第5話 [誘導] 


     *


 調子に乗った僕は、映画館で会った女性についてマルマリに話をした。


『つまり君は、ホラー映画を観て泣いていた美女にひとめぼれしちゃったんだね』


 マルマリは、ふむふむとうなずく。


「ちゃんと話聞いてた? 美女とも言ってないし、ひとめぼれもしてないよ」


『美女じゃなかったの?』


 なぜか、食い気味にマルマリが訊いてくる。


「どっちかというと、かわいい系かなぁ」


『ふーん。いいじゃない、かわいい系。で、運命を感じなかったの?』


「運命? そんな映画みたいにはいかないよ」


『感じたから、君はハンカチを渡したんじゃないの?』


「たぶん、親切心だよ」


 僕が答えると、マルマリはすぐに「いや」と否定した。


『レオンだって、鼻血を出してるマチルダを放っておけなくてハンカチを差し出した。もしあのとき、レオンが無視していたら、物語は始まらなかった』


 マルマリは、ピンと首を伸ばして得意げに喋る。


「ホラー映画観て、泣いてる人がいたら気になるだろ?」


『うん。気にはなるよ。でも、ふつうは無視して行っちゃうね。ふつうは』


 ふつうってなんだよ、と突っ込みたくなるのを押さえた。マルマリは、見て見ぬふりをして去っていった人間のことを言っているのかもしれない。


「そうかもね。だけど、自分でもよくわからないよ。なんであんなことしたのか」


『イレギュラーなことが起こる、それが運命なんだよ』


「ふへへ」得意の苦笑顔を披露する。


 僕の人生に、運命なんて大層なものは似合わない。


『みんな運命を待ってるだけでつかもうとしない。でも君は、ちゃんとつかまえたんだ』


 マルマリは、昨日観たレオンに影響されて、少し感情的になっているのかもしれない。


「何言ってんだよ。大げさだな。意味ないよ。だって、もう会うこともないと思うし」


『でも、ハンカチを返しに来るって言ったんでしょ? その人』


「いや、気が向いたらでいいって言ったし」


『なんだよその相手に委ねる感じ。もっと、前のめりに行かないと』


「だから、僕は運命なんか感じてないってば」


 思わず、強く言い返してしまった。


『もし、その人が本当に返しに来たらどうする?』


「べつに。まあ、せっかくだから食事していってくださいくらいは言うかもしれないけど」


『ふーん。今度は父さんの料理に委ねちゃうんだ』


 呆れたような口調で僕をにらむ。


「はあ? なんだよさっきから」


『父さんの作った料理が気にいったらまた店にきてね。そしたら、仲良くなりましょうみたいな?』


「なんでマルマリは、僕とその人を恋愛関係にしたがるの?」


『だって、好きな人がいるってワクワクしない?』


「そういうマルマリは、恋愛したことあるのかよ」


『当たり前じゃん。ジブンはね、こう見えて一途なんだよ』


「ふーん。猫のくせにね」


『とにかく、その人が現れるのを待とうよ。きっと来るよ』


「なんで関係のないおまえがワクワクしてるんだよ」


『だって、会いたいじゃない。運命の人に』


 マルマリがウィンクしたように見えた。


 はあ、とため息をつく。マルマリに映画の感想を訊かれなければ、僕は女の人のことを思い出すことはなかっただろう。いや、思いださないようにわざとセーブかけていただけかもしれない。期待して落胆するのが怖いから。


イレギュラーなこと――。確かに、印象的な出会いではあったけど、たった一回会っただけの人に好意を寄せるなんてありえない。この世に、ひとめぼれなんて本当に存在するのだろうか。相手の容姿や仕草を見ただけで好きだなんて感情を抱けるのか。ぼくにはまるで想像ができなかった。


ましてや、運命の人なんて。そもそも、運命ってなんだよ。


 ああでもないこうでもないと自問自答して結局何もわからなかった。


 マルマリは部屋で映画が観たいと言うので、DVDをセットしてやった。今日は、『ニキータ』を観るらしい。ジャン・レノにハマったのか、それともリュック・ベッソンにハマったのかは不明だけど。


