「泣きかたをわすれた僕に、君は愛おしさをおしえてくれた」

春雪

第1話 [序章]  

 いと 副詞

 1 大変。非常に。▽程度がはなはだしい。

 2 (下に打消の語を伴って)それほど。たいして。


 おし・い〔をしい〕【惜しい】

 1 大切なものを失いたくない。むだにすることが忍びない。もったいない。

 2 もう少しのところで実現されずに終わって心残りである。残念だ。

 3 いとしい。かわいい。


     *


 薄桃色のユリをそっと棺の中に入れる。


 父さんは小さくうなずいて僕の右手を握った。まるで、自分自身に大丈夫だと言い聞かせるみたいに。そのときの父さんの左手は震えていた。 


 棺の蓋が閉められる。すすり泣く大人たち。


 僕は、親指と中指を必死にこすりあわせた。ぱちんぱちんと心の中で音を鳴らす。戻ってこい戻ってこいと祈りながら。五歳の僕が理解できたことは、母さんにはもう会えないということだけ。明日も明後日もその先もずっと。


 記憶の中の母さんは、――人気者。同じ境遇の患者たちのマドンナだった。病院のベッドの上で、トランプやらコインを自在に操り、マジックを披露している姿が浮かぶ。いつも笑っていたし、周りを笑顔にする天才だった。僕は母さんにマジックをひとつだけ教えてもらった。目の前にあるコインを手の甲にこすりつけると消えてしまうというベタな技。指をパチンとスナップすると、別の場所からコインが出てくる。


 もっとたくさん教えてもらえばよかったと後悔してももう遅い。母さんの胸にできた小さなしこりは日に日に大きくなり、消してもまたぽつりと現れる。そいつは、母さんの全身を蝕みだした。そして、僕と父さんから奪っていった。


 父さんは、奥歯をかみしめて無表情を決め込み、参列者に頭を下げつづけた。母さんが死んでも父さんは涙ひとつ見せなかった。どんなにつらくても泣くなと教えられているみたいだった。


 だから、学校でクラス全員に無視されたときも、好きな女の子が親友の彼女になったときも、尊敬していた先輩にお金をだまし取られたときも僕は泣かなかった。いや、泣けなくなっていたんだ。五歳の僕が涙の源を封鎖しちゃったから。


 何かに期待して裏切られるのはもう嫌だ。神様への『一生のお願い』は何度唱えたかわからない。一度も叶ったことはないけど。いつしか、感情に蓋をするようになった。そしたら、好きってなんだろうとわからなくなった。


 これは、「好き」の向こう側にある「愛おしい」という感情を知るまでの物語だ。

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