第3話 [契機]
*
スマホで時間を確認して、サドルに跨った。店に戻るのは早くても五時半。閉店時間は七時だから、急いで店仕舞いを手伝って、七時半に出れば八時三十五分の上映時間には間に合うだろうと見積もる。ぶっとばしたら、『ユナイテッドシネマ福岡ももち』までは約一時間で着く。
僕の楽しみは、月に一度映画館に行くこと。半年も待てば、たいていの映画はサブスクで観られるけど、やっぱり映画は映画館で観るのが一番いい。あの大画面で見る迫力や臨場感はスマホの小さな画面では味わえない。今時そんなの流行らないよと言われるけど、ネタバレサイトも倍速再生にも反対派である。
映画館へひとりで通うようになったのは高校に入ってから。それまでは、父さんに車で送ってもらっていたが、毎回頼むのも悪いと思って、自力で行くことにした。電車やバスを乗り継いで行くよりも自転車の方が早いということに気づいたのはつい最近のこと。自転車はコスパ最強。ガソリンは若さと気合いさえあれば永久に無料だし、渋滞に巻き込まれることもない。これさえあれば、僕はどこへでも行ける気がする。
海岸沿いを走るのはいつだって爽快。キラキラと輝く海と太陽が目にまぶしくて、穏やかな風が頬に当たって気持ちいい。下り坂になると両足を広げて漕ぐのをやめる。体中に潮と風を感じる。これが最高なんだ。
あと一時間もすれば、完全に陽が沈むだろう。サンセットビーチを待ちのぞむ人たちがぞろぞろと移動する時間帯。有名店のテラス席は連日予約で満席らしい。うちの店も、こういう売りがあればもっと繁盛したかもしれないけど、生憎海が見えないロケーションに建っている。というか、商店街の一角にひっそりと建つ老舗店なのだ。今風のおしゃれなカフェというよりは、レトロで家庭的な喫茶店と言った方がしっくりくる。
母さんの父親、つまり、僕のじいちゃんが始めた店で、父さんは学生時代からアルバイトとして働いていたらしい。母さんに会う口実が欲しかったんだ、と照れながら話していたのを覚えている。
「ただいま」
表から店に入ると、お客さんが三組ほどいた。カウンターには常連の三木(みき)さんがいる。口ひげを蓄えた、ダンディなグランパと言った感じ。父さんと談笑しながら、コーヒーを啜っていた。
「洋介(ようすけ)くん、おかえり」
パートの岬(みさき)さんが笑顔で迎えてくれた。つむじあたりで結ったでっかいお団子がトレードマークで、白シャツとデニムをさらりと着こなす。洗練された雰囲気は、やはり彼女が都会育ちだからだろうか。岬さんは、数年前に東京から移住してきて、近くのアパートで暮らしている。ルーズソックスとポケベルが流行った世代に青春を謳歌したと言っていたので、おそらく父さんと同世代なんだろう。見た感じは、三十代前半と言っても通用しそうだけど。
以前は、某広告代理店で働いていたらしい。誰もが知っている大学を出て、誰もがうらやむエリートコースを進んだけれど、いつしか自分のやりたかったことはこれじゃないとある日突然思ったという。
SNSで糸島のことを知り、海の近くで働いてみたいという衝動に駆られ、勢いでやってきた。週に三回店に出て、あとは趣味のワイヤーアートをネットで売ったりして生計を立てているそうだ。
岬さんみたいな人はそう珍しくない。この町は、来るもの拒まず去るもの追わずという優しいような冷たいような自由さがある。だから、好きなタイミングで現れて、好きなタイミングで去っていく。そういう人たちを僕たちは何人も見てきた。良くも悪くも僕と父さんは人に対してドライだ。寛容で、それでいて誰にも執着しない。親切にはするけどね。
凪のように穏やかな日々が過ごせればそれでいい。母さんがいなくなってから、僕たちはそうやって二人で過ごしてきたのだ。
「ちょっと、着替えてくる」
店の裏口から外に出ると、洗い場の蛇口をひねって水を出した。ここは、野菜の皮むきをしたり、父さんが煙草休憩するところ。僕は、ビーチサンダルについた砂を洗い流す。