身支度をすませ、店に出た。


「洋介、買ってきてくれたか?」


 父さんは、デザート用のプリンをショーケースに並べながら訊いてきた。


「それがさ、マルマリの好物がわかったんだよ。すっごい意外なもの。なんだと思う?」


「ん? なんだろう」


 父さんは端から考える気などなさそうに、首をかしげた。


「パクチーだよ、パクチー。冷蔵庫の残り物のパクチーを刻んで食べさせたらおいしそうに平らげたんだよ。変な猫だろ?」


「ああ。でもそれって猫に食べさせて大丈夫なのか?」


「うん、一応。少量なら大丈夫って書いてあった。だから、今度やるときはカリカリにパクチーを少しまぶしてやってみるよ」


「まあ、何も食べないよりはマシか」


 父さんは、ほっとしたように笑みを浮かべた。


「あ、洋介くん。これ見て。じゃーん」


 岬さんが、B4サイズの紙を胸の前に突き出す。


〝南京錠をつけた迷い猫〟という文字がガツンと目に飛び込んできた。画面いっぱいに配置されたマルマリは、下アングルから撮られていて、気品があって優雅な感じに写っている。


「よくできてるね。さすが岬さん。でもね、マルマリはどうやら野良っぽいんだよね」


 言いながら、語尾が自信なげに小さくなっていく。


「なんで? 昨日は迷い猫だって言ってたなかった? だって、首輪してたんでしょ?」


 そうなるよな、と言葉を飲み込む。本人マルマリが野良だと言ってたから、なんてここで説明したところで誰も納得しないだろう。


「うん。でも、首輪はマルマリが咥えてただけで、それを誠が首に下げてやったらしいんだ。だから……」


 だからなんだよって感じだ。それで野良猫の証明にはならない。


「せっかく、岬さんが作ってきてくれたんだ。迷い猫か野良猫かはわからないけど、とりあえずそのポスターを近所に配ろう。そして、貼ってもらえるところがあればお願いしよう」


 父さんが提案した。


「うん」


 僕はうなずくしかなかった。


「でも、もし野良猫だった場合は? 飼い主が見つからないってことよね」


 岬さんが眉根を寄せる。


「うん」


僕の懸念点はそこにあった。


「そのときは、うちで面倒を見ればいい」


 父さんが僕の方に視線を向けて言った。


「いいの? 飼っても」


「もちろん。飼い主が見つからなかった場合だけどな」


 父さんはすでに、マルマリに愛着を感じているようだった。もちろん、僕もだけど。


「やったー」


「とりあえず、それコピーしてご近所さんに配ってこい」


「わかった」


 僕は店を飛び出し、勢いよく自転車に乗った。ペダルを踏みしめこぎだす。僕がこれからやろうとすることは不毛な行為だ。だって、マルマリは捨てられたのだから。本人がそう証言しているのだ。つまり、これはマルマリを家族として迎え入れるための儀式なのだ。


 家族、という単語がよぎって思わず苦笑した。マルマリは家族というより、友達とか相棒みたいな感覚に近い。


 坂の下のコンビニでコピーをとっていると、後ろからポンと肩をたたかれた。


「よーう、洋ちゃん」


 僕に声をかけてくるやつなんてひとりしかいない。しかも、こんなハイテンションで。


「あ、ケンケン」


 振り向くと、クラスメイトで幼馴染のつるぎ健司けんじがピースサインを向けて立っていた。


「何してんの?」


「迷い猫の……捜索……的な?」


 どう説明するのが的確かすぐには出てこなかった。


「どれどれ。見して」


 ケンケンがポスターを覗き込んでくる。


「へぇ。真っ白い猫か。縁起がいいな。その子、警戒心が強いだろ?」


「そうでもないかな」


 というより、馴れ馴れしいほど人懐こい。


「白い猫は敵に狙われやすいんだ。だから自己保身のために警戒心が強くなる。人見知りが強くて懐かないって言われてるんだ」


「そうなんだ。やけに、詳しいね」


「うちでも、飼ってるから。ほら」


 ケンケンはかわいいだろ? と自慢げにスマホの画面を見せてきた。短足でずんぐりむっくりで顔のパーツが真ん中にぐしゅっと寄っているところがかわいらしい。種類はわからないけど、以前、ドラマで見たことがある。ぶさかわ猫ってやつだ。


