第2話 [日常]  

  *


僕の住む町は、福岡県の北西部に位置する糸島というところで、美しい海岸線と豊かな自然が広がるとても住み心地のいい場所だ。名前から勘違いされやすいけれど、糸島は離島ではなく市の名前だから陸つづきになっている。福岡市内から車やJRで三十分というのも魅力のひとつで、観光地・移住地としても人気がある。

 何年か前から、SNS映えスポットなる店やらオブジェがあちこちにでき、雑誌やテレビで宣伝しまくったおかげで、何もなかった町はいつしか観光客の絶えない福岡の新定番観光エリアになった。

「フォトジェニックな町」とか「福岡のハワイ」とか、色んな煽り文句で彩られているらしい。翼の描いてある壁だったり、バカでかいブランコだったり、オシャレでキュートなロンドンバスのカフェだったり。

 桜井二見ケ浦の沖合に並ぶ大小二つの巨大な岩は夫婦岩と呼ばれ、恋愛成就の定番スポットとして親しまれている。その前には、高さ約八メートルの白い海中大鳥居があり、それがこの町のシンボルといっても過言ではない。


「すみませーん。サインお願いできますか?」


夫婦岩に挑むように、カメラのシャッターを切る男に言う。彼の前には、ウエディングドレスの女性とタキシードの男性が「風、つよっ」なんて言いながら乱れた髪を気にしていた。本物の夫婦だろうか。それとも、撮影用のモデルだろうか。


「ごめんねー。ちょっと待ってて」


 カメラマンの男は僕に笑顔を向けると、またシャッターを切った。「次は、お姫様抱っこで」なんて支持を出している。いつまで待たされるのだろう。砂を踏みしめながら、「早く帰りたいのに」とつぶやいた。いつも父さんから、ちゃんとサインをもらうようにと口酸っぱく言われている。信用第一・トラブル回避をモットーとした優良店。もちろん、今流行りの置き配は許されない。


「あのぉ」


 僕は、首に巻いたタオルで汗をぬぐう。まだ五月だというのに、日差しが強い。


手にした袋をじっと見つめる。自転車をぶっ飛ばしてきたから、クラブハウスサンドが崩れていないか心配だった。


父さんはこの町で小さなカフェをやっていて、僕もたまに手伝ったりする。お世辞にも、繁盛しているとは言えない。父と子が二人でなんとか食べていくのにギリギリといったところだ。僕の担当は主に配達係で、妥当ウーバーイーツ的な精神で日々自転車をこいでいる。このままいけば、料理人より競輪選手を目指すことになるかもしれない。それくらい、スピードには自信がある。ロードバイクではなくて、ママチャリってところがちょっとかっこ悪いけど。


「待たせて悪い。えっと、サインだったね」


 カメラマンの男が歩み寄ってくる。おしゃれな雰囲気の人だった。無造作パーマとモスグリーンの丸いレンズがかっこいい。


「これ、ご注文の商品になります」


〝NAGI〟という店のロゴが入った紙袋を手渡す。ちなみに、母さんの名前は凪(なぎ)砂(さ)。父さんは母さんのことを「ナギ」と呼んでいた。そのころ僕は、ママと呼んでいたっけ。


「じゃ、休憩にしましょうか」


 男が振り返って叫ぶ。被写体の二人が「やったー」と声を弾ませながら、こちらへ駆け寄ってくる。


「助かったよ。機材トラブルで撮影が押しちゃってね。朝から何も食べてないんだ。もう、みんなお腹ぺこぺこ」


「これって、結婚式用の……ですか?」


 あの二人は〝本物の夫婦〟なのかというニュアンスで訊ねた。


「いや、WEB用の広告撮影だよ。これから、夕日待ち」


 現在、夕方の五時を回ったところ。日の入りを待つには、もう少し時間がかかる。三重県伊勢市二見浦が「朝日の二見浦」と称せられるのに対し、こちらは「夕日の二見ケ浦」として有名だ。


 男の書いたサインは、字がつぶれていて何て書いてあるかわからなかった。


「どうもありがとうございます。こちら、当店のポイントカードになります。五百円で一ポイントお付けします。次回ご注文の際……」


「ああ、そういうのいいから。ポイントカードは作らない主義なんだ」


「はあ」


 僕が落胆した顔を見せるとカメラマンは、「今、君からポイントカードをもらったら、これまで断ってきたポイントがもったいないからね」と、どこかで聞き覚えのあるセリフを言ってきた。


「もしかして、かまいたちのネタですか?」


「ああ、そうそう。かまいたちのコントは最高だよね」


 男は満足げに笑っていたけど、ポイントカードのネタは漫才の方だ。僕は、あえて訂正せず「ですね」と笑顔を作って、尻ポケットにポイントカードをねじ込んだ。


 踵を返そうとしたところで、女の人が「うわぁ。おいしそう」と感動の声をあげた。


 心の中でガッツポーズをする。自転車まで戻り、三人の様子をうかがった。おいしそうに、クラブハウスサンドを頬張る姿が見えた。僕は自分のことのように誇らしくて、つい笑みがこぼれる。父さんの作る料理は、どれもおいしいんだ。

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