじゃなかったんだよね」
『あ、上司に叱られて、辛いことがあったんだ。それを思い出したとか』
「ホラー映画を観て、叱られたこと思いだすかな」
『もうなんだよ。否定ばっかりしないで君も考えてよ』
マルマリがついに怒った。
「わかんないよ。泣いてた理由なんて」
『でもさ、直感的に君は彼女をいいなって思ったんでしょ?』
「いいひとだな、だよ。端折らないで。意味が変わっちゃうから」
『とか言いながら、会いたい気持ちが高まってきたんじゃない?』
「無視されたんだよ。この距離でだよ。ここに僕はいたのに」
身振り手振りでさっきの状況をマルマリに説明した。
『話に夢中で気づかなかっただけじゃない?』
「いや、ちがう」きっぱりと否定した。彼女の視界に僕はちゃんと入っていた。
「あーなんか、嫌われるようなことしたのかな。したんだろうな。自覚がないってのがたぶん一番問題なんだよ。ああ、やばいな僕。でも、まあいっか。もう会わないし」
『どうしてそんなにうしろ向きなの? もっと前向きに行こうよ』
「無理だよ。期待したぶん後で傷つくじゃないか。だったらもう、その人と自分は関わらないって思った方が楽だからね」
『こりゃ、重症だ。君には〝愛〟という名の処方箋が必要だな』
思わず。「愛?」と訊き返して苦笑した。そんな恥ずかしいセリフよく言えたもんだ。
「誰かに愛されることとか、誰かに必要とされることでしか自分の価値を見出せないって悲しくない? 僕はそんなものなくても大丈夫だって思える強い自分になりたいよ」
つい、強がってみた。
『その考え方はかっこいいけど、それでも愛したり愛されたりするのは気持ちのいいものだし、存在を否定されるよりは認められた方が幸せだと思うけどな』
「そうかな」
愛とかを肯定されると恥ずかしくて背筋がぞっとする。
『つまり、君は人を信用してないんだね』
「だって、人は簡単に裏切るからね」
『ほう。じゃあ、猫なら信じてくれるかい?』
「あはは」
笑うしかなかった。
『すべてのことには理由がある』
マルマリは背筋を正して、名ゼリフっぽく口にした。
「どういうこと?」
『彼女がホラー映画を観て泣いていたことにも、君を無視したのも、何か理由があるはずだ。ジブンが君の家に来たことも、きっとね』
「そうかもね」
肯定しながら、誠が言っていたことを思い出していた。
マルマリは、優しくて強い人の元に自分を連れて行ってほしいとお願いしたという。もし、マルマリの声が聞こえる別の誰かだったら、僕の元には来ていなかっただろう。映画だって、いきなり物語は始まらない。きっかけがあって、理由があって何かが動き出す。
このとき僕は、柄にもなくワクワクしていた。何かが始まる予感のようなもの。
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