「あのさ、ケンケンん家の猫も喋れる?」


「はあ?」


 僕の何気ないひとことが妙な空気を作ってしまった。やっぱり、ふつうの猫は喋らないよなと改めて思う。しかし、ケンケンは冷静に僕の発言の真意を問いただしてきた。性格上、疑問点はその場ですぐに解決しないと気が済まないタイプだ。まあ、そこが彼の美点ではあるけれど。


そこで、僕の身に起こった不思議な出来事を詳細に語ることにした。コンビニのタイヤ止めに二人で座り、ブラックモンブランを片手に話し込む。


「あははは。洋ちゃん、それはないよ」


「だから本当なんだって」


「何、寝ぼけたこと言ってんだよ」


 もちろん、ケンケンは信じない。


「僕が今まで、嘘をついたことある?」


「あるよ」


「いつ?」


「小学生のとき、一緒に私立の中学行こうって約束したくせに行かなかった」


「あれは、単に僕の学力不足で受験に失敗しただけじゃん」


 ケンケンとは、保育園と小学校が同じで、中学で一旦別れたけど、高校でまた同じになった。だから、斜視が原因でいじめのようなものにあったことを彼は知らない。もちろん、失恋のことも、お金をだまし取られたことも。


「ははは。わかってるよ。洋ちゃんは昔からシャレも冗談も通じないクソ真面目な性格で、もちろん嘘なんてついたことないよ」


「若干ディスられた?」


「うん」


「もーう」


「だって、猫が喋ったはさすがにないだろ」


「本当なんだって。恋バナとパクチーとレオンが好きな喋る猫なんだよ」


「洋ちゃん。受験勉強で疲れてるのかな。こないだの定期考査、三日三晩徹夜したって言ってたもんね。きっと、体が癒しを求めてるんだよ。あ、そうだ。これ、あげるから行ってこい」


 ケンケンは、折りたたまれた紙を手渡してきた。


「なんだよこれ」


 広げると、何かのチラシだった。


「俺の母ちゃんがやってるマッサージ屋のクーポン券。いやらしいとこじゃないから安心して」


「いらないよ」


「いいからいいから、気が向いたら行ってよ。じゃ、俺は今から塾だからバイバーイ」


 すっくと立ちあがって、颯爽と自転車で去っていった。


 僕は、ケンケンからもらったマッサージ券をろくに見もせずコンビニ前のごみ箱に捨てようとした。


 そのとき、はっとなって手を引っ込めた。あの女の人も、こういう気分だったのではないかと。気が向いたら来てよと渡されても、心は全く動かない。


 ふぅ、と肩を落とす。心の奥がちりりと痛んだ。どうやら僕は、気づかないうちに期待していたらしい。いや、と思い直す。マルマリが変なことを言ってきたから気になっただけだと痛みを無理やり打ち消した。


〝アロママッサージ60分四千円〟→〝お試し・ハンドのみ10分五百円〟


 ケンケンからもらったチラシを見つめる。安いのか高いのか僕にはよくわからなかった。マッサージなんて贅沢すぎる。あとで、岬さんにでも渡そう。


 とにかく今は、マルマリの捜索願を出すのが先だ。余計なことは考えずに、コピーしたポスターを近所の人や店に配ってまわった。


 その途中、誠の家の前で足が止まった。『フラワー・クリーニング』は、数か月前にリニューアルしたばかりで、外観や幟は新品みたいにピカピカと輝いていた。ちょっと前までは、商店街に佇む古びたクリーニング屋だったのに。


 うちの店だって、かなりガタがきている。毎年、台風の時期は飛ばされないか心配になる。父さんは、母さんとの思い出がつまっているからと、頑なにリフォームを嫌がる。僕だって、完全に形が変わってしまうのは嫌だけど、いつかは誠の家みたいに全面リフォームしないと維持できなくなるだろう。