そこへ、段ボールを抱えた子供がやってきた。クリーニング屋の倅、誠(まこと)だ。色白で華奢で天パがかわいいピカピカの小学一年生。誠の親父と父さんは同級生で、家族ぐるみの付き合いがある。
「どうした?」
「洋ちゃん、お願いがある」
誠は唇を尖らせ、泣きはらしたような目で訴えてきた。
「ん? それ、何持ってんだ?」
誠の持っている段ボールからカサコソと音がした。
「ママがダメだって。モエがアレルギーだからって」
モエというのは三歳になる誠の妹だが、話が見えない。
「だから、それは何だって訊いてるだろ?」
僕が訊ねると、誠は段ボールを突き付けるように前に出した。そっと、中をのぞくと白くてふわふわした物体が見えた。
「猫?」
痩せこけていて元気がなかったが、子猫ではなさそうだった。
「うん。拾った。病院の駐車場で」
誠は、少し苛立ったように答えた。だんだん、状況が見えてきた。
「いつ、拾ったんだ?」
「一週間くらい前。雨の日。死にかけてた。段ボールに入れて毛布でくるんで、ミルクあげてやっと少し元気になった」
誠は、あまり喋るのが得意ではない。ぽつりぽつりと状況を説明してくれた。
「ずっと、一人で世話してたのか?」
「うん」
「なるほどな。おまえはこれを家で飼いたいんだな。でも、モエがアレルギーだからダメだってママに言われたってことか」
「うん」
唇をかみしめて、こくりとうなずく。
「こいつ、かわいいなぁ」
僕は、思わずその白い物体を指でいじりたくなった。人差し指であごの下をこちょこちょと撫でてやると、猫はくすぐったそうに顔を動かした。緑と黄。目の色が左右で違って、神秘的な雰囲気を醸している。
「洋ちゃんの家で、世話して。そしたら、ぼくも見に来れる」
「えー? あー。そういうことか。うーん」
後頭部を掻きながら、首をひねった。
「おねがい」
誠は、淀みのない瞳で訴える。
「いやぁ。でもなあ。動物の世話なんてしたことないし。それに、うち飲食店だから」
我が家は、店の二階が住居となっている。猫は嫌いではないが、飼うとなると色々問題があるだろう。
「とりあえず、ここで待ってろ。ちょっと、着替えてくるから」
外階段を上って玄関を上がると、すぐに汗だくになったTシャツを脱いだ。洗濯機に放り入れ、乾燥機から新しいTシャツを抜き取る。そして、チェックのシャツをデイパックに詰め込んだ。帰りは零時近くになるだろう。肌寒くなることを考えて、持っていくことにした。
玄関を出ると、誠が不安そうに立っているのが見えた。急いで階段を駆けおりる。
「ごめんな。よく考えよう。誰か、近所の人とかで飼えそうな人はいないのか?」
「……」
誠は小さく首を振った。
「まいったな」
言いながらスマホで時間を確認する。急がないと、映画の上映時間に間に合わない。
「お願い、洋ちゃん」
「わかった。とりあえず預かる。もし、飼ってくれそうな人がいたら譲る。それでいいか?」
「うん」
「で、名前は?」
「マルマリ。片耳がつぶれて丸まってるから」
猫を抱き上げて確かめた。
「ほんとだ。右だけくるんってなっててかわいいな」
「うん」
誠の顔がぱっと明るくなる。
「よろしくな、マルマリ。あれ?」
マルマリの首にはベロア素材の首輪がついていた。真ん中には、太陽をモチーフとしたシルバーアクセサリーがぶら下がっている。
「これ、誠がつけたのか?」
「うん。マルマリが大事そうに咥えてたから」
「ふーん。もしかしたら、元の飼い主のものかもしれないな」
新しい飼い主ではなく、元の飼い主を探す方向性がよさそうだと思った。
「洋ちゃん、ありがとう」
「おう。じゃまた明日にでも様子見に来い」
「あのね、洋ちゃん。マルマリはね、喋る猫なんだ」
ふへへ。僕は思わず苦笑した。
無垢な子供には動物の声が聞こえるのかもしれない……なんてね。
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