「こんにちは」


 店の自動ドアを進むと、カウンターの奥からふくよかな女性が出てきた。


「あら、洋ちゃん」


 誠のママである、日菜子ひなこさんが笑顔で迎えてくれた。誠には、兄が二人と姉と妹がひとりずつの五人兄弟だ。一番上の兄ちゃんはもう社会人で、二番目は県外の大学に行っていて、姉ちゃんは彼氏と同棲中らしい。


「あの、これ……」


「なに? 迷い猫? あらあら」


 日菜子さんは、初めて見たような口ぶりだった。


「誠から聞いてませんか? この猫を飼いたいって」


「この猫だったっけ。あの子、しょっちゅう連れてくるからいちいち覚えてないわ」


「モエが、アレルギーって」


「ああ。あれね、嘘なの。そうでもしないと、また連れてくるでしょ?」


 日菜子さんは声を潜めた。


「嘘だったんですか……」


「ほら、うち洋服扱うから。毛とかついちゃうといけないし。最高の仕上がりを謳ってるからには、信用って大事じゃない。動物は嫌いじゃないんだけど」


「じゃ、そう言えばいいんじゃないんですか?」


「何回も言ったわよ。でも、効かないんだもん。だからね、私も少しだけ大げさに言ったのよ。〝モエが死んでもいいの?〟って」


 日菜子さんの言葉を聞いて、胸が苦しくなった。たとえ嘘でも、自分のせいで家族が死ぬかもしれないなんて言われるのは、そうとう堪えただろう。


それと同時に、ひとつ疑問が浮かんだ。誠に確かめてみたくなった。


「誠、いますか?」


「あ、呼ぼうか? まことぉー。洋ちゃん来てるよ。まぁことぉー」


 日菜子さんが声を張り上げるが、誠の姿は一向に見えない。


「大丈夫です。直接呼びに行くんで」


 店を出ると、裏口に回った。誠の家は店のすぐ裏にある。玄関は常に開けっ放しで、不用心だけど泥棒に入られるような心配は一ミリもない。荷物や洋服が散乱していて、文字通り足の踏み場がない。家の方はリフォームがされていないので、かなり年季が入っている。壁はぼこぼこだし、あちこちつぎはぎだらけ。テレビでたまに見る、大家族の家にそっくりだ。


「誠、いるか?」


 みしみし、と階段を下りてくる足音がした。


「あ、洋ちゃん。マルマリは元気?」


「うん。ちょっと、訊きたいことがあるんだ」


「何?」


「なんで誠は、マルマリをうちに連れてきたの?」


「えっと、それは、ママがダメって。モエがアレルギーで……」


「それは聞いた。おまえ、マルマリが初めてじゃないんだってな。ママが言ってたぞ。しょっちゅう、猫を拾ってきてたって」


「うん」


 誠は、僕が何を訊こうとしているのか見当もついてない様子だ。


「今まで、うちに猫を預けにきたことなんて一度もなかったよな? 今までは、ママにダメだって言われたあとはどうしてたんだ?」


「拾った場所に戻しに行ってた」


「だよな。じゃ、今回マルマリをうちに連れてこようと思ったのはなんで?」


「最初は、病院の駐車場に戻そうとした。ごめんねって言ったら、そのときマルマリが喋った」


「何て?」


「置いてかないでって」


「それから?」


「優しくて強い人のところに行きたいって言った」


「え? なんで、それで僕なわけ?」


「洋ちゃんは、優しいよ。それに、強い」


 誠は、穏やかな表情で告げた。


「僕が、強い?」


初めて言われた。いくら年上だからって、こんなやせっぽちで臆病なやつが強いわけないじゃないか。


「だって、ママが死んでも泣かなかったんでしょ?」


 まっすぐに見つめられた。嫌味ではなく、純粋な気持ちで言われて余計に恥ずかしい。僕は、強くなんかない。


「だから、うちに連れてきたのか?」


「うん」


「なんだよそれ。まるで――」


 ――運命じゃん。


 僕は、ひとりごとのようにつぶやいた。


 誠の説明によると、マルマリと会話したのはそのときだけだったという。突然、声が聞こえたらしい。

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